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朝敵、まかり通る  作者: 伊賀谷
第六章
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西郷の絵図

 鉄太郎は(はかま)を脱いで、着物の(すそ)から傷を負った左の(もも)を晒していた。

 お満が手当をしてくれている。

 傷口に軟膏(なんこう)を塗って布をきつく巻いてくれた。

薩摩隠密(さつまおんみつ)秘伝の血止め薬を塗っておきました。歩けますか」

 鉄太郎は立ち上がって、そっと左足に体重をのせた。それから確かめるように何度か地面を踏みしめる。

「うむ。動くには差し障りはないようだ。かたじけない」

 鉄太郎は笑みを浮かべる。

「痛みはあるでしょう」

「武士たる者、戦場においては気合で傷口を塞ぐものだ」

「まあ。強がりを」

 中村半次郎(なかむらはんじろう)が吹き出した。

「どうした」

「おまえたちまるで夫婦(めおと)のようだぞ」

 お満はうつむく。

「何を言うか」

「おまえはそんおなごを月ノ輪紅之丞(つきのわこうのじょう)から命をかけて奪い返した。おなごは先ほどの牙刀院凶念(がとういんきょうねん)との戦いに加勢をした」

「いかにも……」

 すでに徳川慶喜(とくがわよしのぶ)名代(みょうだい)と、闘争の立会人の立場をこえた関係であると言わざるをえない。

「まあ、おいの知ったことじゃなかがな」

 鉄太郎は刀を腰に差す。

 竹の水筒に入った水をあおる。

「行くのか」

「うむ。中村半次郎、おぬしには世話になったな。礼を言う」

「それは鬼童衆と戦いが終わってからでよか」

 半次郎は照れくさそうに鼻の下をこすった。初めて見せる仕草であった。

「さあ。こん先に太田垣蓮月(おおたがきれんげつ)が待っちょっ。こん闘争に決着をつけて、おいと勝負じゃ」

「そうしよう」

 お互いににやりと笑う。

「鬼童衆の首魁(しゅかい)。あのおなごは強かど」

「存じておる。藤沢宿で手合わせをした時にはまだ何かを隠していた。おそらくは八瀬忍法」

「正直に言う。おいはおまえと勝負をした。じゃっで分かる、おまえは十中八九、連月には勝てん」

 半次郎の力強い眼差しが鉄太郎の目を射抜く。

「かもしれぬ。だが、おれはまたあの女に会いたい」

 お満が(うつむ)くのが目に入った。

「おぬしが言ったであろう。おれは剣士だからこそあの女と再びまみえて戦いたい。最強の敵と命のやりとりをしたいという望みを抑えることができぬのだ」

 鉄太郎の身体に期待とも恐れともつかぬ奮えが走っていた。

「山岡鉄太郎。おまえもこん闘争ん中で強うなっちょっ。おいと戸塚宿で勝負をした時よりもな。おまえのすべてを出し切ればえ」

 鉄太郎は力強く(うなづ)いた。

「この旅が終わったら、おれはもう刀を持たぬだろう。命のやりとりはこれが最後だ」

 鉄太郎の声には一抹の寂しさが交じる。

「ならば、すべてが終わったらおいと一緒に来い。西郷先生はすばらしかお人じゃ。薩摩(さつま)とともに行こう」

「どこまで――」

「そうじゃな。行けるところまでじゃ」

 志士である半次郎が鉄太郎には眩しく見えた。

 鉄太郎がこの闘争に勝って江戸を火の海から救ったとしても、世の流れは薩長(さっちょう)のものになることは間違いない。

 ――ならば、おれが日本のためにできることはあるのか。

 漠然と考えがよぎったが、すぐには答えが出ない……。

「では」

「先に駿府(すんぷ)に行って待っちょっぞ」

 鉄太郎は頷いた。半次郎を残してお満と共に歩き出した。


 二人は四半刻(しはんとき)(十五分)ほど歩いた。

「お満……」

「はい」

「おれは、なぜ西郷吉之助(さいごうきちのすけ)が一介の隠密であるそなたを立会人としたのかを考えている」

「わたしには分かりません」

「地の龍、と言ったな」

「はい」

「たとえば、そなたは知らぬうちに地の龍なるものを知っている、あるいは持っている……」

「そんなことはあり得ません」

 お満の声の最後の方は消え入りそうであった。

「西郷吉之助は、いや岩倉具視(いわくらともみ)かもしれぬが、駿府に来たそなたを手に入れたいのかもしれない。とすれば、おれたちと鬼童衆の勝敗は大したことではないのかもしれん」

 鉄太郎の驚愕の発想にお満は言葉を失っている。

「いや、勝さんの言葉を思い返せば、西郷吉之助はおれたちにそなたを駿府に送り届けてほしいと思っているのかもしれない」

 だんだんと鉄太郎の言葉に確信の色があらわれてきた。

「なるほど、西郷という男は(おと)に聞くとおりの策士(さくし)であるな。この闘争は薩摩による江戸への攻撃を止めつつ、地の龍なるものを手に入れる壮大な絵図(えず)の上に描かれているのだ」

「……西郷さまならそのようなお考えをなさるかもしれません」

「となれば地の龍とは何なのか。それは薩摩藩、いや官軍に渡して良いものなのか」

「山岡さま」

「どうした」

「わたしを斬ってください」

「なに」

「そうすればすべてが終わります。山岡さまが命をかける必要もありません」

「だが、江戸が火の海になる」

 鉄太郎の考えが正しいとすれば、お満を駿府まで送り届けることが必定(ひつじょう)だ。

「安心せよお満。そなたはおれが駿府まで連れて行く」

 鉄太郎はいつもの朗らかな笑みを浮かべた。

「おれはいつかそなたの本当の顔がみたいと言ったな――」

 鉄太郎はお満の顔をのぞき込む。

「おれがこの旅で見てきたそなたが本当のお満だ」

「山岡さま……。お満はあなたを好いております」

 鉄太郎はその言葉には答えることができない。

「もしわたしが、山岡さまの知るわたしでなくなった時。その時は斬ってくれますか」

 鉄太郎はゆっくりと目を閉じてから開いた。

心得(こころえ)た――」

 鉄太郎は振り向いた。

 街道の先からこちらに向かって歩いてくる美麗な女人(にょにん)

 吉祥文(きっしょうもん)の着物に笠を被って三味線を抱いた鳥追(とりお)い女姿。

 鬼童衆首魁、太田垣蓮月――。

 こちらに気が付いて優美な所作で頭を下げた。

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