群衆
山岡鉄太郎とお満こと益満休之助は街道を並んで歩いている。
右手には田んぼが広がっている。田植えの季節にはまだ早く、一面に土が見えていた。
左手は山になっており、なだらかに登る壁となっている。森の木々が街道に影を作って、夏のような陽射しをさえぎってくれている。
鉄太郎はお満の横顔をうかがう。
――おれはこの女のために命をかけた。
この闘争に必要な立会人ではあるが、そこまでする必要があったのか。
鉄太郎としても半ば本能的にとった行動であった。
それに清水次郎長の子分たちも、お満に懐いている。
――これも忍びの術なのか。
知らず、お満の魅力に囚われてしまったのだろうか。
いや、もっと根源的な、この女を守らずにはいられない衝動であるように思う。
あるいは尊王の精神に近しいものがあるのかと思ったが、あまりにも馬鹿馬鹿しいと心中で自嘲した。
――それもあと一日。
明日には駿府に到着する。そうなればお満とも別れることになるだろう。
深刻に考えるだけ無駄かもしれない。
そのような思いを巡らしながら田んぼの方に目を向けると、農夫が雑草とりをしている。
他にも女衆があぜ道に車座になって何を話しているのか、楽しそうに笑っている。
童たちが駆けずり回っている。
広い景色に点々とそのような者たちが目に入る。
東海道の向こうからこちらに向かってくる、鉄太郎たちと同じ旅人もいる。
「のどかであるな」
「はい」
鉄太郎が再び田んぼに目を向けると、農夫がくびを傾げてこちらを見つめている。
童たちの方に目を向けてみると、童も立ち止まって鉄太郎たちを見つめている。
「なにか……」
「どうかしましたか」
「おかしいな」
女衆に目をやる、女たちは鉄太郎から目を背けた。
「村の者たちことごとくがおれたちを見ていないか」
「先ほどすれ違った旅の方もこちらを見ていたような」
鉄太郎は振り返る。
旅姿の男女が立ち止まってこちらをじっと見ている。
「なんだ」
また農夫に目を向ける。
――いない。
いや、先ほどよりずいぶん近くに移動していた。
よく見ると手に鎌を持って佇んでいる。
今まで気が付かなかったが、他にも農夫がいて、鉄太郎の視界に入る位置に集まって来ている。
みんな鍬などの農具を持っている。
「お満、なにかおかしいぞ」
女衆があぜ道を鉄太郎たちの方に向かってくる。
何かが鉄太郎の肩にあたった。
「山岡さま、石です。童が投げました」
続けて童たちが石をいくつも投げてくる。
「これはどうしたことだ」
鉄太郎は石をよける。山なりに飛んでくる程度であれば当たるものではない。
石は次第に直線的な軌道を描くようになってきた。早さも増してきている。
農夫があぜ道から街道に上がってきた。手に鎌を持っている。
「おい。拙者たちがなにかしたのか」
鉄太郎が農夫に近づいて問う。
農夫はいきなり鎌で斬りつけてきた。
鉄太郎はその手首を掴む。
「なにをする」
農夫の目は血走っている。唸り声をあげる口からは涎が垂れている。
そしてかなりの力で鎌を押し込んでくる。
鉄太郎は掴んだ手首を捻って、農夫をひっくり返した。
「山岡さま」
お満が切迫した声をかける。
「この場を離れた方がよろしいようです」
お満は背後を見つめている。
鉄太郎も同じように背後を見ると、先ほどすれ違った旅の男女が早足でこちらに向かってくる。
「どうやら八瀬鬼童衆の仕業のようだな」
「恐らくはそうであるかと」
「お満走るぞ」
二人は駆けだした。
すると、倒れた農夫も起き上がって駆けだした。
旅の男女も駆けだした。
女衆も童も田んぼから街道に上がってきて、駆けだす。
「追ってくるぞ」
他にも農夫たちが続々と街道に上がってくる。
鉄太郎とお満の背後を十数人が砂塵を巻きあげながら追いかけてくる。
「早いぞ」
男はともかく、女子供も並の者とは思えない早さで走ってくる。
