果し状
三月八日。昼四ツ(十時)。小田原宿。
徳川慶喜の名代として、駿府に到着する期限まであと二日。
山岡鉄太郎は小田原宿の外れにある墓場のひとつに、五寸釘を埋葬した。
今は線香の香り漂うその墓の前にしゃがんで手を合わせている。
墓前には四本の五寸釘が供えてあった。
釘を咥えて笑みを浮かべる五寸釘の顔が思い出された。
――五寸釘、すまぬ。
鉄太郎が立ち上がって振り返ると、正雪と市がいた。
「五寸釘はどこの生まれだろうか」
鉄太郎は二人に声をかけた。
「たしか、次郎長一家に草鞋を脱いだ時には――」
正雪が顎に手をあてた。
「上州(群馬県)の生まれと言っていたようです」
「そうか。故郷に帰してやれないが許してくれ」
鉄太郎は江戸よりさらに向こうにある上州の方角の空へ顔を向けた。
小田原宿は青空だが、東の方は少し灰色がかった空であった。
「先生が気にすることではございません」
正雪も同じように空を見上げていたが、やがて宿場町の方へ目を向けた。
三人は宿をとっている旅籠に向かって歩き出した。
「五寸釘が言い残した、刀から飛ばす血に気を付けろ、という言葉。これが何を意味するのか」
鉄太郎が顎を撫でる。
「それが分かれば月ノ輪紅之丞を倒す策も見つかると」
正雪はどじょう髭を弄る。
「うむ」
「五寸釘と紅之丞は二間は離れていました。にも関わらず、斬られた」
「たしかに左の肩口に刀傷があった」
三人は黙って歩いた。
宿場町に戻り、巨大な石垣の上に鎮座する小田原城の威容も目に入らないままに、旅籠の前まで戻って来ていた。
「うーん、分からん」
総髪をかきむしりつつ正雪は振り返る。
「五寸釘よ、教えてくれえ」
お城の天守の向こうの五寸釘の墓に向かって声をあげた。
鉄太郎は五寸釘が斬られた時の光景を思い返す。
月ノ輪紅之丞の身体は金嶽剛斎の血で濡れていた。いや、刀も真っ赤に濡れていたように思う。
――刀を振った時にこびりついていた血が飛び散った。
鉄太郎は眉間に皺をよせる。
「……その血に気をつけよ」
独り言ちた。
「ああ。東の方は雨ですなあ」
正雪が途方に暮れた声を出す。
たしかに鉄太郎が先ほど上州の方角を見たときも、灰色に染まった空が迫って来ているように見えた。
――雨か。
肩に一滴の雨が落ちて、着物に黒く染みわたる様が頭に浮かんだ。
しばらく己の肩を眺める。
「そうか」
鉄太郎は思わず声を上げていた。
「先生、どうしました」
正雪と市が顔を向けている。
「血だ。月ノ輪紅之丞の刀から飛んだ血が付くと、そこが刀で斬られたように傷つくとしたら……」
「そんな面妖な」
正雪はしばらく呆けた顔になったが、すぐに気を取り戻す。
「いやまて、相手は鬼童衆。そのくらいの妖術は使うと考えなければいけませんな」
「そう考えれば、刀が届かない相手に五寸釘が斬られたのも、五寸釘が死して残してくれた言葉も納得できる」
正雪がまた五寸釘の墓の方を向いた。
「五寸釘よ。おまえのおかげで彼奴の忍法の秘密が分かったぞ」
手を擦り合わせて拝む。
「あ」
正雪の動きが止まる。
「先生。忍法の謎が解けたとして、どのようにして戦うのですか」
「まあ、それは追々考えるしかないな」
快活に微笑む鉄太郎を見て、正雪はがっくりと頭を落とした。
その時、通りの向こうから石松が地響きを立てるほどの勢いで駆けて来た。
「お、お、お」
「慌ててどうした、石松」
石松が正雪に近づいて何やら話している。
「なんだと!」
正雪が声をあげる。
「いかがした」
