015 霧の奥へ
数珠の巻き付けられた万里小路の拳が、今日だけでいったい何度振るわれただろうか。
襲い掛かってくる獣を文字通り一蹴し、先に進んでいくと霧の向こうにようやく洞窟らしき岩壁が見えてきていた。
「お、あれですかね?」
洞窟の周りは苔が生えており、洞窟の奥からは声のような唸りが響いている。それが風の音であると気付くのに少し時間がかかったほどだ。
「唸り声……いや風の音か。こんな音してたっけ?」
「俺らが入ったのは午後だったからな。朝一だとこうなるんじゃね?」
洞窟の奥は暗く、足元は苔が生えていて滑りやすくなっているようだった。段差のように降りるような形で岩肌が続いており、奥に進むとなると光源がないと転んでしまいそうなほどに凹凸も激しいように見える。
「あれぇ?こんな感じだったっけ?もうちょっと平らだったような……」
「あと出入り口のところ、もっと草生えてたよな?霧のせいで見えないだけか?」
「方角はあっているはずですが……ふむ……もしかしたら別の洞窟と繋がっているか……あるいは、別の角度からの入る場所があるのかもしれませんね」
「他に洞窟があったってことですか。そういうことか!だから阿部さんたちが言ってた内容と洞窟の中身が全然違ったんだ!」
実際に洞窟に入っても全く内容が違っていたために違和感は覚えていたようだが、今になってようやくそれに気づいて葛飾は頭を抱えている。鹿目も同じくしまったなぁと呟いている中で、この洞窟の中に入るかどうか、少し気にしているようだった。
「でもどうするんです?この中が原因なんですか?」
「方角的に、この山の内側というのはわかっています。もしここでなければ、もう一つの洞窟に入るとしましょう。念のためここも調べます」
「了解っす。ライトとかはもってきてるんでね、いくらでも入れますよ」
鹿目と葛飾はそれぞれライトを取り出す。これを使えば少なくとも何も見えないということはないだろう。
「急ぎましょう。早いところあの子を回収しないと面倒なことになるかもしれません」
「面倒な事って?食べられてるかもって事!?」
「いや、あの煙みたいなのが子供を食べるのか?どっちかっていうと妖怪とかの類なら、生贄とか?」
「言い得て妙ですね。似たようなものです。生気を吸い取られてしまえばそこまで。子供なので多少は問題ないとは思いますが。今ならまだ間に合う」
万里小路はライトを持つこともなく中へと進んでいく。まるで光がなくとも洞窟の中を把握することができているかのような足取りだ。
鹿目と葛飾はライトを持っている状態でさえ足場一つ一つを確認しながらの移動だというのにその速度は段違いである。
奥の方に進んでいくと、洞窟の中までは霧が入ってきていないからか、獣たちの襲撃は一切なくなっていた。その変化に万里小路も気づいていて足取りは早くなっていく。
「は、早いですよ。すごいですね!見えてますか?」
「まずいですね。ここは外れかもしれません。位置がずれてきている」
「ずれてるって、その方角?から?」
「はい。念のため奥まで見ますが……早くここを出たほうが良さそうです」
早足で洞窟の奥まで向かうとそこには池と言っていいのか、潮だまりのような水の溜まっている場所を見つける。
ここが阿部たちの言っていた光り輝く場所なのだと、鹿目と葛飾は気づいていた。
「ここか、あの二人が言ってた場所」
「今も若干だけど光ってるな。なるほど、タイミングよく来ればここがめっちゃ光ってるってわけだ」
「…………いない。ここではない。お二人とも、すぐに出ます。もう一つ、どこかに入り口があるはずです。そこに向かいますよ」
万里小路はこの場所に全く興味はないようですぐに踵を返して入ってきた道を引き返していく。そんな中、通ってきたこの洞窟に霧が入り込んでいることに全員が気付いていた。
「うわ、やばくないですか?霧が出て来たって事は……」
