呼び出し 1
視界を覆うのは淡い青色。目線の先にはゆらゆら揺らめく白い光の筋。私を覆うそれが動くたび、白い光も途切れたてまた繋がってと形を変える。ふっと息を吐き出すと、空気が大小様々な泡となって、形を変えながら小さくなっていく。
ああ、ここは水の中だ。
何故、苦しくないのだろう。どうしてここにいるのだろう。私は、何だろう。わからない。
必死に伸ばす手は、掴まるところがなくてただ水を掻くだけ。遠ざかっていく泡は遂に見えなくなり、視界から消えてしまった。水に身を任せた身体は、沈んでいっているのか浮いているのかわからない。ただ目線の先にある白い光が、水の外の光であることしかわからない。それがどれほど遠くにあるのかも、水の中から出ることのできない私にはわからない。
目を閉じて、水に身を任せる。ゆらゆらと身体揺れている感覚がだんだん小さくなっていって、思考がはっきりしてくる。
眩しさに思わず目を細くする。壁の時計へと視線を向けると間もなく7時へ到達するところ。外では早くも蝉が鳴いている。
朝だ。
ゆっくり体を起こして、まだ眠いと身体が訴えているのを我慢して伸びをする。何か夢を見ていたような気もするけど、忘れてしまったから無理に思い出そうとは思わない。
「にゃあーん」
耳に自分のものではない声が聞こえて、視線を巡らせる。どう開けたのか、寝るときには閉めていたドアが開いて、その隙間から姿勢よく佇む姿が目に入る。私に認識されたことを確認したのか、ゆっくり部屋に足を踏み入れた彼女の姿に、自然と口角が上がってしまうのを自覚しながらベッドから降りる。
「おはよ、ピノ。起こしに来てくれたの?ありがと」
昼休み。空は雲が1つもない。快晴というやつだ。これが1月とか2月の事なら嬉しく思っただろうが、あいにく今は6月の終わり。じっとしていても汗が出てくるくらいには暑い。校則を守ったひざ丈のスカートが、歩くたびに足に張り付いてきて鬱陶しい。昼休みの、人でごった返した廊下を抜けて、何とか目的地へと辿り着く。
目的地、図書室に足を踏み入れると、ひんやりとした空気が体を包む。適度に涼しい空間に、思わずホッと息をついてしまう。
カウンターの横にある返却ボックスに読み終わった本を入れて、次は何を借りようかと、いつも物色している9類のコーナーに行く。適当に目についた本を数冊手に取って、今日の気分にあった本を3冊選ぶ。カウンターの図書委員のところまで持っていくと、落ち着いた雰囲気の図書委員が、慣れた手つきで貸し出し処理を始める。その間に図書室の奥に目を向けて、思わずため息をつく。
「ごめんなさい、お待たせしてしまって」
「あ、いえ。ありがとうございます」
堪えきれなかったため息は、やはり彼女に届いていた。そんなつもりはなかったのだけれど、何も知らない彼女からしたら仕事が遅いと思われていると勘違いしてもおかしくない。申し訳ない気持ちを抱きながら、本を受け取ってから、もう一度図書室の奥、読書スペースのあるテーブルに目を向ける。そこにはやっぱり想像通りの光景。期末試験を一週間後に控えた今日、男女問わず様々な生徒がテーブルに向かっている。もちろん図書室の本を読んでいる生徒はいない。みんなそれぞれ教科書やら参考書やらを広げている。いくつか開いている椅子はあるが、勉強に励む彼ら彼女らの間に座って本を読むのもなんとなく気が引ける。今度は漏れかけたため息を何とか飲み込んで、諦めてまた暑い廊下を戻る。
「おかえり~。早かったね」
教室の自分の席に戻ると前の席に座っていた女の子がスマホに落としていた目をあげる。朝倉佐夜子。中学からの付き合いで、クラスも一緒。肩にかかったゆるふわな髪の毛と、ぱっちりした二重が印象的なかわいらしい子。本人曰く天然パーマだそうで朝は大変だという。
「ん。人が多かったからね。みんな勉強してた」
「あー、テスト期間だね~。この前学園祭が終わったばかりなのにねぇ」
今は6月の終わり。ついこの間まで学園祭に向けて活気づいていた学内も、学園祭が終わってしまえばあっけないもので、来週からのテストに空気がピリッとしている。私たちの通う花峰高校は一応進学校だ。入学したばかりの私たち1年生はそれほどではないが、2、3年生は休み時間にも勉強をしている人がちらほらいる。きっと図書室で勉強していたのもほとんどがそうだろう。
「流石に、勉強している人の隣で本を読めない」