鉄太郎も二人のそばに寄った。
「先生、大変です。鬼童衆からの果し状が来たようです」
「来たか」
「高札が立っていると、石松が言っています」
「行こう」
鉄太郎たちは石松のあとをついて行くと、ちょっとした人だかりができていた。
人びとは真新しい木で作った高札に目が釘付けになっている。
二人の薩摩藩兵が高札の前に棒を構えて立ち、町人や旅人たちが近づかないようにしている。
鉄太郎は人の隙間を縫って最前に進み出た。
高札に書いている文字を読む。
朝敵家来へ。
立会人と再び同道したくば、
本日昼九ツ(十二時)、ひとりにて箱根山ふもとの三本杉まで来られよ。
この言を違えば、立会人の命はなきもの也。
しばらくすると正雪も横に並んで高札を読んでいた。
「これは」
「たしかに月ノ輪紅之丞からの果し状だな」
「先生、こいつは罠かもしれません」
「それでもおれは行かねばならぬ」
人だかりから抜け出した二人は、待っていた市と石松の元に戻った。
高札の内容を市たちに話す。
「ならばわたしが行きます」
市が仕込み杖を両手で握る。
「いや、高札には朝敵家来が来い、とあった。朝敵である徳川慶喜の家来であるおれを指していることは明白」
「ですが」
「それに万が一、奴らの言に従わねば、お満の命はないとまで書いてある」
次郎長の子分たちは押黙る。
「そして、月ノ輪紅之丞は必ずひとりで来る」
「どうして分かるのです」
正雪は首をかしげる。
「あいつは八瀬童子のまえに、剣士だからだ」
鉄太郎の眼差しに力がこもる。
刀を交えたのは一度きり。
鉄太郎の打ち込みを紅之丞が受けた。
紅之丞の刀は力強く、危なく鉄太郎は刀を手放すところであった。
その瞬間で数多の言葉で語り合ったほどに、二人は分かり合ったはずだ。
「剣士であればこそ、余人を交えず立ち会いたいと考えるであろう」
「そういうものですか」
「そうだ。なぜなら、このおれも月ノ輪紅之丞との勝負を望んでいるからだ」
これから待ち受ける死闘に喜びを覚える己がいることを、鉄太郎は感じていた。
鉄太郎は宿にしている旅籠の上がり框に腰をかけて、脚絆をつけた足に草鞋の紐をきつく結びつけた。
玄関の外から正雪と市と石松がその様子をのぞいている。
正雪は首から下げた竹筒をそわそわと見ている。
「よし」
決闘へ向かう準備ができた鉄太郎が立ち上がった。
頭を下げて玄関をくぐると、気持ちのよい青空が広がる空が目に入った。
「先生、もう少し待ってください」
正雪の声に鉄太郎は振り向いた。
「まだ行ってはいけません」
正雪はしきりに竹筒の中にいる狐、亜門を見つめている。
鉄太郎は菅笠を少し持ち上げて東の空を見つめる。朝方より重そうな鉛色の空が迫って来ていた。
――雨になるか。
そして反対の方角の箱根山に目を向ける。
「早くせぬと刻限に遅れてしまうぞ」
「いま少し」
二羽の燕が鋭い軌跡を描いて飛んでいた。
「かの天才剣士、佐々木小次郎は燕が飛ぶのを見て秘剣を思いついたというが。おれは何も思いつかぬな」
そのまましばらく空を眺めていると。
「コーン!」
竹筒から亜門が顔をのぞかせて鳴いた。
「先生、大丈夫です」
「そうか」
市と石松はまだ顔に不安の色を浮かべている。
「おまえたち、おれが負けると思うか」
二人ははっと目を上げた。
「おれは山岡鉄太郎だぞ」
鉄太郎は朗らかに笑った。
二人の蒼白な顔に赤みがさした。
「先生、ご無事で!」
「おう」
いざ、山岡鉄太郎は決闘の地へと足を踏み出した。