さすがにここまでずっと行動していれば、まったくこういった状況に慣れていないものだろうと何となく予想もできるというものだ。そしてその予想は的中してしまっている。
霧の向こう、洞窟の暗闇に紛れて赤い目が再び三人を睨みつけている。
「まただよ。また来たよ。まぁ、聞くまでもないと思いますけど、万里小路さん、どうします?」
「もちろん正面突破です」
ですよねと、鹿目と葛飾は同時に呟く。万里小路の戦い方に後退、回避、迂回などは存在しないのだ。
どんな時でも前進して正面突破。やっていることは陰陽師などのそれに近いはずなのになぜこうも脳筋的な思考回路なのかと問いたくなってくる。
だがそれで今のところ上手くいっているのがまた恐ろしい。
「ここからはお二人の記憶が頼りです。位置を確認しながら別の洞窟の出入り口を探さなければなりません」
「記憶って言ったって、俺らだっていろいろ歩いて辿り着いたんですよ?見つけられるかな?」
「でも見つけないとどうしようもないもんな。やるしかないよ」
「そうです。お二人とも、頼りにしていますよ」
襲い掛かってくる獣をさも当たり前のように叩き潰しながら、万里小路は笑顔で前進し続けている。
この構図も見慣れて来たなと、二人はもはや驚く事も怯えることもなくなっていた。どちらかというと感覚がマヒしてきたといったほうがいいかもしれない。
洞窟から出ると、周辺の霧はさらに濃くなっている。景色が真っ白に染まっている中、三人はあまりの濃い霧に辟易していた。
「すっご……こんなに霧が濃くちゃ見える者も見えませんよ」
「いいえ、むしろ好都合かもしれません。相手は我々が危険と判断して霧を集めたのでしょう」
「集めた?っていうかそれだと、この霧って誰かが起こしてることに……」
「先ほどお二人が言っていた、妖怪というのが一番適切な表現かもしれません。そういう輩がこの霧を起こしているのでしょう。眷属を使って我々を排除しようとしているのです」
「……それって、つまり……」
「……あぁ、つまりこういうことか」
濃く白い霧の向こうに無数の赤い光が見える。それが今までも遭遇してきた獣たちなのだと、二人は理解していた。
いったいどれほどの数がいるのかもわからない。だがそれらすべてがこちらに敵意を向けていることだけはどういうわけか理解できてしまった。
「こ、これさすがにやばくないです?万里小路さん、何とかなります?」
「問題になりません。この程度、押し切ります」
「めっちゃ心強い!この人なんなのマジで!」
普通この状況であれば、これがただの動物であったとしても絶望するような状況で万里小路は全くうろたえた様子もない。
それどころか、別の洞窟の入り口を探すために視線を別方向へと向けている。霧の向こう、万里小路が把握できているその方角の通じると思われるその先へと。
だが、大小問わず、その数は増え続けている。先ほど若干苦戦して倒した巨大なクマにも似た獣、そして今まで何度も倒してきた四足歩行の犬のような獣、それだけではない。他にも幾つもの、見たことのないような姿の霧の獣がいくつも湧き出ている。
ライオンのような、虎のような、ネズミのような、イノシシのような、キツネのような、イタチのような、そんな、どこかで見たことがあるようでどこか違う、殺意を溢れさせる生き物たちが並び、三人を取り囲むように押し寄せている。
「で、でもこの数、やばくないっすか?さっきの棘?で一掃できるんすか?」
「ふむ……この数、それにあまり時間をかけたくないですね。では、こうしましょう」
手にある数珠と、懐からもう一つ、輪になっていない数珠を取り出すと万里小路は腕を大きく広げてから勢い良く叩く。
辺りに拍手にも似た乾いた音と、数珠同士がぶつかり合う音が重なり響く。
「御里に贄を捧ぐ、天にありし蛇の使いよ、空と雲より生まれ出でよ」
