朝敵
「なんでお満さまが」
正雪が呆然としている。
「正雪さがっていろ。あれはお満ではない」
「え、まさか」
鉄太郎は一歩踏み出す。
「朕は八瀬姫。朕に向かってくるか、山岡鉄太郎」
お満の顔をした八瀬姫が艶然とした笑みを浮かべる。
「コーン!」
鉄太郎の背後で亜門の鳴き声がした。
正雪が回り込んで鉄太郎の前に出る。
首から下げた竹筒を覗いている。
「先生。わたしのあとについて来てください。そうすれば銃弾の雨あられもなんその」
胸を叩く。
鉄太郎にはまさかという気持ちが強いが、正雪と亜門の兵法というより予言には何度も救われてきた。
「わかった。おまえの兵法を信じよう」
「はい!」
正雪を先頭にその後ろを鉄太郎が進む。
八瀬姫の顔がゆがむ。
「ええい! 撃て」
轟然といくつもの発砲音が重なった。
もうもうたる硝煙が砂塵とともに流れて行く。
きな臭い匂いだけがわずかに残っている。
「どうです、先生。ご無事でありましょう」
正雪が振り向いた。
たしかに鉄太郎には傷一つなかった。
「見事な兵法であった」
頷く鉄太郎を満足した笑顔で正雪は見つめた。そして、その身体から血が噴出した。
「正雪」
鉄太郎は崩れる正雪を抱きとめた。
「これぞ正雪の最後の兵法。山岡先生の命だけは守る兵法にございます」
「正雪!」
鉄太郎は正雪の身体を揺すったが、正雪はゆっくりと目を閉じていった。
「すまぬ。あとはまかせろ」
正雪の身体を地にゆっくり横たえると、鉄太郎は再び立ち上がった。菅笠を外す。
さらに八瀬姫に向かって歩を進めた。
「ええい! あやつはまだ生きておるぞ。構え、構えい!」
再び銃口が鉄太郎に向けられた。距離は五間(九メートル)。
鉄太郎が笠を投げた。
その時――。
「消えた!」
「どこだ」
銃を構えた藩兵から声が上がった。
皆の目から鉄太郎の姿は忽然と消えていた。
「目を離したか」
「いいや、離していない!」
騒然とする街道。
鉄太郎は滑るような歩法で八瀬姫の懐に迫っていた。その動きは何人も捉えることはできなかった。
低い姿勢で刀の柄に手をかけて抜刀の構えに入っていた。
「北辰一刀流、開眼」
「ひっ――」
鉄太郎の腰間から銀光が迸った。
「ぎゃあ!」
白い腕が宙に飛んだ。
鉄太郎は八瀬姫の左腕の肘から先を斬り飛ばしていた。
周りにした藩兵は潮が引くように一斉に下がって行く。
一人取り残された八瀬姫は切断された左腕を残った右手で押さえながら、恐怖に引き攣った顔で鉄太郎を睨みつける。
「おぬしは玉体(天皇の身体)に傷をつけたのだぞ! いや、お満の身体を斬ったのだ」
鉄太郎は波ひとつない湖面のように落ち着いた瞳で絶叫する八瀬姫を見据えている。
「やめてください、山岡さま。そのお方はまことの天子さまであらせられるかもしれないのです」
太田垣蓮月が堪らずに声をあげた。
「山岡鉄太郎。おぬし、まことん朝敵となってしもても良かとな」
西郷吉之助も蓮月の肩を抱いて並んで立つ。
鉄太郎はわずかに西郷と蓮月の方に顔を向けた。
「朝敵で結構――」
ゆっくりと口を開いた。
「官軍だ賊軍だと、日本の国の中で日本人同士が争って何とする」
「おぬし」
西郷は息を飲む。
「なればその元凶をおれは斬る。朝敵の汚名を被るのは拙者一人で結構!」
「山岡どの!」
西郷が叫んだ時には、鉄太郎は八瀬姫に向かって正眼に構えていた。
「たれか! たれか助けてたも!」
無音の世界に八瀬姫の悲鳴だけが響く。
「五寸釘、市、石松、正雪――」
鉄太郎は優しい笑みを浮かべる。
「そして、お満の仇だ」
一閃。八瀬姫の首が血の尾を引いて飛んだ。
地に落ちた首はお満の顔で安らかに微笑んでいる。
涙こそ流さなかったが、鉄太郎は赤く腫れた目で見下ろした。
その光景を見て、誰一人動く者はいなかった。
いや、一人。静寂を破って白い洋装の男が歩き出した。
「は、半次郎」
西郷が呼んだ男こそ、中村半次郎であった。
半次郎は鉄太郎と対峙した。
二人はしばらく目を合わせる。
「牙刀院凶念よな――」
鉄太郎の声に、中村半次郎は険しい顔をした。
「今度は中村半次郎の身体を乗っ取ったか」
「山岡鉄太郎。よくも八瀬姫さまを……」
「貴様だけは許せぬ」
「決着をつけてやるわ」
「いや、おまえとは戦わない」
「なに」
鉄太郎は凶念いや、半次郎の顔を見る。
その顔は白目をむき、歯を食いしばって必死に何かに抗っている。
「中村半次郎、目を覚ませ。八瀬童子との闘争が終わったら、おぬしと二人で決着をつける約束だったであろう」
「無駄だ。わしの魂をすべて注ぎ込んでおる。中村半次郎はわしから逃れることはできない」
「中村半次郎!」
鉄太郎が呼びかけた時、半次郎は上着を剥いで、陽に灼けて逞しく引き締まった身体を晒した。
