003. 夢現
仄暗い洞窟を歩いていた。長く続く通路の先には、開けた空間が見える。岩肌を照らすのは、月明りだ。ざらざらとした壁面は黒く、地面は拳大の石で覆い尽くされている。ふと、自分が石を踏む音に気づいた。足元の鈍い音を聞きながら考える。どうして、こんな場所を歩いているんだ……? 周囲を見回そうとするが、体の自由が効かない。私の足が一歩進むごとに、月明りは近付いていた。
こんな状況でも、落ち着いていることに違和感を覚える。心臓の鼓動を感じない。石を踏む音は聞こえるが、足裏の感触がない。私の眼球は、行く先を正視していた。すぐ近くの壁面でさえ、焦点を合わせられない。それでも、意識を集中させてみる。私の傍の岩肌は、赤紫の光を反射していた。とりわけ珍しい色でもないが、赤紫の光と言えば、我が子爵家の魔力色だ。魔法になる前の純粋な魔力は、出身地等により固有の色を持つ。もっとも、血統を推測することぐらいにしか使えないし、そもそも発光しないものだ。しかし、思い当たる節があった。
生まれてから死ぬまでの間、魔力色はほとんど変化しないと言われている。罪を犯せば汚れるが、人が見て分かるものではない。それが分かるのは、死後の審判である。純白に光り輝く神の目が、死者の魔力を透かし見る。そして、清らかな魂と汚れた魂の選別が行われるのである。
私の足が向かう先は、広い空き地だった。そこに降り注ぐ光は、通路の奥深く、こちらの方まで照らしている。相変わらず、近場はぼやけている。諦めて、焦点付近の壁面を観察してみる。ぼんやりと紋様が見えた。
……黒くざらざらした岩肌だと思っていたが、どうやら紋様が刻まれているようだ。壁を埋め尽くす彫刻の影が、壁面を黒く見せているらしい。いや、壁だけでなく、通路の天井にも紋様が刻まれている。もしかすると足元の石の下にも、隙間なく彫られているのだろうか。感覚がないはずの背筋が寒くなった。訳の分からない現状に、疑問が押し寄せる。
――ここはどこなんだ? こんな遺跡の話は、一度も耳にしたことがない。それ以前に、何故ここにいるんだ? 私は死んだのか? あの悪臭が漂う河川敷で、惨めにも死んでしまったのか? どうして体が言うことを効かない?
どれほど混乱しようとも、私の体は前進を続けた。遠くに見えた空き地は、今や目前となり、幾ばくもなくこの通路は終わる。周囲は明るさを増し、壁面が見やすくなった。紋様をよく見れば、細かな文字であった。どこの国の文字かはわからないが、文字が紋様をつくり、岩肌を埋め尽くしていた。私の後ろに響く足音は、通路が長く続いていることを示している。もし、この通路の全面に文字が刻まれているのなら、途方もない時間を掛けられている。
降り注ぐ光が強まり、心に落ち着きが戻る。とうとう足を踏み入れた空き地は、焼けた屋敷にあった家畜小屋が、三つは並ぶような広さだ。つまり、中規模の礼拝堂ぐらいはある。私の体は、そのまま中央へと向かった。これまでと変わらず、地面には石が敷かれている。円筒形に切り抜いた形の空間で、上方は見えなかった。中央でようやく足が止まり、私の顔がおもむろに天を仰いだ。
視線の先に天井はなく、異形の怪物が浮かんでいた。落ち着いた心が、恐怖で上塗りされる。その怪物は、巨大な翼に馬や牛の体があるような気がした。しかし、私の目は直上の光に向けられており、中空の怪物には焦点が合わない。私に気づいたのか、怪物の低い声が響き渡った。
「……十三」
抑揚のない声が聞こえると同時に、地響きが始まった。壁に近い地面が落ち、円形の床が外側から次々と落下する。地面が体を揺さぶり、立っていられなくなる。私の体が、棒立ちのまま倒れる。