追加で取り出された数珠が放り投げられると、不思議とその数珠は音をたてながら空中に舞い上がっていく。そしてどこからともなく火がともり、数珠に向かって収束していく。数珠が炎を纏うような光景に二人は目を奪われていた。
だが周りの獣はそんなことは全く意に介さずに襲い掛かってくる。何匹かの獣が襲い掛かってくると同時に空中で漂っていた数珠が勢いよく飛翔していき襲い掛かってきた獣に飛びついた。
数匹の獣を万里小路が対処している間、火のついた数珠が一匹の獣の顔に直接飛びついたと思ったら、その炎が肥大化していき、あっという間にその獣の体を包んでいく。そして肥大化した数珠の炎は、蛇のような動きと共に次々と周りの獣たちに襲い掛かり、その度にその炎は肥大化していく。周りの獣たちを飲み込んでいるかのように。
「これで時間は作れるでしょう。さぁ、行きますよ」
「あー、もう何でもありって感じになってきた」
「なんですかあれ?召喚獣ですか?」
「似たようなものです。さぁ、早く洞窟を探しましょう」
炎で形成された蛇は辺りの獣たちに襲い掛かる。だが全ての獣を倒すことができるわけではない。三人の下へと襲い掛かる獣も数体いたが、その程度の数では万里小路の脅威とはなり得なかった。
拳を振るいながら、再び前進を続ける万里小路の後に続きながら、二人は記憶を頼りにあたりの風景を見渡して昨日自分たちが入った洞窟への道を探そうとしていた。
「おい、この辺りの草」
「あぁ、あの時こんな感じだったよな?」
三人が進む中、徐々に草の背丈が高くなってきているのに気付き、鹿目と葛飾はあたりを見渡して洞窟の入り口を探そうとしていた。
「万里小路さん、この辺り、この草のあたり、洞窟の入り口にあった草っぽいです」
「ほう。つまりこの辺りに入り口があると?」
「たぶんですけど……この辺りに、俺らの足跡とかあるんじゃないかな?探してみようぜ」
二人が身を屈めて辺りを探している中、万里小路も辺りを見渡している。だが彼の目には少なくともそれらしい洞窟の入り口は見えてこない。
霧が濃くなってしまっているのだけが原因ではない。何かがそれを隠そうとしているような、そんな意図を万里小路は感じ取っていた。
「あった!万里小路さん!ありました!俺らの足跡っす!」
「おぉ、ということは間違いなくこの辺りのようですね」
二人が見つけた足跡を万里小路も確認する。確かにこの辺りの高い草を踏んだ足跡がそこにはいくつも残されていた。
その時は動画投稿者メンバーの五人全員で動いていたために、足跡が踏みしめられた背の高い草という形でかなりはっきりと残っていた。
「間違いないっすよ、この辺りにあるはず。霧が濃すぎてもう回りほとんど見えないっすけど……」
「意図的に霧を濃くして見えにくくしているんでしょう。どうやらここが辺りで間違いなさそうですね」
「でも、洞窟の入り口がそもそも見えないんすけど……どうやって見つけるんですか?」
「簡単です。これだけ霧を濃くしているんですから、霧の発生源を辿ればいいんですよ。方角は、何となくわかりますからね」
そう言って万里小路は手に巻き付けている数珠をほどいて振り回し始める。数珠同士がぶつかる音が聞こえる中、鹿目と葛飾の目に一瞬、万里小路の首元に白い毛の塊のようなものがまとわりついているように見えた。
だがそれも本当に一瞬だ。
霧のせいで妙なものを見たのだろうかと、鹿目と葛飾は互いに目をこするが、既にそれは二人の目には見えなくなっていた。
万里小路の視線は霧の深い一角から離れなかった。その奥にいったい何があるのか二人の目には見えない。
だが何となくわかる。この視線の先にあの子が、小暮の子供がいるのだということはわかる。
「穏やかなる波に座す良々の蛇は舞い斬り喰う」
万里小路が静かに数珠を振るいながらそう呟くと、周囲を満たしていた霧の動きが変わる。風が起きるように徐々に三人の周りから消えていく、いや、離れていく。霧が三人を嫌うかのように、恐れるように引き下がるかのように。
