004. 新居
草むらで目を覚ますと、空には星が見えた。ズキズキと痛む頭に手をやれば、髪が血で固まっている。心臓から血液が押しだされる度に、頭が痛む。
「治れ、治れ、早く治れ……! 」
息も絶え絶えに言うが、治るわけが無い。念じて叶うなら、魔法学など不要だ。そもそも、魔力で自然治癒するのは致命傷ぐらいで、治癒は人の意志でどうこう出来るものではない。加熱と冷却、これが魔法のすべてである。つまり怪我の手当ては、温めるか冷やすしか出来ないのだ。
自然治癒には相応の魔力が必要だが、体はいつになく重かった。仮に致命傷だったなら、すでに治った後なのか判断に迷う。体力と魔力は似ており、クタクタの今は、大して魔力もなさそうだ。念のため、体内の魔力を動かして確認しておく。
右手を上げ、魔法を構築する。少し動かすだけで、体がきしんだ。上げた腕に血は見えないから、ただの筋肉痛らしい。だるさに抗い、ダラダラと魔法を発動する。指先に小さな炎が出た。魔力の減りは、わからなかった。どうやら、気が滅入っているだけで、思いのほか魔力は消耗していないらしい。まぶしさに目を細めつつ、炎で辺りを照らした。
地面から見上げても、草の姿しか見えなかった。おそらく、シェーヴ川の河川敷にいる。気絶した後、そのまま放置されたのだろう。……こんな体で、先のことは考えたくない。これからどうすれば良いだろう。いくら待っても、助けが来る当ては無い。まずもって、この糞溜めに誰が来るだろうか。せいぜい、人のことを殴りつける連中ぐらいだ。
肌寒さを感じ、ふと体を見下ろす。ズボンが膝まで下ろされ、シャツも捲り上げられていた。おおかた、盗もうとして、金目のものが無いと気づいたのだろう。粗末な服は焼け焦げていて、一見して金になるとは思えない。ほかに所持品はない。情けない現状に、絶望感が広がる。たった数か月、伝令を待つだけで全てが解決するはずだ。それなのに、私は寝る場所にさえ苦労し、悪夢まで見ている。
草を踏む音が聞こえた。指先の炎を向けると、緑の目がいくつも光っていた。息をのむ。刺激しないように、ゆっくりと反対側を照らす。こちらも、無数の青い目が私を見ていた。辺りを獣に囲まれている。ぼんやりしていた意識が覚醒する。両手に魔力を集めた。指先の炎を揺らめかせながら、手のひらに魔法を構築する。息を殺し、ゆっくりと立ち上がる。そして、大きな火炎を放出すると共に駆け出した。
川から遠ざかるように必死で走った。燃える草の熱気を背中に感じた。獣たちがギャーギャーと鳴いている。河川敷の草むらを抜けたところで、火炎の放出を止めた。背中はぐっしょりと濡れ、めまいがした。獣が追って来ないか、振り返って確認する。……何も見えない。どっと安堵して、その場に崩れ落ちる。
思わず炎を浴びせてしまったが、運よく逃げ切れた。炎に巻いたところで、冷気を身にまとうから、さほど意味のない対処だった。もし煙を嫌がる場合でも、大量の煙があれば、獣より先に人間が倒れてしまう。今回は、単にテリトリーを出られただけだろう。
気がつけば、後頭部に魔力が集まっていた。走ったときに傷口が開いたらしい。自然治癒が始まり、徐々に痛みが引いて行く。魔力で治るのは、致命的な部分だけだ。あとの傷は、しばらく残るだろう。じっと地面に横たわり、荒い息を整える。そして星空が薄まる頃、私のもとに足音が近づいた。
「おい! こいつだよな? 背中まで血まみれだぞ」
「まだ生きてた、良かった……!」
「ああ、とりあえず移動させねぇと。おいお前、歩けるか?」
二人の声は、気絶する前に聞いたような気がした。歩けるかと言われても、殴られたせいで歩けない。かすれた声で答えると、小柄な少年が、私を背負ってくれた。いきなりのことで信用は出来ないが、さしたる抵抗も出来ない。今のところ、害意は無いように感じた。
子ども達は十歳前後に見えるが、見掛けに寄らず筋力はあった。五つは年上の私を背負い、しっかりとした足取りで進んで行く。見覚えのある二人の隣には、無言の少年がいた。三人組で行動しているらしい。途中に交代し、無言の少年にも背負われた。しばらく身を預け、その後は二人の肩を借りて歩く。
朝日が昇る中、汚れた街並みを進む。道中は誰も喋らなかった。少女は目を伏せ、時折こちらの様子を窺っている。入り組んだ路地を抜け、教会のシンボルを付けた建物に着く。近隣より数倍は広い間口だ。威勢のいい少年が言う。
「これが俺たちの孤児院だ!」
建物には入らず、通りから見えない裏手へ連れて行かれた。
「まずは臭ぇ体を何とかしないとな。おい、手伝おうか?」
「いや、自分で脱げる」
ズボンから足を抜こうとして、めまいがした。しゃがんで、シャツを脱ぎ始める。モタモタしていると、少年に手伝われてしまった。木の椅子に座らされ、ペタペタと頭に触られる。
「髪が酷いな。切るか!」
「い、いや。洗うだけ十分だ」
気力が無くとも、勢いに流されてはいけない。きちんと主張する。