鉄太郎と並走するお満がくすくすと笑った。
「この有り様でよく笑っていられるな」
鉄太郎が呆れた声を出す。
片や剣豪、片や隠密。
疾走しながらでも会話をする体力と気力は備えている。
「いえ、江戸で薩摩藩邸が焼けたときにこうして二人で走ったことを思い出しまして」
「そうであったな。あれがおぬしとおれとの再会であった。まさかこのような目にあうとはな」
鉄太郎は苦笑した。
「それはさておき。追いかけっこはここまでにしましょう」
お満は言うや、背後に向かって手を振った。
三つの撒菱が飛んだ。
先頭を走る者たちそれぞれの足の甲や脛に刺さる。
撒菱が刺さった者たちはもんどり打って倒れた。倒れた者につまづいて、さらに倒れる者もいる。雪崩のように群衆の一部が崩れた。
「いささか乱暴ではあるが、仕方ないか」
鉄太郎は舌を巻いた。
それでも群衆は追ってくる。倒れた者たちも立ち上がる。驚いたことに足に撒菱が刺さった者も意に介さずに走り始める。
「馬鹿な。あの者らは痛みを感じぬのか」
「鬼童衆の忍法でしょう」
鉄太郎の懸念は追ってくる者たちが単に鬼童衆に操られているだけにすぎないのではないか、ということであった。
そうであるがゆえに、攻撃をすることができない。
十数人であれば一人ずつ足の骨を外してもよい。だが、女子供にそれはためらわれる。
鉄太郎は少し息が上がってきた。
振り向くと、群衆は疲れを知らぬがごとく血走った目をして全力疾走を続けている。
「この分だといずれは追いつかれるな」
お満の表情にも先ほどまであったゆとりの色が消えている。
その時、前方に一人の男が佇んでいた。
こちらを見てにやりと笑ったのは原田左之助であった。
「お困りのようですね、旦那」
「原田、逃げよ。あの者らは尋常ではない」
そう言いながらも、鉄太郎たちは左之助を通り過ぎた。
走る速度をゆるめて振り返ると、左之助は腰をおとして槍を構えていた。
――まさか。
左之助の槍は先頭を走る農夫を突き刺した。
農夫は空中に縫い止められたように動かなくなった。
「原田、やめろ」
左之助は槍を引き抜いて、次の男の足を払いあげる。もんどりうって倒れた男に上から槍を突き刺した。
その後も、槍を振り回して、両端の穂先で群衆を斬ったり刺したりして蹴散らした。
「ほらほらほらー」
左之助は哄笑している。
のどかな白昼に行われている一方的な殺戮であった。
それでも群衆は左之助に向かってくる。
遂に童が左之助の足にしがみついた。
左之助はその子を蹴り飛ばす。
転がる童に槍を向ける。
「おい、止さぬか」
鉄太郎は槍の柄を掴んだ。
「何するんですかい。旦那」
「止せと言っている。童ではないか」
「おれが助けなきゃ、旦那たちが危なかったんですよ」
「だからといってこの者らを殺めてよいわけではない」
「うるせえ!」
左之助が血走った目を向ける。こめかみに青い血管が浮き出ている。
「おれに指図をするんじゃねえ」
鉄太郎は左之助の豹変ぶりに目をむいた。
――まさか、原田も。
群衆がその場に一斉にくず折れて動かなくなった。
「これは」
お満が怪訝な声をあげる。
照りつける太陽の下に立っているのは、鉄太郎とお満と左之助だけであった。
「山岡さん、勝負しましょうや」
左之助が穂先を下に向けて槍を構える。
「原田、おぬし正気か」
「ええ、正気ですよ。剣豪山岡鉄太郎と勝負してみたかったんですよ」
左之助は白昼の殺戮のためであろうか、血に酔ったような目をしている。
「致し方なし」
鉄太郎は柄袋を外して、鯉口をきった。
見た限り、原田左之助の槍は達人の域に達していると言ってよい。
さらに鬼童衆の術中に陥っているかもしれない。
――双方が無事に立っていられるとは思わぬ方がよいな。
鉄太郎は覚悟を決めて抜刀した。




