老剣士たち
大坂湾に近い林の中を三人の武士が駆けていた。
潮の香りとともに、海面から反射している朧な月明かりが辺りを満たしていた。
身ごなしからは気付かないが、よく見れば三人の頭には白髪の方が多く、顔には皺が刻まれた老齢の武士たちであった。
「先ほど公儀隠密の者より言伝があった。慶喜公はご無事に開陽丸にお乗りになられたようだ」
「われらの陽動も功を奏したな」
交わされた声の中にはいくぶん安堵の色があった。
慶応三年(一八六七)十月十四日にいわゆる大政奉還が行われ、十五代将軍徳川慶喜は将軍職を辞して、政権を朝廷に返上した。
それを機に江戸では薩摩藩による旧幕府へのクーデターが活発になる。
薩摩藩は暴徒たちをかくまっていた。その挙句、屯所へ鉄砲を撃ち込まれた庄内藩が、遂に薩摩藩邸に討ち入りを行った。
そして、薩摩藩邸焼き討ち事件が起きる。
大阪城にいた徳川慶喜の周囲では「薩摩討つべし」の気運が高まった。慶喜は旧幕府の軍勢に「討薩の表」を持たせて京に進軍させた。
それを薩摩と長州の軍勢が迎え撃ち、鳥羽伏見の戦いが勃発する。
ある時、戦塵がけぶる薩長方に三本の「錦の御旗」が立って揺らめいたのだ。
この瞬間に旧幕府軍は朝敵となった。
その報を聞いた慶喜は戦意を喪失し、大坂城に軍勢を残したまま、側近たちと江戸に向けて大坂を脱してしまったのだった。
老武士たちは慶喜脱出のための陽動作戦を遂行していた。
すなわち、大坂湾の開陽丸が接舷していた場所とは、まったく違う方向で要人を護衛する一団を演じていた。
すでにその一団は解散し、散り散りに逃げている。
老武士三人が最後まで残って仲間が無事に逃げ切るのを見届けた。
三人ともが北辰一刀流の開祖千葉周作が手づから指導した高弟たちであり、慶喜直属の護衛として上洛している。
慶喜は信任厚い彼らに重要な本作戦を任せた。
老武士たちは勇躍してその任に就いていた。
「あ!」
突然先頭を走る老武士が転んだ。
「大丈夫か、稲垣どの」
転んだと見えた稲垣定之助はしなやかに前転して起き上がると、刀の柄に手をかけた。
年齢に似合わぬ見事な体捌きである。
「こ、これはなんだ」
右の足をひっかけた場所に人の手が見える。しかも、その手は地面から生えていた。
老武士たちが凝視する中で手はゆっくりと地面の中に消えていった。
「め、面妖な!」
「各々がた、油断するな」
稲垣は立ち上がり、柄袋を捨てて刀を抜いた。刀身が月光に煌めく。
「塚田どの、山内どの。先に行かれよ」
「稲垣――」
一番年かさに見える塚田孔平の声には不安の色があった。
「都の妖怪が追って来たのかもしれぬ」
「戯言を言うでない」
痩身の山内主馬は神妙な顔で辺りを見回している。
稲垣は不安などないと言わんばかりに明るい顔を二人に向けた。
「ここは一番若い拙者に任されよ。お二人は江戸に戻り慶喜公のお側に」
稲垣定之助は齢五十半ば。三人の中では一番若い。
いや、生気あふれる肌の色つやだけを見れば四十代と言っても分からないだろう。
塚田と山内が顔を見合わせたのは一瞬。二人同時に頷いた。
「稲垣。先に行って待っておるぞ」
二人が駆けて行く姿を、稲垣定之助は見送った。
「さて、待たせたな。どこぞに隠れておる。北辰一刀流、稲垣定之助は逃げも隠れもせんぞ」
海からの冷たい風が体に刺さる。そのおかげか、むしろ感覚は研ぎ澄まされていた。
稲垣は周囲に目を配り、枯れ葉が転がる音でさえ逃すつもりはない。
だが、背後に立つ者の気配に気づいた時には、稲垣はその者の手で口をふさがれていた。
「どこからあらわれ――」
最後まで言い終わらぬうちに、稲垣は小刀で首をかき斬られた。
勢いのよい音を立てて鮮血が噴出する。
稲垣は首を両手で絞めつけて血を止めようとする。
首を切った者は暗がりに立っていて、姿は判然とせず影としか見えない。
手練から見て、きっと忍び。影に生きる者であろう。
「おぬし、それほどの技を持ちながら影に生きねばならぬのか。不憫な」
「……」
その時、稲垣の頭の中に一人の男が浮かんだ。
道場での竹刀の立ち合いで、その男は稲垣から五本中三本は取るようになっていた。
ああ、遂に我を越えてくれたか。
「我が一門でおぬしに会わせたい男がいる。おぬしとは反対に日なたのような男だ」
稲垣の声は、喉に溢れた血が首の傷から零れる音に交じって、はっきり聞きとれなくなっている。
「その男の名は」
影が聞いた。
稲垣は笑みを浮かべた。
「やま……お……か……」
