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朝敵、まかり通る  作者: 伊賀谷
最終章
43/45

覚醒

 正雪は府中(ふちゅう)宿の旅籠(はたご)に戻ってきていた。

 一刻を争う中で、市を担いで行くことは難しいと判断して、近くの村の者に多額の金子(きんす)を握らせて、丁重に埋葬するようにと言い伝えてきた。

 旅籠にはまだお満と石松の姿はなかった。

 山岡鉄太郎(やまおかてつたろう)が眠る部屋で、正雪は腕を組んで瞑目していた。

 鬼童衆をすべて倒したことで、この闘争は終わった。明日、鉄太郎が駿府に到着すればすべては終わる。 

 ――本当に終わるのか。

 市は誰に殺されたのか。

 市が残した「ちのりゅう」という言葉は何を意味するのか。

 お満と石松はどこに行ってしまったのか。

 なにより、鉄太郎は明日までに目を覚ますのであろうか。

 ――分からぬことが多すぎる。

 どじょうひげをいじっていると、旅籠の外で大きな声が聞こえた。

 正雪が外に出ていくと、石松がお満を背負ったまま座り込んでいた。

 旅籠の使用人たちが驚いた顔で取り囲んでいる。

「石松!」

 正雪が駆け寄ると、使用人たちは少し離れた。

 石松は全身に傷を負って血だらけであった。お満に傷はないようだ。

 正雪は、お満を石松の背からおろした。 

 使用人たちにお満を部屋で休ませるように指示を出した。

「石松、何があった。誰にやられた」

 正雪は石松のうなだれた顔を覗き込んだ。

「が、が、がとういん……きょ、きょう……」

「や。まさか、牙刀院凶念(がとういんきょうねん)か。そうなのか」

 石松は微笑むと、そのまま眠るように生気を失っていった。

「おい、石松。おまえまで死んでしまったら、山岡先生は……」

 石松はすでに絶命していた。

「そうか……。いや、よくやったぞ、石松。あとのことはこのわたしにまかせておけ」


「がはあっ」

 草むらの中で一人の柿色の忍び装束が目を見開いた。

「あ、危なかった」

 身体をゆっくりと起こす。よく見ると幼さを残した青年であった。

「忍法飛魂門(ひこんもん)でこの者に魂の一分を分けておいたのが功を奏したわい」

 忍法飛魂門――。

 牙刀院凶念はまだ死んでいなかった。

 そもそも飛魂門は凶念の魂を他人に宿してその者を操る忍法。他人の記憶や意識すらも己のものとすることができる。

 昼間に十数人の村人が鉄太郎とお満を追いかけたように、凶念の魂を小さく分けて複数の者を同時に操ることもできる。

 今回は呼び寄せた八瀬童子の頭並(かしらなみ)の一人に九分の魂を宿して、残りの一分は若い青年の八瀬童子に宿していた。

 魂の配分は凶念の長年の勘といえるであろう。

 頭並は瞬時に石松に殺されたために、他の者に飛魂門で魂を移すことができなかった。

 だが果せるかな、凶念の一分の魂を宿した青年が残りの九分の魂を引き寄せたのであった。

 ここに凶念の魂は再び完全な形で復元された。

「ふぉふぉふぉ」

 不気味な笑い声が響く。

「まだ終わらぬぞ、山岡鉄太郎。鬼童衆はまだ負けてはおらぬ」

「おまえもしつこい男じゃな」

 男の声に凶念はきっと振り向いた。

 「だんぶくろ」と称するズボンの白い洋装に身を包んだ男。中村半次郎(なかむらはんじろう)が立っていた。

 凶念は唖然とした顔をしている。

「旧幕府と薩摩ん闘争。これは五対五と決まっちょったはずだ。勝負は旧幕府側ん勝利と決したはずであっとに、たくさんの加勢を呼び集めおって。約定に背いたな」

 かく言う半次郎も鉄太郎と共闘して凶念を倒したのであるが。この際些末(さまつ)なことにすぎない、という持論であった。

「まて、おぬしも薩摩藩士。この闘争は薩摩がなんとしても勝たねばならぬとは分かっておろう」

「おいは卑怯なまねは好かん。おまえの飛魂門ちゅう邪法は気に食わん」

 腰の刀を抜いて上段に構える。

「そ、そうだ。わしにおぬしの身体を貸してくれぬか。もちろんすべてが終わったらお返ししよう。おぬしの身体とわしの魂が合わされば誰にも負けはしない」

笑止(しょうし)。聞く耳をもたんど」

 半次郎は蜻蛉(とんぼ)の構えをとって、裂帛(れっぱく)猿叫(えんきょう)をあげた。

 凶念の顔が引き攣った笑みを浮かべた。


「あ、そうか」

 正雪は右の拳で左の(てのひら)を叩いた。

 夕餉(ゆうげ)の食べ残しを突いていた管狐(くだぎつね)亜門(あもん)が正雪の顔を仰ぎ見る。

 正雪は石松の言葉を信じて牙刀院凶念がまだ生きていることを確信している。

「となると市を殺したのも牙刀院――」

 正雪は目を細める。

彼奴(きゃつ)が忍法で(わらべ)を操って市に近づいたということか。卑怯な奴め!」

 歯噛みをする。

 その時、正雪の部屋の(ふすま)が開いた。

「や、お満さま。お気づきになりましたか」

 廊下にお満が立っていた。

「お満さま。石松に何があったのか覚えていますか」

