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002. 彷徨

 叫び出したい衝動を抑え込み、建物を出る。初めに尋ねた数軒では口汚く罵りもしたが、今の私は、それが無駄であると知っている。たとえ、辺り一帯の支配者たるハリントン子爵の跡継ぎだとしても。たとえ、祖母に両親と弟さえも急死し、いまや私が当主であるとしても。それを証明できなければ、あろうことか、この私が、唾棄すべき詐欺師の汚名を着せられたとしても、ただ情けなく喚き散らすほか無いのである。


 屋敷跡には、戻れない。あの場所は()()を被り、焼け焦げた臭いに覆われている。特に家畜小屋から漂う腐敗臭は増すばかりで、耐えられるものでは無い。貰った銀貨で、パンを二つ買った。ずっしりとして、木材のような触感だ。これで手持ちのお金は無くなった。行く当ては、とうとう見つからなかった。


 他領への旅路は、危険を伴う。少なくとも、複数の護衛が必要だ。道中の食事も用意しなければいけない。私が王都へ出向くよりも、ここで伝令を待つほうが遥かに容易である。すでに二度、伝令が送られている。子爵家断絶の危機を知らせる先発と、私が帰郷した際の次発だ。


 帰郷した私が見たものは、がらんどうの屋敷だった。五十人以上いた使用人や護衛たちは、誰一人として残っていなかった。照明から椅子の一脚に至るまで、家財はすべて消えていた。その惨状を見てすぐに、支援を求める伝令を送り出したのだ。


 酷いものではあるが、この時点なら、まだ取り返しが付いた。留学先から連れ帰った使用人たちがいたからだ。その七人と、手持ちの資金を使えば、いかようにも対処できたはずだ。致命的な事態が発生したのは、その夜だった。


 空っぽの屋敷で、野宿用の寝具に身を包んでいた。寝るときは最悪の気分だったが、寝起きはもっと悪かった。突然、身ぐるみを剝がされたのだ。何とか自由の身になったとき、荷物は残っていなかった。留学に付き従った者たちが、裏切ったのである。屋敷に火を放ち、私を残して消息を絶った。あとに残ったのは、崩れた屋敷だけだ。焼け跡から、辛うじて粗末な服を見つけたが、それも焦げて穴が空いていた。


 離反されたのだから、次発の伝令も送られていないだろう。しかし一文無しで、顔見知りさえいない私に出来るのは、先発の伝令の帰りを待つことだけだった。そうは言っても、一文無しでは食べることもままならない。そこで、取り急ぎ当家と関わりのありそうな場所を回ってみたのである。


 ――結果は、全くもって想像の埒外だった。仮に、私が子爵家の名を騙る不届き者だったとしても、一人の人間を養う費用など、高が知れている。無論、騙った当人は極刑だが、騙された者にまで処罰は下るまい。この状況を招いたという意味では、子爵家に連なる者から金銭的補償さえ受けられるだろう。


 対して、本物だった時の見返りは莫大である。それなのに、誰一人として、その選択を取らないということは、私の知らない事情があるに違いない。十数件も断られた今なら、いくら私でも流石に裏があるとわかる。


 まず、子爵家の最後の生き残りとして命を狙われており、いずれ暗殺される可能性だ。私の言葉を信用し、丁重にもてなしたとする。しかし、その保護下で殺されたとあれば、確かに一定の責任を問われるかも知れない。


 次に、当家が断絶すると思われている可能性だ。私を援助したところで、見返りが無ければ、なるほど見捨てることもやむを得ない。その後のしがらみも厄介に違いない。


 他に考え得ることは、何者かによって私の存在が隠匿されており、下々の者が肖像画さえ目にしたことがない場合だ。何しろ七年も留学している。陰謀により私の存在が知られていないとしても、無理筋とは言い切れない。


 あの夜、屋敷の炎を消す者はいなかった。陽が完全に昇った頃、ようやく役人たちが見に来た。彼らは、いくら私の屋敷だと言ってもまったく耳を貸さなかった。恐らく、離反した者たちが先んじて手を回していたのであろう。それにしては、私を殺さずに放置していることは、甚だ疑問であるが。


 とは言え、正直なところ、万事憶測するしかないのだ。金も情報も立場も無い現状では、調査させることも叶わない。それに、こんな状況でも殺されていないのだから、今さら暗殺者など来ないと思っている。机のように固いパンを嚙み切れず、ぼんやりと舌で湿らせた。


 ――足の痛みに耐えかねて、大通りに座り込む。足を投げ出し、くたびれた革製の靴を脱いだ。屋敷を出たときは、足に薄い端切れを巻き付けていたが、すぐに外れて足裏の皮が剥けた。そして、必死になって汚い布を結んでいる私に、初老の男が靴をくれたのだ。男の履いていた靴は、私の足には大きかったが、裸足同然で歩くよりは遥かに楽だった。


 不意に、どこかで怒声がした。先ほど休んだときは息つく間もなく、通り沿いの住人が生ごみ投げてきた。目を付けられない内に、ここからも移動すべきだろう。根を張る足をドンドンと力を込めて叩き、何とか立ち上がる。続く一歩で、当てのない歩みを再開する。


 街行く人々を眺める。人の流れに着いて行けば、集合住宅に行き着くだろう。しかし、そこに私の居場所はない。それでは流れに逆らって、坂を下りるのはどうか。……ふと、面会の場で耳にした、シェーヴ川の名前が脳裏をよぎった。もし、そこの住人のように見えると言うのなら、今夜、私が身体を休める場所ぐらいは見つかるだろうか。


 陽が落ち、暗闇に目が慣れ始めた頃、ようやく河川敷にたどり着いた。川沿いの砂利には、百メートルほどの間隔で人影がある。寝転ぶ者、叫ぶ者、中空に話し掛けるもの。どれも背は低く、大人には見えなかった。泥を混ぜるような思考速度で、横になる場所を探す。盗られるものが無いなら、どこでも良いか。小道を外れ、やけに草の生い茂る場所に倒れ込んだ。草のある割に、地面はごつごつとした石が並んでいた。絶え間のない虫の鳴き声が、思考を遮る。


 残暑の生温い風が吹き、運ばれて来た臭いにえずく。幼いころ、屋敷から見たシェーヴ川は月明りに美しく輝いていた。しかしその正体は、糞尿の悪臭を放つ汚れた川だったらしい。


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