箱根宿
すでに陽は落ちて、東海道五十三次の中では最も高い場所に位置する箱根宿を夜の静寂が包んでいる。
天下の険と呼ばれる箱根山。箱根越えの利便を図るために険しい箱根峠を越えた先、箱根関所の間の狭い地域に作られた人口の町が箱根宿であった。
鬼童衆が根城としている旅籠に、半刻(一時間)前に月ノ輪紅之丞はお満を連れて戻ってきた。
今は五寸釘に刺された左目の治療をしてもらい、左目を覆う晒が頭に痛々しくを巻いている。
「そうか。剛斎は討たれたか」
太田垣蓮月の涼やかだがどこか冷たい声が部屋に響いた。
「安心せい。おれも博徒を一人討ったぞ」
紅之丞が鉄のような声で応じる。
「左目と引き換えにか。こいでは山岡鉄太郎を討つのはかなり難儀じゃな」
笑いを含みながら言う中村半次郎の方に、紅之丞が残った右目をわずかに向ける。
「なぜ立会人の益満休之助を連れてきた」
部屋の隅で益満休之助――お満が眠ったように倒れている。
「うふふ。この女は使える。山岡鉄太郎を誘い出す餌になると見た」
「餌とは」
「おれの見たところ、山岡鉄太郎はこの女に惚れているとみてまず間違いない」
蓮月はしばらくお満を見つめた。
山岡鉄太郎が益満休之助に惚れているという言葉が、蓮月の胸のどこかに刺さった。
藤沢宿での山岡鉄太郎の笑顔を思い出す。「また会おう」と言った声が耳の奥でこだまする。
「そん餌をどう使う」
半次郎の声に、蓮月の思考は現実に引き戻された。
「山岡鉄太郎と一対一の尋常な勝負をする。そのための餌よ」
紅之丞はひとつになった三白眼を半次郎に向けて凄絶な笑みを浮かべた。
半次郎は思わず後ろに引かないように、足に力を籠めた。
「ところで紅之丞。そなた、まだ元には戻らないのか」
月ノ輪紅之丞は普段は大人しいというより臆病なくらいの青年だが、血を見ると興奮して妖剣士ともいうべき本性を現す。つまりは二重人格者であった。
しかし、妖剣士の興奮状態は長くは続かない。一刻(二時間)ほどが限界であったはずだ。
元の臆病な青年に戻ってしまったら、山岡鉄太郎との勝負どころの話ではない。
それが今はずっと妖剣士のままであることが、蓮月は不思議であった。
「蓮月よ。思わぬことが起きたわ」
「思わぬこととは」
「おれは左目を失った――」
紅之丞は右目を瞑って、しばらくしてから開いた。
「そうしたらな、残った右目が見るものすべてが血のように朱く染まって見えるのよ」
蓮月は息を飲んだ。
すると紅之丞はこれからずっと妖剣士状態でいるということか。
それは鬼童衆にとっては僥倖と言えるが。
「おれは無敵となった。最早おれに勝てる者はいない」
紅之丞の悦に入った高笑いがしばらく続いた。
中村半次郎はその姿を黙して見つめていた。
お満は目を覚ました。
手足を紐で縛られて床に寝かされている。
この程度であれば腕の立つ忍びであれば抜け出すことはできる。
ましてや忍法肉ノ宮で身体を自由に変形することができるお満にとっては、容易なことであった。
だが、それは無理だとすぐに悟っていた。
どこかの旅籠の暗い部屋。
目の前には鬼童衆の首魁という太田垣蓮月がいるからであった。
「お目覚めですか」
涼やかな美しい声。氷のように透き通る肌の美の化身。
藤沢宿では農婦の姿をしていたが、今は吉祥文の着物を着た鳥追い女の格好をしている。
山岡鉄太郎が戦って、負けたと言わしめた女。
お満ではとても太刀打ちできない。
それが分かっていて、この程度の縛めしかしていないのであろう。
蓮月はお満を起こして畳の上に座った格好にした。
顔を寄せてくる。
「地の龍はどこにありますか」
「……」
蓮月は京を発つ前の晩を西郷吉之助の部屋で過ごした。
褥を共にするのも最後になるかもしれないと思うと、いつもより二人の身体は熱く燃え上がった。
その時に西郷は口にした。
「蓮月どの。おいはあなたたちの命を無駄に散らそうとしちょるんかもしれもはん」
「それがわたしたちのお役目」
「……」
「私たちの命で大勢の命が救われるのです。どうかお気になさらずに」
「蓮月どの。もし、旧幕府との闘争を終わらせたければ、益満休之助から地の龍にちて聞き出したもんせ」
「地の龍――」
「天子さまのお味方の証となる秘宝です」
お満は事情が飲み込めていない顔をしている。
「薩摩の隠密であるそなたは地の龍なる秘宝を手に入れたのではありませぬか」
蓮月はもう一度詰め寄った。
「地の龍……」
お満は小声で唱えるように繰り返す。
すると、お満が突如目を見開いた。
そして首が折れるほどの勢いで背後に反った。
「どうしました」
蓮月の声に緊張が走る。
今度は思い切り頭を前に振る。そのまま下を向いた。
蓮月は息を飲んだ。
お満ゆっくりと顔をあげる。やけにゆっくりと。
乱れた髪が顔にかかっている。
髪の隙間からお満の目が見える。
ようやく蓮月と目を合わせる。
そして――。




