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朝敵、まかり通る  作者: 伊賀谷
最終章
42/45

散華

 灰色の空が夕陽によって薄紅(うすくれない)に染まり始めていた。

 正雪は早足で東海道を東へ戻る方向に進んでいた。

「や、あれは」

 街道に倒れている者をみとめて駆けて近づく。

「市!」

 市がうつ伏せに倒れていた。

 仰向けに起こして抱きかかえる。

「おい、市。しっかりしろ」

 だが、市が動くことはなかった。身体は冷たく、肌にも血の気がなくなっている。

 すでに息絶えていた。

「すまぬ市。おまえのおかげで山岡先生はまだ生きておられる。わたしと石松がきっと駿府まで送り届けてみせるぞ」

 身体を(あらた)めると左腿に深い傷を負っている。だが、致命傷は腹の刺し傷であろう。

 正雪は腹の傷の方に違和感を感じた。

 市にしては一切の抵抗なく刺されているように見える。市が無防備で攻撃を受けることがあるだろうか。

 ――太田垣蓮月(おおたがきれんげつ)の仕業なのか。

 いや、正雪が市と別れた森があった場所からはずいぶんと離れている。

 市は敵に背を向けて逃げる者ではない。

 であれば、市は蓮月を倒して来たはずだ。

 そして正雪たちと合流しようと東海道を進んでいる途中に何者かに襲われたに違いない。

 しかも市に抵抗もさせずに攻撃するほどの手練(てだれ)に。

 ――鬼童衆は皆倒した。では何奴が。

 腹の刺し傷を検めると、どうやら相手は市よりも小柄な者であったようだ。

 身体が小さな大人であったと考えることもできるが、殺気を持つ大人が市に近づくことができるであろうか。

 ――となると(わらべ)か。意図せぬ事故が起きたのか。

 考えにふけるうちに、ふと市が倒れていた地面に目をやった。

 何かが落ちている。おなごが使う手鏡のようだ。

「市のものか」

 拾い上げようと手をのばす。

「や、これは」

 地面の砂に何か書いてある。

「ちのりゅう……」

 最後の「う」の文字の下に手鏡が置かれている。

「これは市が書いたのか」

 思わず市の顔を見た。当然、市は何も語らない。

 これは市が死の間際に残した言伝(ことづて)相違(そうい)ない。

「おまえは何を伝えようとしたのだ……」

 正雪はどじょうひげを指でいじりながら、しばらく考え込んだ。


 夕焼けが空気までも橙色(だいだいいろ)に染めていた。少し風が出てきた。

 腰ほどの丈のある草がゆるやかになびいている。

 原っぱの中をお満が歩いている。

「ほほほ」

 時折、甲高い声で笑い声を上げていた。

 少し離れて石松はあとをつけている。

「ようやく(ちん)はこの身体を取り戻したぞよ」

 石松にはお満が何を言っているのかわからない。

 ただ、いつものお満とはちがう、と実感していた。

 その時、草の陰からいくつもの影が立ち上がった。

 皆一様に柿色の忍び装束に身を包んでいる。

「お待ち申しておりました。八瀬姫さま。八瀬童子のまことの頭領――」

 彫の深い顔の男がその場に(ひざまず)いた。

「我刀院凶念と八瀬童子の選りすぐりの手練がお迎えにあがりました」

 他の忍び装束も一斉に跪く。

「大儀である」

「八瀬姫さまがお隠れになってから我らこの日が来るのを首を長くしてお待ち申しておりました」

「それもこの朕の心にお満という女が生まれたから――」

 八瀬姫は天皇家の血筋に連なる者でありながら、影の者として生きてきた。

 いつしか動乱の世に呼応して八瀬童子を従えて日の当たる世界に出て行こうとする野望を抱き始めた。ただ、それと同時に野望を阻止しようとするお満という人格が心に芽生える。

 いわゆる二重人格者となった。

 次第にお満の人格が身体を支配するようになり、八瀬の里を出奔し、薩摩藩士として紛れ込んでいた。

 それでも八瀬姫の人格は時おり表に現れていた。

 誰が知ろう――。

 そこで凶念を通して岩倉具視に通じ、西郷吉之助を始めとして此度の闘争に仕向けるという遠大な計画を企てていたのであった。

 すべては八瀬姫が天子の座に返り咲くため――。

「だが、お満は消えた。朕が戻った(あかつき)には八瀬童子も日の目を見ることであろうぞ。それが朕とそなたらの宿願」

御意(ぎょい)