「傷口が見えねぇし、毛がないほうが早く治るだろ? ……うわぁ、蟻まみれだ」
「やっぱり切ってくれ」
私の髪が、蟻まみれ? しかも傷口だぞ。人食い蟻など一思いにやってくれ! そう思った直後、頭部に魔力が集まり、冷気が発生した。遅れて髪の焼ける嫌な臭いがする。……こいつ、切るんじゃなかったのか。確かに、燃やせば一瞬で髪は無くなるが、それは乱暴すぎるだろう。おい、どこまで燃やしたんだ、後ろ髪だけだよな? 思わず口に出る。その流れで全身を拭われ、さっぱりさせられた。炎で乾かす頃には、私の気力も大分回復していた。
「お前、名前は?」
「カハル・ハリントンだ」
「カハルか! 俺の名前はリアムだ!」
用意された古着は、焦げ穴がなく、すすけてもいなかった。身綺麗になり、気分が軽くなる。そして、ようやく建物に入れるらしい。私より二回りは小さい少年が先導する。孤児院の中には、小部屋が並んでいた。部屋は、馬車の一台も入らないほど狭かった。
「みんな、綺麗にして来たぜ。こいつの名前はカハルだ。院長先生は戻ってるか?」
「生きていて本当に良かった! 死んだかと思ったんだよ?」
道中、チラチラとこちらを見ていた少女が叫び、頭痛に響いた。寡黙な少年がモソモソと喋る。
「ご、ごめんよ、カハル。目を覚ました途端に叫ぶもんだから、襲われると思って殴っちまったんだ」
「ショーン! だからって、あんなに強く打たなくても良かったじゃない! あれで死んでいたら、あなたも川原行きだったわよ!」
甲高い声が、遠慮なく響く。ショーンと呼ばれた少年の、モソモソ声を見習って欲しい。あれは頭にノーダメージだ。
「カハル、こいつを許してやってくれないか? とっさにサラを守ろうとして、力を加減出来なかったんだ。それに、カハルに帰る場所が無いなら、怪我が治るまでうちで面倒を見るって院長先生が言ってるんだ」
「院長先生なら、働き口の紹介もしてくれるよ!」
椅子に座り、またしても鈍り始めた思考で、言われた内容を咀嚼する。……あぁショーン、頭の傷は、お前がやったのか! ノーダメージどころか、フルダメージの原因だよ。それと、川原行き? 面倒を見る? 働き口? 頭が回らず、今一つよくわからないが、良さそうな話に聞こえた。私の前に具のないスープが運ばれる。
「修理した靴を届けた帰りに、カハルを見つけたんだ。ショーンが殴っちまったけど、脚に傷跡がなかったから、帰る家がないだけじゃないかと思ったんだ」
脚の傷跡とは、この辺りの私刑のことらしい。大腿骨を砕いて、治るまで川原に放置するから川原行きと呼ばれるそうだ。あまりに人望がない者は、誰にも食事を運んでもらえず、そのまま飢え死ぬという。
「見せしめだから、みんなが知っている人がなりやすいんだよ。でも、カハルの顔は見たことなかったから、本当に脚が折れているか確認したの!」
服を戻さなかった訳は、傷が無いと一目でわかる状態にして、私の身を守るためだった。あんな恰好で寝ていれば、流石に無害だと分かるのだろう。話を聞きながら、塩味のスープを食べ終えた。今までで一番薄く、一番美味しかった。
「それで、院長先生に相談しに帰って来たんだ。カハルを運ぶにしても、荷物を置かないと持てないからな。本当は、誰かを置きたかったんだが、三人しかいないから全員で戻って来たんだ。あんな時間に一人でいる訳にいかないからな」
「すぐに戻りたかったけど、院長先生が朝まで出ちゃダメ、致命傷なら自然治癒するから大丈夫だって言うから行けなかったの。ごめんね、カハル」
結局、夜明け前に私が河川敷を燃やした騒ぎで駆け付けてくれた。咎められるかと思ったが、川原の火災は延焼の心配がない上に、日常茶飯事だと言う。悪臭だけでなく、危険な場所であった。
「起きたら、青い目の獣に囲まれていたんだ」
「青い目? たくさんいたなら、山猫じゃないか? カハルは便所に寝ていたし」
私が寝床に選んだ場所は、特に草が茂っていた。身を隠せると思ったのだが、……あそこは山猫たちの排泄エリアだったらしい。背中のゴツゴツとした感触を思い出す。あの石はひんやりしていたな。リアムの声が、耳を素通りする。
「ショーンの奴、寝る前にいきなりベッドをバラシ始めたんだぜ。二段ベッド二台をバラして、二段一台と三段一台に組み替えたんだ。一段分はどこから来たんだよ!」
疲れ切って、身綺麗にして、お腹も膨れた私は、睡魔に襲われていた。体の動かない夢で、怪物と戦ったのは昨晩だ。悪夢から覚めてすぐに殴り倒された。日が昇る前に意識が戻り、川原から孤児院まで移動して来た。そして、怪我が治るまではここにいられるらしい。
正直、殺され掛けたことに見合うのか分からない。とりあえず今は、飢え死にから救われたとでも考えるか。どうせこれ以上は、何もできない。案内されたベッドで、下段に乗り込んだ。今度は、デコボコしていない寝床だ。硬く平らな感触に背中を合わせ、ゆるやかに意識を手放した。