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朝敵、まかり通る  作者: 伊賀谷
第五章
32/45

原宿

 時は少し遡り、決闘の舞台から山岡鉄太郎とお満が去った少しあと。

 月ノ輪紅之丞(つきのわこうのじょう)の亡骸のそばに太田垣蓮月(おおたがきれんげつ)中村半次郎(なかむらはんじろう)が立っていた。

「まさか山岡鉄太郎が勝つとはな」

 しばらく半次郎は目を見張っていた。

「あるいは、とは思っていましたが。山岡鉄太郎は底が知れぬお方です」

「いや、あいつはこん闘争ん中でどんどん強うなっちょっ」

 半次郎は恐れてはいない。

 むしろ鉄太郎との対決の時がますます楽しみになっている。

 それより気になることがある。

 紅之丞が決闘の前に放った一言だ。

牙刀院狂念(がとういんきょうねん)ちゅう男がまだ生きちょっとはどげんこっだ」

「あの男は不死身です」

「なんじゃと」

「首を斬られようが、心の臓を刺されようが、死にはしませぬ」

 半次郎は息を飲む。

「すでに山岡鉄太郎たちの命を断つための支度をしているはず」

「ちゅうこっはおいがおぬしらに味方すっと、六対五になる。約定に背いてしまうではないか」

「それはご心配ないかと」

「なぜじゃ」

「中村さまが山岡鉄太郎と決着をつけるのは、わたしたち八瀬鬼童衆がことごとく敗れたあとでございましょう」

「そんつもりじゃ」

「そうでありましたら、駿府でお待ちなされませ。山岡鉄太郎が無事に駿府にお着きになってお勤めを果したあとに。そこで勝負をすればよろしいかと」

 半次郎は腕を組んでしばらく考えてから。

「おぬしの言う通りじゃな。では、おいは薩摩側の影の立会人としてこん闘争を見届けさせてもらう」

 中村半次郎は蓮月と別れて、山道を歩み去った。


 山岡鉄太郎一行は夕暮れ頃に原宿に到着した。

 原宿は東海道五十三次の中でも最も小さな宿場町のひとつである。

 原という地名はかつてこの一帯を覆っていた、「浮島が原」と呼ばれた広大な湿地帯に由来する。

 この湿地帯は農業に不向きであり、洪水や海水の逆流も多く、地元住民をしばし苦しめた。

 一方で、広大な湿地帯の向こうにそびえる富士の姿は旅人たちを喜ばせた。

 残念ながら鉄太郎たちが到着した時刻では拝むことはできないが。

 今夜の宿とする旅籠に荷を下ろした。

「明日には駿府手前の府中まで行かねばなりませんな」

 正雪が首をほぐすように左右に曲げながら鉄太郎に告げる。

「やはりぎりぎりの旅になったな」

「しかもまだ鬼童衆は二人残っています」

「うむ」

 依然、厳しい道中に変わりはない。

「もし」

 部屋の外の廊下から声がする。

 正雪が(ふすま)を開くと、人の良さそうな旅籠の主人が笑顔で座っていた。

「この宿の裏手に岩風呂(いわぶろ)がございます。ぜひ旅の疲れを流してくださいませ」

 それだけ言うと、頭を下げてさがって行った。


 夕餉(ゆうげ)のあと、鉄太郎は主人に薦められた岩風呂に浸かっていた。

 周りを岩に囲まれた大きな池のようであった。

 湯気の底に月光がうすく揺らめいていた。

 鉄太郎は湯煙が立ち上る満天の星空を眺めていた。

 熱い湯の中に身体を浮かべると、疲れが溶け出していくようで心地よかった。

 ――英子(ふさこ)義兄(あに)上は息災(そくさい)であろうか。

 江戸で己の帰りを待つ妻と、高橋精一郎(たかはしせいいちろう)のことを思い浮かべた。

 岩風呂への一本道を誰かが近づいてくる音が聞こえた。

 ――他の客人か。

 鉄太郎は風呂の端の方へ流れるように移動した。

 着物を脱ぐ衣擦れの音が耳に入る。

 しばらくすると、そっと足を湯に入れる音。

 鉄太郎は何気なくそちらの方に目をやった。

 市であった。

 細い裸身が月光で青白く発光していた。

 湯で濡れぬように、長い黒髪を上げて結っている。

 小ぶりだが形の良い乳房。

 滑らかな足の付け根の淡い(かげ)り。

 若いおなごの美しさに溢れていた。

