剛剣と妖剣
三月八日。朝五ツ(七時)。
箱根山にかかっていた朝靄がようやく晴れてきた。
「――おい」
太田垣蓮月は野太い声で我に返った。
「珍しかね、おまえが心ここにあらずとは」
「中村さま」
蓮月が振り返ると、中村半次郎が旅籠から出てきていた。
「前ん晩、部屋で益満休之助と二人きりになっちゆてから様子がおかしかど」
「なにかあったんか」
半次郎が目を細める。
「いいえ、なにも」
蓮月は半次郎から目を逸らして、山道に目を向けた。
半次郎もつられて視線を動かす。
「あいつはなにをしちょっど」
月ノ輪紅之丞が山道の端の切り株に腰を下ろしていた。
これまでの薬売りの格好ではなく、暗鳶色の着物と濃墨の袴を着ている。いかにも剣客といういでたち。
左目にはまだ晒を巻いている。
それより奇妙なのは抜き身の刀を立てて右手に持っていることだ。
その姿勢のまま微動だにしない。
どこからともなく蝶が上に下にと飛んで来た。
紅之丞は自然と一体となっているのであろうか。蝶は気にせずその周りを飛んでいる。
どれほど時が経ったろう。
蓮月と半次郎はその様子をずっと眺めていた。
紅之丞の持つ刃に蝶がとまるかどうか迷っているかに見えたとき、わずかに紅之丞の刀が前方に押し出されたのを二人は見た。
それから蝶はしばらく飛んでいたが、やがて左右の羽が二つに別れた。
いや、二人は蝶の胴体が縦に真っ二つに斬られていることを見逃さなかった。
まさに神技。
月ノ輪紅之丞はゆっくりと蓮月と半次郎の方を隻眼で見る。
「目が合うた」
にやりと笑った。
それから四半刻(三十分)ほどして。
紅之丞は、手首に縛めをしたお満を連れて出立の準備を終えていた。
お満は頭に柿色の袋を被されて、さきほど紅之丞が座っていた切り株に座らせられていた。
「紅之丞」
蓮月がその背に声をかける。
「山岡鉄太郎の首をとってくる」
不敵な笑みを含んだ声が返ってくる。
「この女を餌にすれば、きっと彼奴は一人で来る」
すでに来るべき勝負を夢想して浮かれた口調になっている。
「おなごを人質にして勝負をすっとな」
吐き捨てるように半次郎が言う。
「あくまで彼奴を呼び出す餌よ。そのあとは尋常に勝負をつける」
「山岡鉄太郎は強かど。足元をすくわれんごつな」
紅之丞の昏い笑みが振り返る。
「中村さま。お言葉を慎まれよ。まずお手前を斬って黙らせてもよいのですぞ」
「なに!」
半次郎は柄に手をかけた。
「やめろ、紅之丞」
蓮月が二人の間に割って入る。
半次郎は蓮月の身体をどける。
「どけ。紅之丞の目がほんのこて治っちょっかは人を相手に斬り合わんなわからんじゃろう」
ゆっくり刀身が滑りだす。
「のう」
半次郎は刀を真直ぐに立てて蜻蛉の構えをとった。
紅之丞は凄まじい剣客だ。
強敵と相対したからには人斬り半次郎の血が騒がずにはいられない。
紅之丞はまだ背を向けている。
――来い。
仮にも今は味方である紅之丞を斬ることに、なんのためらいもない。
それが中村半次郎という男。
「やめておいた方がよいかと」
「なんだと。おまえの仲間ん首を斬り飛ばしたおれの剣に臆したか」
紅之丞は拳で口を押さえて、くつくつと笑った。
「なにか勘違いをなされておる。中村さまが斬った牙刀院狂念。あれはまだ生きております」
「なに」
紅之丞の姿が霞んだ。
半次郎がそう見えた時には、紅之丞の持った刀の刀身を寝かしている。切っ先が半次郎の刀の刃に当てられていた。
紅之丞の切っ先が半次郎の刀身に対して垂直に合わさった形だ。
――これはなんじゃ。
人が見たら、半次郎が振り下ろす刀を、紅之丞が器用に刀の切っ先で支えていると思うだろう。
半次郎は刀を動かすことができなかった。
まさに押すことも引くこともできない。
磁石のように二本の刀が吸いついていた。
「いかが」
紅之丞はうっすらと笑みを浮かべている。
半次郎は分かっていた。半次郎の刀の動きに合わせて、紅之丞が絶妙に刀を吸いつけて離れないようにしている。
いや、刀だけではない。半次郎の身体の動きも紅之丞の手の内に、いや刀の内にあった。
中村半次郎は己の剛剣が歯が立たないことを悟った。
「さて」
紅之丞はおもむろに刀を引いた。
半次郎の身体はようやく自由を得た。全身に汗が噴き出す。
「おれは紅落花の仕込みをしながら行く」
紅之丞は蓮月に告げた。
半次郎は肩で息をしていた。
「まだ立っておられるとは、さすがは中村さま」
「紅落花とはなんだ」
かろうじて言葉を絞り出す。
紅之丞の隻眼が笑った。
「この月ノ輪紅之丞の必殺の忍法。まず刀を血で濡らす。その刀を振って血を飛ばすと、その血が刃と化す――」
半次郎は息をのんだ。
「左様。二間(三・六メートル)であれば間合いですな」
月ノ輪紅之丞。隻眼となっても恐るべき妖剣士と言っていい。それだけでなく、必殺の忍法紅落花も使うという。
――山岡鉄太郎に勝ち目はなか。
二人と勝負をした半次郎だからこそ分かる。
月ノ輪紅之丞は、柿色の袋を被ったままのお満を連れて、悠然と箱根山を降りて行った。