最後まで言うことはできず、首から胸のあたりにひと際熱い滴りを感じたのが稲垣の死の間際の意識であった。
稲垣定之助が倒れたときには影は消えていた。
塚田孔平と山内主馬が老齢とは思えぬ健脚で駆けていた。
二人の行く手に巨大な影が暗闇からのっそりと現れた。身の丈七尺|(二・一メートル)はあった。
木立の影のせいで姿形がはっきりと見えない。
「われらをたぶらかすとは。とんだ骨折り損であったわ」
巨大な影が破れ鐘のような声を発した。
「きさまら何奴っ」
「――八瀬童子衆」
「なんだと」
風が吹いて梢が揺れる音が響く。
「知らぬわなあ。無理もなし」
二人が巨大な影と対峙するのもつかの間。
「塚田どの、先に行かれよ」
「何を言うか。ここはわしが」
塚田が山内の前に立とうとする。
「いいや、我ら三人の内でも塚田どのが一番の使い手。このようなところで命を散らす必要はなし」
「おぬし、死ぬ気か」
山内は声を上げて笑った。
「いやいや、わしとて千葉先生の高弟。すぐに稲垣と追いつくわ」
塚田が山内の笑い顔を見つめること数瞬。
「きっと待っておるぞ」
塚田は頷いてから駆けだした。その姿が木々の紛れて見えなくなるまで山内は見送った。
「待たせてすまぬ。始めるか」
山内主馬は腰を落として居合の構えをとる。
痩身だが強靭な鞭のような力強さを感じる身体であった。六十を少し過ぎた齢とは思えない。
「待ちくたびれたわ」
おもむろに近づいてきた巨大な影に向けて、山内の腰間から鋭い銀光が迸った。
闇の中に火花が散って、金属同士が擦れ合う耳障りな音が鳴り響いた。
巨大な影の男が無造作に垂らした右腕に、必殺の居合は弾き返されていた。
「こやつの身体は――」
「おれの身体に刀は通らぬわ」
巨岩のような男は赤い口を開けてにたりと笑う。
山内が観念した顔で微笑む。
「いや、参った」
「ならば死ね」
「まあ、待て。我が一門におぬしのような男とぜひ戦わせてみたい男がいる」
山内の脳裏に浮かんだ男。稽古でも五本中二本は取られるようになっていた。
だが、あの男の剣はまだまだこれから伸びる末恐ろしさがある。
「天馬空を行くが如くの快男児よ」
「その男の名は」
「山岡鉄太郎」
「覚えた」
哄笑している山内の頭に大きな拳が振り下ろされた。
硬いものが砕ける音がして頭が陥没した。
目と鼻と口から血を溢れだしながら山内は倒れた。
それでも山内主馬の顔は笑っていた。
塚田孔平は時おり振り返りながら走っていた。稲垣と山内は追いついてこない。
――やられたか。あの二人を倒すほどの手練れとは一体……。
いつの間にか目の前に一際明るい月光が降り注いでいた。
その中に女人が立っていた。
氷の彫像のように美麗な女人であった。透き通るような青白い肌が月明かりで輝いていた。切れ長で澄んだ目が静かに塚田を見つめる。
「わしは北辰一刀流の塚田孔平」
塚田は北辰一刀流一門の中では達人とまで呼ばれていたが、上品に整えた灰色のひげが知的な印象を与えており、剣客というより学者といった佇まいをした男であった。
「名はなんというを」
「蓮月」
「素直に名乗るとは。わしを生かして返すつもりはないということだな」
塚田は朗らかに笑った。
――これは勝てぬな。
達人の域に達している剣士だからこその直感であった。
目の前の女人が尋常ならざる使い手であることは分かる。
北辰一刀流門下でも勝てる者がいるかどうか。
いや、一人の男が脳裏に浮かんだ。
その男は竹刀での試合で、近頃は塚田から五本中一本は取るようになっていた。
だが、それは竹刀での話。真剣で立ち会えば結果はまったく分からない底知れなさを、その男は秘めていた。
命のやりとりでこそ力を発揮する男。
「山岡鉄太郎――」
塚田はその男の名を口にした。
「旧幕府を敵とすれば、きっとおぬしらの前に立ちはだかる男の名だ」
何の根拠もなかったが、死を目前にした者の予言めいた勘であったかもしれない。
「さて。形だけでも抗ってみるかな」
柄に手をかけた塚田が瞬息の動きで蓮月の首を薙いだ。
そう見えた時には己の首が半ばまで斬られていることを塚田は悟った。
――まさかわし自身の刀に斬られたのか。恐るべき妖術。
北辰一刀流一番の使い手であった塚田孔平はその場に倒れた。
微動だにせず立っている蓮月が見下ろしている。
――鉄太郎、あとはたのんだぞ。
塚田は死の間際に弟弟子の勇姿を思い浮かべて、満足な笑みを浮かべていた。
これで千葉周作の三高弟は全滅した。