 鉄太郎は見とれていたのも束の間、我に返って目を背けた。

 市は鉄太郎に気づかぬ様子で湯に浸かる。

 鉄太郎はそのままでいるのも気まずいと思い、軽く咳払いをひとつした。

「先生ですか」

 市がたずねる。

「ああ、市か。おれはすぐに上がるのでゆっくり漬かって疲れをとるがよい」

「邪魔をしてしまいましたか。先生もゆっくりしていってください」

「月ノ輪紅之丞との戦いで怪我をしたであろう」

「数か所。薄皮を斬られただけです」

「主人がこの湯は刀傷に効くと言っていた。おなごの肌に傷が残るのはまずいからな」

 湯の音から市がこちらに近づいて来るのが分かる。

「先生。あたしの身体、見ました」

「いや、湯煙が濃くてな。そばにいても見えぬ。安心するがよい」

「よかった……」

 悪いと思いながらも、市の目が見えないのをいいことに、鉄太郎は嘘をついた。

 市の手が鉄太郎の背に触れた。

 さするように肩や腕に触れていく。

「ご立派な身体ですね。先生がお強いはずです」

 普段は寡黙な市がよくしゃべる。野外で裸身になっていることで解放的になっているのか。

「お顔を触ってもよろしいでしょうか」

「……うむ」

 市の両手が包みこむように鉄太郎の顔を触る。

「冴えない顔で興冷めしたであろう」

 鉄太郎は笑った。

「いえ、凛々しいお顔です」

「それは嬉しいな」

「江戸の遊女たちが放っておかないのも頷けます」

「こら」

 今度は二人して笑った。


「市は年はいくつだ」

「十九です」

「なぜ次郎長一家に入ったのだ」

「幼い頃は清水湊(しみずみなと)の近くで母と二人で暮らしていました。母には男がいて、やくざ者でしたがあたしには優しかった」

 二人は身の上話ができるほどには打ち解けていた。

「目の見えないあたしに熱心に剣術を教えてくれたのもその男です。ただ……」

「何かあったのだな」

「博打好きで、酒癖がわるいところがあって」

「そうであったか」

「ある日、博打に負けて帰って来て。ひどく酔ってもいました。母に金を貸せと大声を上げていました」

 市の声はだんだんと昏くなっていく。

「そしてあいつは母を斬ったのです」

「なんと」

「気が付いたらあたしはあの男を斬っていた。それが初めての殺し」

 壮絶な過去であった。鉄太郎は声を出すことができなかった。

「そのあとに捕り方がたくさん集まって来ましたが、清水次郎長(しみずのじろちょう)親分が口を聞いてくれて、あたしは親分に連れられて行きました」

「そうであったか。つらいことをよくぞ話してくれたな」

「いいんです。つらくなんかありません」

 市が湯を肩にかける音がした。

「あたしは生まれながらのやくざ者なんです」

 市は泳ぐように着物を置いた岩の方に向かって行った。

 鉄太郎はその姿を目で追う。

 市は着物の中から小さな袋を取り出した。さらにその中から平べったく(まる)いものを手に取った。

 手鏡であった。

「お満さまに藤沢宿で買ってもらったのです」

 そういえば二人で買い物をしていたのを鉄太郎は思い出した。

 市は大切そうに鏡を持って顔に向けていた。目の焦点があまり合っていないのでぎこちない仕草に見える。

「市さんはきれいだから、いつか自分の姿が見れるように、とお満さまが言ってくださって」

 鉄太郎は派手に音を立てて、湯で顔を洗った。

 零れてきた涙も一緒に洗い流していた。

 ――この者たちの命を散らしてはならない。

 鉄太郎は固く決心していた。

「ねえ、先生」

「なんだ」

「あたしの身体きれいですか」

「ああ、きれいだ」

「……見ましたね」

 市は悪戯っぽく笑った。


 翌三月九日、朝早く。

 鉄太郎はお満と二人だけで原宿を発った。

 旅籠の主人には正雪たちへの書置きを渡しておいた。

 これから先は鉄太郎一人で行く。ついて来なくてよい。と書いてある。

 鉄太郎はこの闘争でこれ以上の犠牲は出したくなかった。

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