そして、霧がどんどんと押しのけられていく中、ついにその姿が見えてくる。
「あ、ここ!」
「俺らが入った洞窟か?」
ようやく洞窟の入り口を見つけたところで二人は安堵していた。あとはあの子供を探すだけだと。
とはいえまだ周りに獣の気配はある。霧の向こうには赤い瞳がいくつもある。だが同時に先ほど万里小路が放った炎の蛇がそれらを食い荒らしているのがうっすらとではあるが見えた。
「ではいきましょう。この中に、おそらくですが小暮さんのお子さんがいらっしゃると思います」
「う、うす。逆に言えば、ここからは所謂ボス戦ですね?」
「足手まといにならないようにします。せめてあの子は俺らが運びますよ」
「ありがたいです。では行きましょう」
三人がライトをもって洞窟の奥に進んでいく。真っすぐだった洞窟はそのままだが、昨日の昼間にここに入った二人は違和感を覚えていた。
一人しか通れないほどの狭さであることに変わりはない。濃すぎる霧のせいで、ライトをつけていても何がどうなっているのか理解はできない。
だがどういうわけか、妙に道が長くなっているように感じられるのだ。
「なぁ、ここ本当に昨日は言った場所か?」
「そのはずだぞ?だって足跡もあったじゃんか」
「でもよ、こんなに……あれ?道幅、こんなに広かったか?」
「あれ?そういえば」
いつの間に、というべきだろう。入り口に入った時は人が一人通るのが精一杯の幅だったはずなのに、徐々にその幅が広くなっているのだ。
「やば、また別の洞窟だったか?」
「いや、でも奥の方に岩の板があっただろ?あと小さな岩っていうか石っていうか……そうそう、あんな感じ……の……」
つい昨日は言った時と似た光景、倒して割れてしまっている石板と、それを取り囲むような石の群れ。霧の向こうにあるにもかかわらず何故か認識できたそれを見て、二人は絶句する。昨日来た時には、石に乗って石板の頂点に手をかけられる程度の大きさだったはずだ。
この洞窟も、それほど大きくなく、少し並べる程度の大きさだったはずだ。
だが、今この洞窟の大きさは変化してしまっている。一人どころか、十人が手を広げて並んでも問題ない程度の広さに代わっているのだ。
倒れている石板の大きさは、倒れている状態で三人の身長とほぼ同じで、周りにある、足元に転がっている程度だった石も、もはや岩としか言えないような大きさへと変貌していた。
霧のせいで正確なところは把握しかねるが、洞窟の中にしては妙な明るさもある。霧自体が光を放っていると錯覚するほどの明るさだ。昨日は言った時とは何もかもが違いすぎる光景に二人は困惑していた。
「……これ、違うだろ、違うよな?ここじゃない?いやでも、あの倒れてるやつとか、周りの石とかは……」
「ナニコレ、どうなってんのこれ?」
二人は混乱してしまっていたが、万里小路は周りを見渡してその一角に目をやる。そこに気を失った状態の小さな子供がいることに気付けた。
横たわるようにしてその場で小さく寝息を立てている子供を見て、万里小路は周囲を警戒しながら困惑している二人の肩を叩く。
「お二人とも、混乱するのは後で。今はあの子を助けることを優先しましょう」
「あ、そ、そうだそうだよ!もう何が起きても驚かねえよ!スモールなライトでも浴びたんだろ!?」
「どっちかっていうとガリバーなトンネルじゃね?もう何でも来いって感じだよ!」
「原理は何となくわかりますが、説明しますか?」
「いいっす!わかってもどうしようもないんで!なんかあったら万里小路さん!頼みます!」
「どうせ俺らあの子運ぶくらいしかできないんで!危なかったらお願いします!」
「いい気迫です。任されましょう!」
もはや自棄になっている二人を見て万里小路は笑う。ここまできて二人の行動力はさらに上がっているように思えた。
ただ単にやけくそになっているようにも見えなくはないが、恐怖で動けなくなるよりはよほどいい。
二人が小暮の子供の下に駆け寄って無事を確認し、持ち上げる中、万里小路は周辺を警戒し続ける。