 凶念が応えた。

 石松は我刀院凶念と名乗った男を含めて八瀬童子たちが十三人いることを数えて確認していた。

 我刀院凶念は五人の鬼童衆の一人、たしか鉄太郎が倒したのではなかったか。

 石松は少し考えたがよくわからない。

 ただ、八瀬童子は敵だ。お満を連れ戻せばいい。

「あ、あ、あ」

 石松がお満に近づこうとする。

「そちは誰じゃ」

 お満は細めた目の奥の冷たい瞳で石松を見つめた。

 石松は童子のような顔を優しい笑顔でくずしながらさらに近づく。

 行く手に五人ばかりの忍び装束が立ちふさがった。

「う、う、う」

 石松が差し出した両手は野花の束を握っていた。

「お、お、おみつ、さま」

 泣きそうな笑顔でお満を見つめながら何度も頷く。

 石松が持つ野花の香りがお満の鼻に触れた。

 お満の細い目が開かれた。そこにいつもの明るい瞳の輝きが戻りつつあった。

「い、石松……さん。……う!」

 お満が石松に向かって一歩踏み出そうとすると、突然(うめ)き声をあげてその場に膝をついた。

「八瀬姫さま。いかん。やれ!」

 凶念の掛け声とともに忍び装束たちから数条の分銅鎖(ふんどうくさり)が飛んだ。

 瞬く間に石松の首に巻き付く。

 石松の首から四方に鎖が伸び、忍びが力をこめて引いている。

 身動きがとれない石松の前まで凶念が近づく。背負った忍刀(しのびがたな)に手をかける。

「山岡鉄太郎の仲間め。先ほど座頭のおなごは始末してやった。貴様もここで死ね」

 座頭のおなごとは市のことか――。

 その言葉は石松にも理解できた。

 市を殺したのか。許せない――。

 鎖で首を締め付けられて真っ赤になった童子のような顔を憤怒(ふんぬ)の形相に変えて、一本の鎖を引っ張った。

 地面から抜けたように鎖を持っていた忍びが宙を飛んで引き寄せられる。

 石松は凄まじい勢いで引き寄せた忍びの頭に巨大な拳を振り下ろした。

 一撃で頭が陥没して、首ごと肩の間にめり込んだ。

「ば、化物か」

 凶念は(おのの)きながら退いた。

「やれ! 相手は化物だ」

 さらに数条の分銅鎖が飛んで、首、手、足に巻き付く。

 構わずに石松は鎖を引いては忍びたちの身体を破壊した。

「手裏剣を使え!」

 凶念が叫ぶと、今度は四方八方から手裏剣が飛ぶ。ことごとくが石松の身体に刺さる。

 血を噴き出しても石松の勢いは止まらない。

「首だ。首を狙え」

 阿鼻叫喚の殺戮が繰り広げられた。


 日が暮れて辺りに薄闇が漂い始めていた。

 空では雲の端が熾火(おきび)のように光り、まだわずかに夕焼けの名残があった。

 原っぱには少し冷えた風が流れていた。

 身体は起こしているが、石松は膝をついてうなだれた姿勢で動かない。

 全身には分銅鎖が巻き付いている。

 笛のような音が聞こえる。

 首には数本の手裏剣が刺さっており、おびただしい血が流れている。その首に空いた穴から漏れる呼吸が笛の音に聞こえていた。

 その音もだんだん弱くなっている。

 石松の周りには柿色の忍び装束の屍が散乱している。もとの人の姿をとどめている者の方が少ない。

「なんという奴じゃ――」

 この有様を呆然と眺めながら凶念は呟いた。

「鬼童衆ほどの忍法は使えないとはいえ、選りすぐりの八瀬童子十二人をことごとく倒すとは」

 苦い顔をして凶念はしばらく石松を見つめてから、伏して地面に耳をつけて入念に石松の気配をうかがう。

 呼吸の音もない。心臓の音もしない。

 にやりと笑う。

「死んだか」

 凶念は忍刀を抜きながら石松に近づいた。

「念には念を入れておこうか」

 凶念は刀を振りかぶった。

 刹那――。

 石松が目を開けて、伸ばした両手で凶念の顔を挟んだ。

「なにい! まだ動くだと」

 そのまま陶磁器が割れるように凶念の顔が押し潰された。

「ま、まずい……こ、これでは……忍法飛魂門(ひこんもん)が使え……な……い」

 凶念の最後の方の声はほとんど聞き取れなかった。

 石松が合わせた両手の中から、真っ赤な血や脳漿(のうしょう)、粉々になった骨の欠片が零れ落ちる。

「が、が、が」

 石松は振り返ると、倒れているお満に歩み寄って行った。

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