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朝敵、まかり通る  作者: 伊賀谷
最終章
44/45

府中宿

 正雪はぽかんと口を開けて見上げた。

 朝餉(あさげ)をとっていた部屋に山岡鉄太郎(やまおかてつたろう)が入ってきたからだ。

「幽霊じゃありませんよね」

「何を言う。この通り足はあるぞ」

 鉄太郎は笑顔で袴をたくし上げる。

「本当に先生だ! お怪我の具合は」

「もう大丈夫だ」

 右肩を軽く回す。

「……と言いたいが、とりあえずはなんとか動かすことはできるようだ」

「お満さまが治してくれたのですね」

「そのようだ。そのお満だが」

「今朝、わたしが起きたときにはすでに宿を出て行かれたあとのようで」

「そうか」

 少し考え込む姿を見せてから、鉄太郎もどっかと座り込む。

「正雪、今日は何日だ」

「三月十日。約定の刻限の日です。駿府へはまだ間に合います」

 鉄太郎は頷いた。

「まずは、おれが眠っている間にあったことを教えてくれ。市と石松はどこにいる」

 正雪は俯いて話し始めた。

 市が鬼童衆の首魁である太田垣蓮月(おおたがきれんげつ)を倒したこと。そのあと、東海道をこちらに向かう途中で何者かに殺されたこと。

 正雪たちが府中宿に着くと、お満の様子が変になり旅籠を出て行ってしまったこと。連れ戻しに行った石松が多くの者に襲われて殺されたらしいこと。

 石松が連れ帰ったお満が鉄太郎の傷を治してくれたこと。

 そして市と石松はおそらく鬼童衆の最後の一人、牙刀院凶念(がとういんきょうねん)に殺されたにちがいない。市は童の姿をした凶念に油断をして。石松は凶念と配下の者たちに。

「……奴の忍法飛魂門(ひこんもん)であればありうる話だな」

「卑怯な奴です」

「市よ、よくやってくれた。あの蓮月を倒したとは見事であった」

「ええ、市はよくやりました」

 正雪は鼻をすする。

「石松もな。お満を連れて帰ってくれたおかげで、おれの傷は治った」

 正雪は涙を拭いながら何度も頷く。

「正雪。おまえたち清水次郎長(しみずのじろちょう)の子分たちがいてくれたおかげで、おれは駿府に向かうことができる」

 鉄太郎は正雪の肩に手を置いた。

「おまえたちに生かしてもらった命だ。最後まで大切に使おう」

 正雪の首からさげた竹筒から亜門が首をのぞかせる。

「おお、亜門。おぬしにも助けられたな」

 鉄太郎は微笑んだ。

「そうだ。先生、これを見たことがありますか」

 正雪が懐から手鏡を取り出す。

 鉄太郎には見覚えがあった。

「それは市のものではなかったか。藤沢宿でお満に買ってもらったと言っていた」

「お満さまに」

「それがどうかしたか」

「それが――」

 死の間際に市が地面に「ちのりゅう」という文字を残していた。文字の最後にこの手鏡が置かれてたいたことを正雪は語った。

「地の龍、か――」

「先生、ご存じなのですか」

「うむ」

 鉄太郎は眼前を見据える。

 ――次にわたしに会った時、それはお満ではありません。

 お満の最後の言葉。

 ――斬ってください

 一度目を瞑ってからゆっくりと見開いた。

「地の龍とはお満のことだ」

「え。いったいどういうことですか」

「それより先はおれにも分からぬ」

「ふむ」

 二人はしばらく黙って考え込んだ。

「考えていても仕方がありません」

 正雪が両方の膝頭を叩く。

「そうだな。出たとこ勝負なのはこれまでと同じか」

「では、さっそく参りますか」

 正雪が片膝を浮かせる。

「すまぬ。昨日の昼から何も食べておらぬ。腹が減っては(いくさ)はできぬからな」

「そうでした――」

 正雪は部屋の(ふすま)を開けて廊下に顔を出す。

「おおい、主人。急いで飯をあるだけ持ってきてくれい」


 山岡鉄太郎はいつもの旅装束の上に羽織を着た。

 徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の名代として、官軍の大総督有栖川宮熾仁ありすがわのみやたるひと親王と、東征軍参謀の西郷吉之助(さいごうきちのすけ)に会うためだ。