いつどこで何が起きてもいいように。
「万里小路さん、早くこの子を連れて離れましょう」
「……えぇ、そうですね早く離れ……くそっ!」
瞬間、風が吹いたかと思うと万里小路が小暮の子供を抱えた二人を突き飛ばす。
何が起きたのかもわからず、二人は何回転も地面を転がる。子供だけは守らねばと、二人が必死に子供を抱える中、自分たちを突き飛ばした万里小路の体が遥か彼方、辺りに存在している巨大な岩に叩きつけるのがかろうじて見えた。
「ま、万里小路さん!?」
自分たちが何かから助けられたのだと理解するのに時間はかからなかった。
岩に亀裂を作りながら、万里小路は叩きつけられた岩からゆっくりと落下し地面に降り立つ。
一体何が起きているのかもわからず二人は状況を把握しようとするが、この場から離れたらいいのか、それとも万里小路から離れてはいけないのか、判断ができずに混乱してしまっていた。
「あぁ……くそ……面倒な……」
「ま、万里小路さん!俺ら、俺らどうしたらいいっすか!?どうするのがいいっすか!?」
この状況でも、混乱しながらもまだ勝手に走り出さないだけの冷静さを二人は保っていた。
自分たちがパニックになれば子供の命がないと、そう理解しているが故に、二人は必死に冷静であろうと心掛けていた。
声も体も震えて、もはや今にも失禁しそうな勢いではあるが、それでも頼りにすると決めた万里小路の指示に従おうと自らを奮い立たせている。
「お二人とも、その子を抱えて洞窟の外へ。外にいる蛇があなたたちを守ってくれるでしょう……」
「ま、万里小路さんは、どうするんですか?」
「ここで片を付けます。ミサキ、あの三人を守れ!」
どこの誰に告げた言葉なのか、万里小路の言葉に反応するように、その体から白いなのかが抜け出ると同時に鹿目と葛飾の周りを旋回するように漂い始める。
『この子たちについていっていいのね?』
「あぁ、あとはトウカと何とかする」
不意に聞こえてくる女性の声に加え。自分たちの目にも見える白い何かに、鹿目と葛飾は驚いていたが、そんな驚きなどもう何度も超えてきたこと。すでにパニックを起こしかけながらも平静を保とうと二人は叫ぶ。
「な、なに?いやもう何でもいいや!万里小路さん!俺ら先に、先に行っちゃったほうがいいんすね!?」
「そうです!そのままベースキャンプまで戻ってください!戻れますね!?」
「だ、だい、大丈夫ではないですけど!何とかなるんですね!?」
「何とかなります!だからそのまま行ってください!」
「わか、わかりました!じゃあ俺らはこのまま」
行きますと言おうとした瞬間、子供を抱えた二人目掛けて風が巻き起こる。
それが一体何の風なのか、二人は理解すらできなかった。だが、先ほど万里小路が吹き飛ばされる寸前に起きたものと同じだということを思い出していた。
また吹き飛ばされる。今度は誰が。
そんな事を考えるよりも早く、空中に数珠が走り、空中で何かに絡みついた。まるで突進してきた何かを捕まえたかのような動きに、二人は目を丸くする。
「そう何度も、同じ手を食うかよ……!」
今までの万里小路とは思えないほどの荒々しい言葉遣いに、腹の底から湧き出るような怒気と殺気の混じった声音に、二人は一瞬背筋が凍る。
今までの穏やかな口調や態度とは違う。むしろこれが万里小路の本性なのではないかと、そう思えるほどの強い気配を二人は感じ取っていた。
「二人とも!行って!走って!」
返事をするよりも早く二人は子供を抱えたまま全力で走る。この場にいてはいけない。この場にいては万里小路の邪魔になると本能的に理解した二人は洞窟の入り口目掛けて走る。
そして二人の傍に白い影が付きまとう。二人から離れないように、守るように。
霧から抜け出そうと、洞窟から出ようとすると徐々に洞窟の縮尺が戻っていく。一体どういう原理なのかと疑問符を浮かべるも、洞窟の外側に赤い光がいくつも見える。
