ボロ鉄
夕暮れに染まった小石川鷹匠町。通りに並んだ一軒の戸を山岡鉄太郎が開けた。
建付けが悪くなっており、ぎこちない音が立つ。
開いた戸の隙間に大きな体を潜り込ませると、土間には足を洗う桶と手拭いがぽつんと置いてある。
いつもなら妻の英子が迎えに出て来るが、今日はいない。
「ふむ」
鉄太郎は上がり框に腰を掛て足を洗った。
「うわっ」
足を拭っているうちに、いつのまにか英子が傍に座っていた。
小柄で人形のような可愛らしさがあるが、つねに眉間に皺を寄せた表情がどちらかというと気の強そうなきつい印象にしている。
その妻がいつもよりさらに眉間に皺を寄せていたので、鉄太郎は思わず声をあげてしまった。
「い、いかがした」
英子は一通の文を差し出した。
鉄太郎は妻の顔と文を交互に見ながら、受け取った。
「夕霧さんですか。妻には貧乏暮らしをさせておいて、相変わらず吉原通いとはたいそうなご身分でございますね」
「や!」
鉄太郎は慌てて文を読んだ。
「いや、これは。夕霧どのがおれに会いたいという文ではないか。よく読んでみよ。久しく会っていなくて淋しい、と書いてあるではないか」
英子が感情の消えた目で見ている。
「つまり久しく会ってはいない、ということ――」
「久しいかどうかなどどうでも良いのです。なにが、淋しいか!」
鉄太郎の大きな体が丸まって小さくなった。いつの間にか上がり框に正座をしている。
烈女のような迫力は、さすがは鉄太郎の槍の師である山岡静山の妹であった。
十三年前に山岡静山は亡くなっている。跡継ぎのいない山岡家がお取り潰しになるところを、鉄太郎が養子に入って英子と結婚し、山岡家を継いだ。
もともと鉄太郎は、石高六百石の小野家の生まれである。旗本の中では家格は高い。父、朝右衛門髙富が飛騨高山の郡代として赴任することになり、一家で移り住んだ。
高山で両親が亡くなり、十七歳の鉄太郎は幼い弟たちをつれて江戸に戻る。
小野家の当主は腹違いの兄鶴次郎であり、鉄太郎と幼い弟たちと同居することを嫌った。
止むに止まれずに、鉄太郎は両親が残してくれた財産を持参金として付けて弟たちを他家に養子に出した。ほぼ無一文になった鉄太郎は小野家の一室で貧乏生活を始めたのであった。
山岡家は旗本としてはごく軽い身分であった。鉄太郎とは旗本の格に違いがありすぎるということで英子との結婚はためらっていた。だが、鉄太郎は尊敬する静山の山岡家を継ぐことにこだわりはなかった。
そうして鉄太郎と英子の結婚生活が始まったが、相変わらずの貧乏生活であった。
誰が呼んだか、ついたあだ名はボロ鉄だ。
「邪魔するよ」
緊張感の漲る空間に、のんきな声が割り込んだ。
高橋精一郎が玄関の戸から顔だけ入れて覗いている。
「あ、義兄上……」
鉄太郎は渡りに船とばかりに手を差し伸べて、英子から離れようとあがいた。
「どこに行くのです」
英子の冷たい声が鉄太郎を静止する。
「おいおい。また喧嘩かい」
精一郎は呆れながら土間に入ってきた。
高橋精一郎は山岡静山の弟なのである。母の生家の高橋家に養子に入り跡を継いでいた。
つまり、英子は精一郎の妹であり、鉄太郎は義弟になる。
「今日こそは言わせていただきます。兄上は遊撃隊頭並として慶喜公のお側で立派にお勤めをされています。京では志士たちがお国ために命をかけて戦っているのです。それにくらべてこの人は、毎日剣の修行だの禅の修行だのとふらふらして……。挙句の果てには吉原通い」
「だから吉原にはもう行っておらんと――」
「おだまりなさい!」
鉄太郎はさらに縮こまった。
「英子、そう怒るな」
「いえ、今日こそは――」
「山岡鉄太郎がお国の役に立つときがきたぜ」
「え」
英子は唖然とする。
「鉄太郎、おまえの命をくれないか」
鉄太郎は丸めた背からゆっくりと精一郎を振り返った。