自分が頑張って勉強しているところに、隣に来た人がのんきに本を読み始めたら、私だったらその本が気になって勉強どころではない。他人の勉強を邪魔するつもりはない。
そんなことより、授業まではあと20分ある。それまでに今借りてきた本を読みたい。勉強は、とりあえず今はいいや。今は本の世界が私を待っている。
うきうきと3冊のうちの、1番気になっていた本を開く。なんだか教室がザワザワしているけど、きっと目立つ人が何かしたんだろう。よくあることだ。私には関係ない。‥‥‥そう、思っていたのに。
「雫空!やっぱりいた!」
うきうきで本を開きかけたところで、聞きなれた声が耳に入る。
小松澄香。佐夜子と同じくクラスメート。澄香は高校に入ってから知り合った。鎖骨下までのストレートの髪の毛を耳くらいの高さで1つに結んだ、元気そうな子。小学校の時からバレーをやっているらしく、先月の球技大会で活躍していた。加えて面倒見もよく、クラスの母親的存在だと(私が勝手に)思っている。本人は気にしているらしいつり目も、言うほどきつい印象は与えていないように思うのは、彼女の人柄だろうか。
そんなことよりも、
「澄香、邪魔しないで。本が私を呼んでいる」
不機嫌を隠しきれなかったが仕方ない。私の大事な大事な読書の時間を遮ったのだから。まだ、開いてすらいないのに。
「邪魔したことは謝るけど‥‥‥呼ばれているの!こっち、きて!」
「今私を呼んでいるのはこの本だけ‥‥‥」
「いいから、早く!」
「ううぅぅぁぁああ‥‥‥」
まだ1ページ目すら読んでいないのに。右腕を澄香に掴まれて立たされてしまったのだから仕方がない。名残惜しさに抑えきれなかったうめき声をあげながら、手を振る佐夜子に見送られて渋々ついていく。
澄香に引っ張られてようやく教室の入り口にたどり着いた。・・・にしても人が多い。お昼の時はそこまで人がいなかったのに、掻き分けていかないと前に進めない。まだ授業まで20分あるのに。いつもは授業開始1分前というギリギリに駆け込んでくる生徒までいるのに。顔は覚えていないけど、絶対クラスメイト以外もいるでしょ、これ。
「ごめんなさい、待たせてしまって!この子です!」
澄香に連れられてきた先で待っていたのは私と同じ1年生の女の子。たぶん。どこかで見た気もするけど、あんまり覚えていない。背中まで伸びた長いサラサラの髪。背は私より10センチくらい高いだろうか。澄香と同じくらいだから、たぶんそのくらい。すらっと伸びた長い手足に猫背を全く感じさせない綺麗な姿勢。1目見ただけでスタイルがよくて顔立ちが整っている、と思う。
「いえ、わたしこそ、ごめんなさい。急に呼んでしまって」
落ち着いた声は、透き通っていてスッと耳になじむ。微笑みを浮かべた彼女の声に、ほうっと思わず漏れてしまった声が耳に届く。もちろん私ではない。
「えっと、天崎雫空さん、ですよね?」
不機嫌を隠そうともしない私に、戸惑うようにゆっくり訪ねてくる。
「まあ」
「えっと、天崎さん。あなたとお話したいことがあります。できれば2人だけで話したいのだけれど、今日の放課後、お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
「今日の放課後……」
「何か、予定がありましたか?」
返事を渋っていると、困ったと言うように眉を下げられる。
残念ながら、これと言った予定はない。でも、今日も学校が終わったらすぐにでも帰って、今日借りた本を読みたい。それに来週はテストだから勉強もしなければならない。大変だ。大切な予定があるではないか。うん、忙しい。
「はい、大事な予定が‥‥‥」
「ないよね」
予定があるので、ごめんなさい。失礼します。と続けようとしたセリフは、隣で聞いていた澄香に遮られてしまった。このまま席に戻って本を読もうと思ったのに。
「そうですか!」
本を読むという大事な予定があるんだ、と澄香に言おうとしたところで、私の心情など知るはずもない目の前の少女が満面の笑みを浮かべている姿が目に入って、顔が引きつった。なんだか、すごく、ものすっごく、嫌な予感がする。
「では、放課後、玄関で待ち合わせましょう。よろしいですね?」
よろしくありません。そう言えたらなんと良かったことであろう。
結局私は、目の前の名前も知らない初対面の少女に、夕方の貴重な、貴・重・な!読書時間を献上することになった。