それが何なのかわからないほど二人は馬鹿ではない。もう何度も見たあの目だ。殺意をぶつける鋭い視線だ。
だが万里小路が何とかなるといったのだ。二人は止まる気は一切なく、そのまま走り抜けるつもりで前へと進む。
瞬間、霧と一緒にトンネルの中に獣たちが入り込もうとした瞬間、巨大な炎が洞窟の前を通り過ぎ、霧と獣たちを飲み込む。
「うわ!うわ!うわ!もう!もうどうにでもなれ!」
「畜生!カメラ持ってくればよかった!マジで!マジでもってくればよかった!」
『落ち着きなさいな。私がちゃんと守ってあげるから』
「もう何なの!?この声!?お化け!?お化けか!?」
『失礼ね、お化けなんかと一緒にしないでくれる?これでも由緒正しい血統書付きなんだからね?』
「俺ら頭おかしくなったかな!?さすがにもう許容量一杯だ!」
「知るか!?どうなってもこの子だけは守って帰るぞ!」
「てか道こっち!?こっちだっけベースキャンプ!?」
「とにかく走れ!そのうちつくだろ!」
『この子たち大丈夫かしら……ほらあっちよ』
どこかからか聞こえてくる謎の声、すぐそばを走る炎の蛇、追従してくる白い影、周りには赤い瞳を向け襲い掛かってこようとしている獣たち。
このような状況で正気を保てるはずもない。感覚が完全にマヒしてしまっている二人にも限度はある。正気を少しでも保とうと叫びながら二人は走る。まっすぐにベースキャンプへと向かうべく、通って来た道を一直線に。
そして二人に追従するように炎の蛇と白い影が続く。そんな二人が遠ざかっているのを確認してから、万里小路は数珠を掴んでいる腕の筋肉を大きく膨らませ、数珠を振り回していく。
「くそ、ようやくわかったぞ。師匠め、封印が壊れかけてるじゃねえか……だから俺をここに向かわせたな?」
周りにある岩のようなサイズになっている石に加えて、倒れている石板を見て万里小路は眉間にしわを寄せる。
『あの子たちがきっかけになって封印が壊れたのかもね。いくつか要石がずれてるし、この倒れてるのもまずいし』
万里小路の影から黒い何かが起き上がる。その姿は輪郭こそ保っているが、細かな部分は霧に紛れる形で見えなくなってしまっている。だが万里小路はそんなことは一切気にしていなかった。
「いや、この状態見る限り時間の問題だっただろうな。これ何年前の封印だ?少なくとも十年二十年って話じゃないだろ」
『たぶんね。少なくともあなたよりは年上よ……また来たわね、気を付けて』
黒い影がつぶやくが、万里小路は視線を軽く動かすだけで大きく動こうとはしていなかった。
拳を鳴らし、数珠を腕に巻きつけると風と共に襲い掛かってきた何か目掛けて思い切り拳を叩きつけた。
「どういう輩なのかは知らないが、とりあえず殴ればいいのは変わらなさそうだな。とっとと弱らせて封印のやり直しだ」
風と共に通り過ぎようとする謎の物体を、振りぬかれた拳が正確に叩きつけられる。視覚的には見えていないはずだが、その姿を、輪郭を、万里小路は大雑把にではあるが捉えていた。
一発、二発、三発と、移動しても場所を変えても万里小路の拳は見えない何かに直撃し続ける。
拳がぶつかる度に数珠が乾いた音を鳴らし、打撃音と混ざり合って洞窟内に独特の音を反響させていた。
見えなくなっていても意味がないということを察したからか、それともこのままではまずいと言うことを理解したからか、透明だった物体を中心に辺りの霧が風と共に一カ所に集まっていく。
別の姿を現すのだろうか、そんな状況を前に、万里小路は気にすることなく拳を繰り出していた。
拳が何かに、見えない何かに直撃するたびに霧が揺れる。その拳に弾力のある異様な感触を残しながら、確実に相手にダメージを与えていると確信していた。
瞬間、万里小路の体が大きく吹き飛ばされる。衝撃波にも似た強力な風。直接体にダメージこそないものの、猛烈な風に寄って弾き飛ばされ、近くにあった岩に叩きつけられる。