 お満はうつむいて首をふる。

「そうですか。石松は死にました。市も……」

 お満は驚きの顔をあげる。

「市さんも……」

「どうやら牙刀院凶念にやられたようです。彼奴はまだ生きています。この闘争はまだ終わってはいません」

「山岡さまは」

「あとは先生の気力次第と言いたいところですが……。残念ながら、明日、先生が自らの足で駿府に行くことはかないませぬな」

 お満は黙っていた。

 たしかに傷が完治するには数日を要するであろう。正雪が言うように、鉄太郎が約定どおりに駿府に辿り着くことは不可能であった。

「正雪さん」

「はい」

「山岡さまとわたしを二人きりにしていただけませぬか」

「え」

「明日の朝まで山岡さまの部屋には誰も入れないようにお願いいたします」

「それは――」

「わたしが山岡さまの傷を治します」

 お満は正雪の目をしばらく見つめる。

 正雪も一縷(いちる)の望みにもすがりたい気持ちであった。

「分かり申した。山岡先生をおまかせいたします」

 お満は頷くと、鉄太郎の部屋へ向かった。


 鉄太郎は微かに目を開いた。暗い。どこかの部屋のようだ。

 ――生きているのか。

 混濁した意識の中でも、鉄太郎は鬼童衆首魁の太田垣蓮月に負けたことは理解していた。

 たとえ生きていたとしても、この身体での旅は無理であろう。

 ――義兄上。お役目を果たせずに申し訳ございません。

 高橋精一郎(たかはしせいいちろう)の顔がまず浮かんだ。

 衣擦れの音がした。目だけをその方に向ける。それだけでもひどい労力だ。

 お満が立っていた。

 ――そなたが救ってくれたのか。

 何も言わずにお満は着物を脱ぎ始めた。

 鉄太郎の心のどこかで驚きの感情が湧いた。

 お満は一糸まとわぬ裸体となった。

 薄暗い部屋の中に燐光を放つように美しい身体を浮かびあがっている。

 そのまま鉄太郎が寝ている布団に潜り込んだ。

 ――何を……する。

 鉄太郎の火照った体に滑らかでひんやりとした肌が密着する。

「忍法肉ノ宮(にくのみや)――」

 濡れたような声が鉄太郎の耳に囁く。

「わたしの忍法はあらゆる姿に変化(へんげ)することができます。そしてこの忍法を応用すると、傷口を肉で埋めて治すことができるのです」

 お満の体が鉄太郎を強く抱きしめた。

 鉄太郎の意識は再び深い淵に落ちて行った。


「義兄上、申し訳ありませぬ」

 鉄太郎が頭を下げると、精一郎は微笑んでいた。

「良いのだ。だが、まだ終わってはおらぬのではないか」

「と言いますと」

 すると、目の前には大坂で散った三人の老剣士が並んで立っていた。

 塚田孔平(つかだこうへい)

 山内主馬(やまうちしゅめ)

 稲垣定之助(いながきじょうのすけ)

「先生、師範……。仇をとること、叶いませんでした」

「拙者らの仇をとることが目的ではなかろう」

 三人の温かい笑み。厳しくも慈愛に満ちた稽古をつけてもらっていた日々を思い出す。

 緑深く森閑(しんかん)とした上野寛永寺(かんえいじ)に鉄太郎はいた。

「この者たちの仇、官軍に殺された者たちの仇がとりたい」

「よくぞ申されました! それでこそ武門の棟梁(とうりょう)です」

 徳川慶喜(とくがわよしのぶ)公と交わした言葉を思い出す。

 煙管盆を小気味よく叩く音。

「山岡鉄太郎、頼む! 駿府まで辿り着いて江戸を救ってくれ!」

 頭を下げる勝海舟(かつかいしゅう)

「みんな……」

 江戸の者たちの姿が消えて行く。

 そして東海道を共に旅をした仲間たち。

 釘を咥えてニヒルな笑みを浮かべた五寸釘。

 どじょうひげをいじる正雪。その首にかかった竹筒から顔をのぞかせる管狐の亜門。

 原宿の温泉で見た市の若く美しい裸形(らぎょう)

 巨体に似合わぬ童子のような顔を真っ赤にして恥ずかしがる石松。

 この清水次郎長の子分たちがいなければここまで旅を続けることはできなかった。

 そして最後に現れたのは――。

 妻の英子(ふさこ)であった。

「英子……」

 眉間に寄せた皺もなく、人形のような可愛らしい笑顔。

 英子がゆっくりと頷いた。

「必ず帰って来る」

 そうだ。おれは英子に約束したんだ。

 目が覚めた。

 どこかで雀の鳴き声がする。

 窓の障子が柔らかい朝日に照らされている。

 恐る恐る体を動かすと、起き上がることができた。

 右腕を軽く回してみる。少し突っ張るような違和感があるが、動かすことができる。

 晒をずらして傷口を見る。

 鉄太郎の赤銅色の肌に、傷口を埋めるように白い肉が少し盛り上がっている。

「忍法肉ノ宮……。あれは、夢ではなかったのか」

 そして鉄太郎は眠りながらたしかに聞いたお満の声を思い出していた。

「次にわたしに会った時、それはお満ではありません。斬ってください」

 鉄太郎は頷いた。その瞳にみるみると力が蘇ってきた。

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