忍法水鏡
薄墨色の紗がかかる。
山岡鉄太郎と太田垣蓮月は街道脇から暗い影が広がる森に踏み入った。
少し歩くと木が乱立するようになった。
このような場所は蓮月の鎖鎌にとって不利なのではないか。
鉄太郎は宿場町での立ち合いを思い出す。
だがこの女人は人が多くいた町中でも鎖鎌を巧みに操って鉄太郎を窮地に追い込んだのであった。
蓮月が自ら選んだ戦場だ。恐らく勝てる目算があるとみてよい。
だがあえて誘いに乗ったのは、鎖鎌を縦横無尽に使われる開けた街道よりは、鉄太郎にとっても有利に働くと考えてのことであった。
鉄太郎が考えを巡らせていると、蓮月が不意に立ち止った。
少し開けた場所であった。それでも三間(五・四メートル)四方といったところ。
鉄太郎はさらに数歩進んでから蓮月と対峙した。
太い木を背にした。木の幅は鉄太郎の身体の倍はある。
これで背後からの鎖鎌の攻撃を防ぐことができるはずだ。
「ここでよいのか」
鉄太郎は刀を無造作に下げて持つ。
「はい。ここで決着をつけましょう」
「うむ」
鉄太郎は唇を引き結んだ。
ふと――。
火を吹き消したように蓮月の姿が消えていた。
地面に土を蹴った跡がある。
――いつ動いた。知らずに瞬きをしたときか。
いや、そんなことを考えている時ではない。
土の跡から蓮月は鉄太郎から向かって左に動いたはずだ。
目だけを素早く動かして視界の左をうかがう。
――木の裏に回ったか。
その時。鉄太郎の背後、右膝のあたりから影が現れた。
果たせるかな。木の裏から蓮月が襲いかかってきた。
間一髪で鉄太郎は蓮月の刺突を避けた。鎌は木に突き刺さる。
木に突き立った鎌を残して蓮月は左回りに木の裏へと消えた。
間髪入れずに蓮月は現れた。また右から。今度は鉄太郎の胸の高さを横に飛んで通り過ぎる。
ありえない動きであった。
――そばに立つ木を蹴って飛んだか。
再び左回りに消えた。
蓮月が通り過ぎた軌跡に鎖が残っていた。
――しまった。
蓮月は鉄太郎が背にした大木を一回り移動したので、先ほど残した鎌から伸びた鎖が鉄太郎を木に縛りつけるように巻き付く。
なれば、必殺の攻撃は次。
三度蓮月が右から飛んできて、木に縛りつけた鉄太郎にとどめの鎌を突き刺してくるはずだ。
「ふん!」
鉄太郎は鎖を握って渾身の力をこめて引っ張った。
蓮月もろとも引っ張りだして刀で仕留める。
だが意に反して、重さのない鎖をたぐりよせることになった。
鎖の先には蓮月が握っていると思われた鎌がなくなっていた。もちろん蓮月の姿もない。
鉄太郎の顔をさらに濃い影が覆った。
顔をあげると空中に鎌を振りかぶった蓮月の姿があった。
鉄太郎の鎖を引く動きを予見して鎖から鎌を外していたのだ。
なんたる天稟。
「おおう」
鉄太郎は敵に驚嘆する己を鼓舞して身体を動かした。
鎌の一閃をかろうじて刀で受け止める。
切っ先がわずかに左肩に刺さった。
「よくぞ受け止めましたね」
「そなたの技も見事だ」
二人は強烈な笑みで見つめ合った。
「終わらせましょう」
「うむ」
蓮月は瞬時に左の木に向かって飛び、その幹を蹴ってまた宙に舞った。
鉄太郎は身体に巻き付いた鎖をなんとか外しつつ、舞い来る攻撃をかろうじて弾いた。
蓮月は反対方向に立つ木を蹴って、今度は真横に鋭く飛んだ。
鉄太郎は動きを見切ることができずに脇腹を薄く斬られた。
蓮月の攻撃は止まらない。
上から下から、右から左から。
間髪入れずに鎌が襲う。
一撃を受けても、構えを直す暇もなく次の一撃が振り下ろされてくる。
鉄太郎は蓮月が二人、いや三人同時に存在するように感じていた。
――結界にはまったか。
皮を、いや肉を斬らせることはやむを得ない。
ただ一撃、蓮月の骨を断つことができればそれでよい。
機をうかがうしかない。
事実、鉄太郎の身体から血飛沫が散り始めていた。
まるで隙がない。ここまでか。