「厄介な……風に、霧、うざったいな」
『どうするの?たぶんだけどまだまだやる気よ?』
「こっちだってやる気だよ!音の泉に以下省略!」
脚を勢い良く踏みしめ、地面を揺らすと同時に透明な何か目掛けて地面から刃が数本突き立てられる。だが霧が揺らめくだけで致命打を与えられているようには見えなかった。
徐々に霧が形を成してっている。その形は四足獣のそれに近い。だが霧が作り出す輪郭は未だぼやけている。まだまだ顕現には時間がかかるのだと判断した万里小路は懐から紙きれを何枚か取り出す。
「トウカ、手伝ってくれ」
『えぇ、もちろん。足止めね』
万里小路が紙きれを空中に放り投げると、本来であればゆっくりと地面に落ちていくはずの紙が空中にとどまり、それどころか飛翔し始める。
「熱を産む矢よ、鎖を伴い舞え!」
その詠唱と共に空中を飛翔していた紙きれが一斉に炎をともし、意志を持ったかの如く霧の怪物へと襲い掛かっていく。
そして炎の軌跡が光となって、まるで鎖の如く獣の周りを覆っていく。
相手が動こうとするのを邪魔し、その場から動けないように拘束しているように。
万里小路は今こそ好機と判断し数珠を手に巻いたまま、勢いよく手を合わせる。
「納め忘れよ、蛇の里に伝わる暮れの歌、母なる原より率いられ、演者の迷いを見たならば、散り、まとまり、炎の尾を力と成す」
向こうの都合に付き合うつもりはないと言わんばかりの詠唱。霧の塊が巨大な咢を作るその瞬間、万里小路の腕に巻き付けていた数珠が炎に包まれる。
「怨み在れ、歩むための脚を減らす者、真なる母の蛇の渦へ、真なる牙の怒りの末へ、塵よ散れ祓え破れ、理は今八雲に達す!」
長い詠唱を終え、強く大きく手を叩くとそれが完成する。
咢が今まさに万里小路に襲い掛かろうとする中、腕に巻きついている術の炎が一つ一つ、空中へと飛び上がっていく。
炎一つ一つが規則性を持つように、空中を飛翔していき徐々に大きくなっていく。
そして一つ、また一つと炎が形を変えていく。強大な咢が万里小路に襲い掛かるよりも先に、それは起きた。
炎一つ一つが、一直線に伸び、霧の体でできた強大な獣の体を串刺しにしていく。それだけでは終わらない。
突き刺さった炎は縄のように、蛇のようにその霧の獣にまとわりつき、周囲にある霧を次々と引きずり込むように集め始めていく。
遠くへ、遠くへ、辺りに散っている霧さえも集めるかのように洞窟の外にまで炎の縄が、蛇が伸びていき、霧を一気に吸い込んでいく。
炎が渦を作り出し、その中にすべてが吸い込まれていく。
やがてすべての霧が吸い込まれていき、炎に包まれていく。無理矢理に押し込むように、詰め込むように、霧のひとかけらすらも存在を許さないかのように強く、強く押し込めていく。
万里小路はもう一つ数珠を取り出すとその炎の塊に数珠を放り込んだ。
「葉ら枝ら、魂へ帰する芽を託し、御前へと……」
呟くように、静かに告げられた最後の詠唱に呼応するかのように、周辺にあった岩が震えだす。
そして炎によって押しとどめられていた何かを、さらに押し潰すように周りの岩が呼応してぶつかっていき、巨大な岩へと形を変えていく。
そして周辺の空間が歪んでいく。先ほどまでは恐ろしく広い空間になっていたのが、あっという間に人一人が通れればやっとという、狭く暗い洞窟へと変わっていった。
『お疲れ様。これで問題はないかしらね』
「しばらくはな……っていうか、さっきの、あの人たち大丈夫かな?すぐに追いかけよう。いやこれ、どう説明するべきかなぁ?」
『好きなように話せばいいんじゃない?もし動画とかで公開したいって言われたら、事務所の宣伝にもなるでしょ?』
「簡単に言ってくれるよ。うちみたいな胡散臭いの、誰が信じるって言うんだよ」
焼け焦げた数珠を懐にしまい、万里小路は洞窟を後にするべく歩き始める。
洞窟の外側にはすでに霧はなく、森の隙間から入り込む日光が、強い太陽の存在を主張していた。