「なんだと」
凶念が嗄れた声を上げる。
驚くべし。半次郎の腹に別人の顔があった。人面瘡のように肉が盛り上がって形作っていた。
目があり、鼻があり、口がある。
今の凶念の声もその口が発していた。
この人面瘡こそが牙刀院凶念の本体であり魂そのものであろう。
「やれ、中村半次郎。山岡鉄太郎を殺すのだ」
凶念の言葉に反して、半次郎は脇差を抜いた。
「チェスト……」
半次郎が歯を食いしばる。己の腹――凶念の顔に脇差を突き立てた。
「おご! な、何をする」
半次郎は苦鳴を押し殺しつつ、腹に突き立てた脇差を横一文字に引いた。
赤黒い血が飛び散る。
「ま、まさかこのわしが死ぬのか。や、やめてくれ。わ、わしは八瀬童子のために……。我らが日のあたる世界に出ることがわしの悲願……」
しばらく凶念のおぞましい叫びが上がっていたが、それも消えた。
半次郎はその場に座り込んだ。
「半次郎、生きているか」
鉄太郎が近づいた。
半次郎は顔を上げた。血を失ったことと、凶念に打ち勝った興奮で赤紫色に染まったその顔には不敵な笑みがあった。
「晒を……」
己の腹を斬っても半次郎は生きている。
いや、恐らく刃を突き立てた部分は凶念の肉であったのであろう。
だが、半次郎自身も傷ついていることは間違いない。
それでもまだ正気でいることができるとは、大した男であった。
薩摩藩士たちが数人で真新しい晒を半次郎の腹にきつく巻いた。
半次郎はゆっくり立ち上がった。
「山岡鉄太郎、待たせたな。決着をつけよう」
「おう」
半次郎が重傷を負っていることは考えていない。元より鉄太郎も胸の傷が完治しているわけではない。
当代を代表する剣豪二人の最後の勝負が始まる。
蒼天の下に風はいよいよ吹きつのった。二人は風の音の中に相対した。
半次郎は抜刀して右足を前に出し、刀を大上段に構えた。示現流より肘をまっすぐに伸ばした、何度も見た野太刀自顕流の蜻蛉の構え。
赤紫色の半次郎の顔は鬼気迫るほどに凄絶であった。
対して鉄太郎は正眼の構え。
――この勝負、一刀で決まる。
半次郎が猛然と打ち込んで来た。
これまでで最も速く鋭い太刀。命を乗せた一刀であった。
――受けたらやられる。
鋭い金属音とともに宙で鉄太郎の刀が折れた。
その前に鉄太郎は刀を手放して二歩さがっていた。
鉄太郎の頭から真っ赤な血の花が咲いた。
半次郎の一刀は鉄太郎の刀を折ってなお、鉄太郎の頭に触れていた。
なおも半次郎は踏み込む。
さらなる一刀が襲いかかる。
――まだ動けるのか。
半次郎の刀は鉄太郎を一刀両断した。
いや、そう見えた刀は鉄太郎の頭上で止まっていた。
鉄太郎は両手を握り合わせて、半次郎の刀を挟み掴んでいた。
片膝をついた鉄太郎は見上げるかたちで半次郎と睨み合った。
二人の腕が限界まで力を籠めているために小刻みに震える。
「きええーっ!」
半次郎が凄まじい猿叫を上げる。
「おおおっ!」
鉄太郎も咆哮を上げる。掴んだ刀身を捻った。
刀を握っていた半次郎の身体がもんどり打って、したたかに背中から大地に落ちた。
半次郎が手放した刀を鉄太郎は両手で掴んだまま、首筋に当てる。
鉄太郎は首を斬らずに、刀を止めた。
半次郎はすでに気を失っていた。だが、まだ生きている。
「手当を」
鉄太郎は誰にともなく声をかけた。
数人の藩兵が集まって半次郎に丁重に手当を始める。
鉄太郎は立ち上がってしばらくその様子を見つめていた。
「いつかまた会おう、好漢」
自然と口から零れた。
山岡鉄太郎はただ一人残った。
薩摩藩兵の群衆に身体を向ける。その中に西郷吉之助が立っていた。
鉄太郎は一歩踏み出す。
藩兵が鉄太郎を取り囲む。藩兵たちもどうしてよいのか迷っている様子であった。
鉄太郎はゆっくり周りを見回す。
「朝敵家来、山岡鉄太郎――」
その瞳には強い力があった。
「朝敵、まかり通る!」
大音声で言い放つと群衆が二つに割れる中を鉄太郎は歩き始めた。その歩みを止める者はいなかった。
鉄太郎の肩に登ってくるものがある。管狐の亜門であった。
「亜門、おぬし生きていたのか。そうか、最後まで供をしてくれるか――」
行く手には西郷と蓮月が立っていた。
西郷が頭を下げる。
鉄太郎は空を見上げた。
駿府の春爛漫の空は晴れ渡っていた。
――五寸釘。
――市。
――石松。
――正雪。
――お満。
「みんな、行こうか」
こののち――。
山岡鉄太郎と西郷吉之助との駿府会談で、徳川家と江戸への寛典のご処置(寛容の処置)が約束された。
三月十三日。
高輪の薩摩屋敷で西郷吉之助と勝海舟が会談を行い、江戸無血開城は成った。
江戸城総攻撃は中止された。
その会談には山岡鉄太郎も同席していたと言われる。
了