 菅笠(すげがさ)を手に持って、旅籠を出た。

 抜けるような青い空が広がっていた。

 鉄太郎は目を細めて朝の優しい陽光を浴びる。

 外には正雪が待っていた。

「お供させていただきます」

「最後まで苦労をかけてすまぬな」

「なんの」

 鉄太郎は駿府に向けて歩き出した。正雪があとに従う。


 駿府城(すんぷじょう)にほど近い上伝馬町の松崎屋源兵衛の屋敷前の街道に官軍がひしめいていた。

 槍や銃を持った薩摩藩兵たちが道を埋め尽くしている。

 兵たちの先頭に妖艶な笑みをうっすらと浮かべて立つのは狩衣(かりぎぬ)を着たおなご――お満いや、八瀬姫……。

 昨晩、八瀬姫は一人で松崎屋源兵衛の屋敷前に現れた。

 守りを固めていた藩兵が問いかけた。

「八瀬姫が戻ったと伝えや」

 その言葉だけで藩兵たちは夢の中にいるかのように伝令に走った。

 八瀬姫帰還の報は、官軍の大総督有栖川宮熾仁ありすがわのみやたるひと親王の耳にまで入った。

 有栖川宮は驚愕に目を見開いて、すぐに八瀬姫を屋敷に招き入れるように命じた。

 もちろん、有栖川宮は八瀬姫と、此度の山岡鉄太郎と八瀬鬼童衆の闘争の内幕を岩倉具視から聞いていた。

 有栖川宮は八瀬姫をひと目見て、畳に額を擦りつけんばかりにひれ伏した。

 まさに地の龍――。

 日本人であればその威光に逆らうことはできないであろう。

「明日、山岡鉄太郎が推参したら殺しや。この闘争は薩摩が、いや八瀬童子が勝って終わらねばならぬ」

「はは!」

 八瀬姫の命は有栖川宮から参謀である西郷吉之助にもすぐに伝えられた。

「あのお方が天子(明治天皇)さまのお姉君(あねぎみ)順子(よりこ)さま」

 八瀬姫を見つめる二人。西郷吉之助と太田垣蓮月。蓮月は、市に腱を斬られた右腕を晒で吊っていた。

「そしてお兄君(あにぎみ)の妙香華院さまでもあらせられる」

「順子さまは我ら八瀬童子の頭領であらせられました」

「岩倉さまより伺うた。天皇家に影の者が現れたとき八瀬童子の頭領となる、と」

「順子さまは――」

 明治天皇は孝明天皇の第二皇子である。妙香華院が第一皇子であり、順子は明治天皇の姉にあたる第一皇女であった。

 ただ、ふたりともに生まれてまもなく嘉永五年(一八五二)までに幼くして亡くなっていることとされている。

 その実、二人は生きていた。さらに驚くべし、二人で一人の同一人物として。

「なぜそのようなことに」

 蓮月が神妙な顔を西郷に向けた。

「ないごてなら、あんお方が半陰陽(両性具有)であったから」

 西郷の顔に苦い色が差す。

「それで影の者として、わたしたち八瀬童子の頭領になられたのですか」

(ゆえ)に地に放たれた龍なのだ」

「その龍が朝廷に戻って来られた」

「今は動乱ん世。こん機に乗じていまん天子さまをしりぞけ(たてまつ)って、順子さま、もしくは妙香華院さまが天皇になられこともあり得る話」

「まさか……」

「元より皇位継承の順位から見ても順子さまは今ん天子さまより上にあらせられる」

「まさに地の龍をいただく者たちがまことの官軍となるというのは、これ故だったのですね」

「うむ」


 鉄太郎と正雪は一刻(二時間)ほど歩くと、東海道の右に駿府城(すんぷじょう)が見えてきた。

 そして、街道の砂塵の向こうにひしめく官軍の姿もみとめた。

 先頭に立つ狩衣姿。

「あ、あれはお満さま」

 正雪が指を指す。

 鉄太郎は菅笠を上げて、黙ったままお満を見つめた。

「来たか。山岡鉄太郎」

 お満がうっすらと笑みを浮かべた。その笑顔はお満のものではなかった。

「構えい!」

 お満の号令とともに周りにいた十数人の薩摩藩兵が一斉に銃を構えた。

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