鉄太郎の脳裏に妻、英子の小作りな人形のように可愛らしい姿と優しい笑顔が浮かんだ。
――ここで死ぬわけにはいかぬ。きっと帰るぞ、英子。
蓮月が大きく左に動いて、鉄太郎の視界から消えた。
――ここだ。
鉄太郎は脇差を抜いておもむろに眼前の宙に放る。
そこに鋭い勢いで蓮月が飛び込んできた。
宙にある脇差が蓮月に突き刺さった。
いや、そう見えた。だが、蓮月は地に膝をついて、後頭部も地に届くほど背を弓なり反って土の上を滑る。
蓮月は脇差を避けた。しかし動きは止まった。
この瞬間を逃さずに鉄太郎は刀を振り下ろして、返す刀で斬り上げた。
蓮月ははね上がるように後ろに宙返りをしてよけた。
鉄太郎が狙っていたのはこの刹那であった。
立ち上がった蓮月を狙って必殺の突きを繰り出した。
蓮月が驚愕の目を見開く。双眸が光った。
これだ。蓮月の隠された忍法。
――だがこの一刀を止めるわけにはいかない。
構わずに鉄太郎は刀を蓮月に刺した。
「化物退治第五番――」
鉄太郎は不思議なものを見た。
己の刀の切っ先が蓮月に届く寸前。空間に刀を中心に水面の波紋のようなものが広がるのを。
そして切っ先が消失した――。
突如、鉄太郎は右胸が貫かれるのを感じた。
見ると、鉄太郎の眼前の空間にも水面の波紋が生じて、そこから刀の切っ先だけが飛び出して胸に刺さっていた。
――これはおれの刀。
かろうじてそのことを理解した。
――見事なり、大田垣蓮月。おれの負けだ。
わずかに微笑んで鉄太郎は倒れた。
「八瀬忍法水鏡」
地に倒れた鉄太郎を見下ろしながら、蓮月は大きく肩で息をしていた。
「山岡鉄太郎さま。あなたはお強かった。わたしがここまで追い込まれたのは初めてです。水鏡が成るか、山岡さまの刀に刺し貫かれるか、まさに紙一重でした」
もう一本の鎌と鎖を拾い上げる。
「山岡さまは戦いの最中、生死の境で生きることを望みました。わたし――八瀬童子はこの世では死した存在。つねに死地に身をおく覚悟でおります。それがこの勝敗を分けたのです」
蓮月は鉄太郎に背を向けた。
「そんなわたしたち八瀬童子を生ある世界に引き上げてくれるのが、地の龍。わたしたちはどうしても手に入れなければなりません」
蓮月は顔を上げた。
目の前に渡世人風の女が立っていた。
長い髪をした透き通った白い肌の玲瓏な美しいおなご。
目を閉じて杖を抱くように持っている。
座頭の女、市であった。
「あなたたちは、山岡さまの」
市の背後に二人。
総髪の細い顔から垂れたどじょうひげが印象的な男、正雪。
そして山のような巨漢だが顔は童子のように幼い、石松。
原宿で置いてけぼりをくった清水次郎長子分の三人は鉄太郎を追って来て、この時この場所で遂に追いついたのであった。
「先生!」
蓮月の後ろに倒れ伏している鉄太郎をみとめて、正雪は叫んだ。
鉄太郎の身体の下からみるみると血が広がっている。
「どうした正雪」
市が静かだが、気を張った声で問うた。
「せ、先生が死んでいる」
「まだ息はあります。急ぎ手当をすれば、あるいは一命をとりとめるかもしれません」
感情を抑えた声で蓮月が告げる。
「おまえが先生を」
市が仕込み杖の柄を強く握る。
「鬼童衆が首魁、太田垣蓮月。山岡鉄太郎さまとは尋常な勝負の上で倒しました」
「正雪、石松。早く先生の手当を」
「だが、おまえは――」
正雪は言葉を飲み込んだ。
「わかった、頼んだぞ。おまえは次郎長一家最強の侠客だ」
市と蓮月は向かい合ったまま微動だにしない。
石松が鉄太郎に駆け寄って、そっと担ぎ上げた。
正雪と石松は森から去って行った。
美しい二人の女が森の中で対峙したまま、しばし時が流れた。
風が吹いたのか、樹上でうねるような葉擦れの音が鳴った。
「あなたが山岡鉄太郎さまより強き者であれば、相手をしましょう。そうでないなら無駄に命を散らすだけです」
蓮月は切れ長の目を細めた。
「斬る!」
市は仕込み杖を構えた。