地面にぶつかった体は、痛かった。広がる痛みとともに全身へ感覚が戻っていく。心臓は、バクバクと早鐘を打っていた。鼓動を打つ度、冷えた体に熱が戻る。壁際から始まった崩落は広がり続け、轟音が空気を揺らした。硬直した首筋に力を入れ、来た道を振り返る。
通路があった場所には、褐色の滝が出来ていた。噴き出した水は、勢いのまま奈落の底へと落ちて行く。生臭い風が吹き抜け、息を吸えることに気がついた。浅く短い呼吸を感じながら、目をつむる。地面の揺れと、空気の揺れが肌を震わせる。このままでは、助からない。地面の割れる轟音は響くが、その後は落下音しか聞こえない。次々と割れて崩壊するが、落ちた先でぶつかる音がない。落ちた先に地面がないのか、遥か先にあるのだろう。つまり、このまま落ちれば、こぼしたお茶のように地面の染みとなる。もしくは、あの褐色の滝に混ざるのかも知れない。
落ちずに、助かる場所があるとすれば、壁か? 壁に張り付いて、その後はどうする。上へ登るか? 上に行ったところで、あるのは怪物と光だけだ。あの光までたどり着けば、助かるのか? ……地面が残り少なくなってきた。そろそろ横になる場所も無くなる。震える足をもつれさせ、尻もちを付きながらも何とか立ち上がる。遥か上方の光まで、仮に壁が続いているとしても、恐ろしいのはあの怪物だ。あの怪物をどうすれば良い? 逃げられるのか? それとも倒せるか?
ここが崩れるまで、あと数秒か――。地面にしゃがみ、両手に石を握る。魔力を足元に集め、爆発の魔法を構築する。頭上の怪物まで冷気の通り道を作りたいが、間に合わない。せめて、吹き飛ばされる方向を定めたい。とっさに頭上へ冷却魔法を構築し、そこで時間切れだった。ガクンと足が落ちた瞬間、上下の魔法を起動させる。頭上の空気が限りなく冷却され、上昇気流が巻き起こる。僅かに遅れて足元が爆発した。――これまでに経験した、どんな衝撃よりも強いエネルギーを受け、下半身が軽くなる。凄まじい勢いで体が上昇し、怪物の存在感が近付く。体を丸めているのに、怪物の視線を感じた。身をすくませながら、怪物を抜き去る。少しして上昇が止まった。石を握る手を大きく振りかぶる。……大丈夫だ、腕はまだ肩に付いている。次の瞬間、私を仰ぎ見る怪物に向かって落下が始まった。
怪物の頭部は、人間だった。息を止め、狙いを定める。しかし、怪物と目が合った途端、視界が消失した。浮遊感と風を切る音は変わらないから、未だ落下中なのだろう。ただ目が見えないだけだ。不自然にも冷静なのは、あの光に近いためか。怪物までの距離は、あとどのくらいだ? そう考えた瞬間、衝突した。まず、突き出していた石が当たる。怪物の骨を砕く感触があった。そのまま無茶苦茶に殴りつけると、手から石が滑り抜けてしまった。体勢を崩し、前のめりに倒れた勢いで、何かに噛みつく。首を左右に何度も振り、ようやく嚙み千切ったところで、私の意識は途絶えた。
◇◇◇
はぁっはぁっと肺が空気を押し出す。苦しくなって大きく口を開くが、喉に空気が入らない。
「なぁ、やっぱり放っておこうぜ? こいつ絶対ヤバいって」
「ねぇ、君。おーい、君、大丈夫?」
頬を叩く感触に目を開き、飛び起きた。目を見開いた少女が手を伸ばしていた。
「うわっ! びっくりした。ねぇ、大丈夫なの?」
心臓が早鐘を打っている。貼りついた喉に空気が通った。
「ッッ、うおぉぉぉぉぉぉーー!!」
夜闇に声が轟き、一瞬、辺りが静まり返る。そして、私の周りにいた子ども達が叫んだ。
「ぅうあぁぁぁぁぁーー!!」
後頭部に衝撃を感じ、視界が真っ白になる。その一撃で意識を失った私は、夜通し無防備な体を晒した。