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001. 孤立

「当商会で働きたいとのことですが、まずは簡単な自己紹介と志望動機をお聞かせいただけますか?」


 向かいに座る男の、ニヤニヤとした表情が気に食わない。栗色の口ひげから覗くシミだらけの唇は、話すたびに唾を飛ばす。たるんだアゴはシャツの襟に乗り、ネクタイの結び目を覆い隠している。席に着いたばかりの男は、さっそく上着の内ポケットをまさぐり、煙草のケースを取り出した。


 右手の指先から炎が噴き出し、煙草の先端を焦がす。赤く火が付き、汚い口が煙を吸い込む。私への応対よりよほど丁寧な所作は、ここに来るまでに見慣れてしまった。男の肺が満たされるより早く、言葉を返す。


「改めて、私はハリントン子爵、カハル・ハリントンだ。故あって、屋敷や使用人を失ったが、一時的なものだ。数か月後には、王都から伝令が戻る。それで私の身分を証明出来るだろう。多少の時間は掛かるが、相応の礼も約束する。だから、それまでの間で構わない、貴君の商会で仕事を貰えないだろうか」


 幾度となく繰り返した言葉を、今度はこの男に伝えた。辺りに煙が広がる。


「それで、どうしてうちに来ようと思ったんです? 入り用なら、金貸しにでも行けば、手っ取り早いでしょうに」


 もはや観劇しているような好奇の視線を投げ、ゆったりと次の煙を味わう。……どうせ聞かれることは決まっている。すべて言ってしまおう。


「出入りの銀行と商会は、とうに訪ねた。だが、七年ぶりの帰郷で、顔なじみがいないのだ。盗っ人のせいで屋敷はもぬけの殻、留学先から持ち帰った荷物は、使用人どもに奪われた。子爵家の生き残りは私だけなのに、しまいには屋敷まで焼け落ちた。無論、領地からの収入はあるし、当家の資産を集めれば、再建は難しくない。……ただ、私の顔を知るものがいなくてな。王都に窮状を知らせるにも、先立つものがない。すでに送った伝令さえ戻れば、難なく解決するのだが――」


 行き詰まった現状を打ち明ける。本来、ハリントン子爵とは、辺り一帯を治める支配者である。その跡継ぎたる私が助けを求めているのだから、二つ返事で応じるのが当然のはずだ。しかし、これまでの者たちと同様に、男は歯茎が見えるほど笑みを深め、嘲るように口を開いた。


「左様ですか、それはそれは。まだお若いのに、さぞや大変だったことでしょう。いやはや、それほど高貴なお方なら、急場の支援を募ることなど、容易いことだと思いますがねぇ?」


 男の口調が変わる。


「……まぁ、君の度胸は認めるよ。だが、私も仕事が溜まっているんだ。そろそろ、本当の名前を聞かせてくれるかい?」


 男はティーポットを手に持ち、炎で包み込んだ。十秒ほどでグツグツと再沸騰し、二つのカップに注がれる。湯気の立ち昇るお茶が、私の前に置かれた。口元まで出かかった汚い言葉を飲み込み、努めて冷静に答える。


「何度でも言おう。栄えあるアルバニウム王国の崇高なる陛下に誓って、私の名前はカハル・ハリントンだ。確かに、子爵の印章も系譜書も見せることは出来ないが、伝令さえ戻れば解決する。それまでの間で良い、ほんの数か月だ。金を貸せとも言わない。ただ、働かせてくれと言っているのだ。一体、これの何が問題なんだ?」


 はぁ、と嘆息した男は、飲みかけたお茶を灰皿に捨てた。赤い水面に白い灰が浮かぶ。カチャン、とカップが投げ置かれる。


「それでは、ハリントン卿。お供の一人もお連れにならず、由緒あるお屋敷もなく、貴族の証たるご印章さえもお持ちでないことが、問題なのです。その焦げ穴だらけで粗末なお召し物と、芳しい(くさい)お体だけでは、誰が見てもシェーヴ川の住人と変わりありません。さあ、陛下を引き合いに出したことは、忘れて差し上げます。今日明日の宿代もあげますから、これでお帰りいただけますか? ああそれと、もし本当に子爵様だったとしても、この宿代に免じてお許しいただけますよね?」


 まるで面白いジョークでも言ったかのように、ハハハッと大声で笑う。二枚の銀貨を机に置き、そのまま立ち上がる。出口へ向かう背中に、慌てて声を投げかけた。


「待ってくれ! 私の身分は、いずれ必ず証明出来る! いや、この場は信じなくとも構わない。だから、せめて寝る場所だけでも貸してくれないか?」


 男が立ち止まり、表情の抜け落ちた顔でチラリとこちらを見る。目を数秒間つむり、そして口を開いた。


「紹介状も無しに、こうして時間を取ったんです。もう十分でしょう。それに、たとえ高貴な身であろうと、うちで働くなら、いったい何の仕事を出来ると言うんですか?」


「私が得意なのは、修辞学だ。手紙の代筆も出来る。きっと、商売の役に立つだろう!」


 男は開けた扉を押さえ、反対の手で廊下を指す。出て行けという仕草だった。


「私を説得することさえ出来ない貴方が、当商会で活躍する姿を想像できません。大変残念ですが、他を当たってください。――さぁ、自分で出るか、警備に連れ出されるか選んでください。あぁ! 安心して良いですよ。警備へのチップは、子爵家にツケておきますから」


 初めから、わかっていた。ここに来るまでに、思い知っていた。今さらどこへ行こうと結果は見えている。当然用意されているはずの居場所は、どこにも見つからない。乾いた唇を噛み締め、机上の銀貨をポケットに入れた。


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