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朝敵、まかり通る  作者: 伊賀谷
第三章
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剣難

 早足で藤沢宿を抜けた三人は行く手にのびた暖かい陽射しが降り注いでいる東海道に目を向けた。

 町の中よりは当然人の往来は少なくない。

「怪しそうな奴は見あたらねえけどな」

 五寸釘が小手をかざして目を凝らしている。

 石松はぼうっと突っ立っているだけのように見える。

「すぐに見つかるような奴らではあるまい」

 正雪は首から下げた竹筒を手に持って、中を除く。管狐の亜門(あもん)が小さくなってすやすやと眠っている。

 昨夜、正雪は己を飯綱使いと言った。管狐――飯綱の亜門を使って近い将来を漠然と予知することができる。どちらの方角に進めば危険があるか、ないか程度のものではあるが。亜門の力に大いに頼っているようだが、正雪に言わせればあくまで共同作業。もっと言えば、亜門を使役した立派な兵法であり、軍学へまで正雪が昇華したということになる。

「亜門よどこぞに危険が潜んでおらぬかな」

 三人は山岡鉄太郎たちから先行して、東海道に八瀬鬼童衆が潜んでいないか物見に来ていた。

 敵と出くわしても手を出さずに逃げてこい、と鉄太郎からは厳命されていた。

「ふうむ。危うきものは感じぬな」

 張りつめた気持ちが抜けたのか、五寸釘はその場にしゃがみ込んで正雪を見上げた。

「駿府に到着するまで、あと三日かい」

「八瀬鬼童衆はまだ四人いる。いつ襲って来てもおかしくはない」

「嫌だねえ」

 五寸釘は咥えた釘を弄ぶ。

「何してんだ、石松の奴」

 石松は道端に咲いている春の花を摘んでいた。

「おいおい。またお満さんにあげるのかい」

 石松は肩をすぼめて、顔を真っ赤にしている。

「五寸釘よ。我らは次郎長親分の厳命で徳川慶喜公の名代の命を守るために馳せ参じた」

「将軍さまの名代というから青瓢箪(あおびょうたん)なお役人さまかと思っていたら、凄腕の剣豪先生だったのには驚いたね」

「まさにな。我らが命を捨てるに足るお方だ。だが、五寸釘よ。お満さまをどう思う」

「なんの話だい。おまえらがあの女にご執心なのは知っているぜ」

「それはおまえもであろうが」

 五寸釘は三度笠で顔を隠した。

「山岡先生はもちろん素晴らしいお方だ。だが、お満さまをひと目見た時に、この人のためなら命を捨てても構わないとは思わなかったか」

「馬鹿馬鹿しい。あの女はただの立会人だぜ。命を張る相手を間違えるなよ。石松の野郎もだ」

「それはわたしも分かっておる。ただ、お満さまにはどことなく高貴な気配を感じるのだ」

「おいおい。薩摩の隠密の女だぞ。それともおまえの……」

 正雪の勘はときおり鋭いものがある。それに、五寸釘自身もこれまで感じたことがない感情をお満に抱いていることは間違いなかった。

 ともすれば、この国に生まれた者であれば抱く畏敬(いけい)の念であると言うと大袈裟であろうか。


 山岡鉄太郎は足を捻った女を背負っていた。

 その後ろから、お満と市がついてきていた。

 実は鉄太郎は苦闘していた。

 負ぶった女。見た目も美麗であったが、その体の美しさも着物を挟んで密着した感触からも十分に分かる。

 いや、鉄太郎に絡みつくようなこの女の胸、腹、腰、足はどうだ。柔らかい肌が軟体動物のように吸着し、さらにお互いの肉が溶けあうようなような錯覚に陥っていた。

 ――この女、わざとじゃあるまいな。

 その時、後方からお経を唱える声が響いて来た。

 鉄太郎の気が幾分紛れた。

 笠を被って錫杖を突いた僧形の一団が足早に通り過ぎて行く。

「あら」

 お満が鉄太郎の前に走り出て、地面に落ちているものを拾い上げた。

 数珠であった。

 先ほどの僧形の一団のだれかが落として行ったのであろう。

「なんですか」

 市が尋ねると、お満が説明する。

「あたしが届けてきましょう。お満さまは山岡先生とご一緒に」

 まだお経を唱える声は届いている。人通りに紛れているが、それほど離れてはいない。

 市は杖を突いて早足に歩き出した。


「コーン!」

 唐突な亜門の鳴き声に、五寸釘と石松は振り向いた。

 正雪が握った竹筒から亜門が顔をのぞかせている。正雪は亜門を見つめながら驚愕の顔をしている。

「剣難があるぞ!」

「野郎、来やがったか!」

 五寸釘が手妻(てづま)(手品)のように取り出した釘を構える。

「いや、あっちだ。藤沢宿だ」

「なんだと! 裏をかきやがったか」

 すでに石松は藤沢宿に戻るべく駆けだしている。

「剣難だ。剣難だ!」

 正雪と五寸釘も慌てて元来た方向に走り出した。


 市は僧形の一団に追いついた。誦経を上げているので探すのに苦労はしなかった。

「すいません。これを落とされた方はいらっしゃいませんか」

 手に持った数珠を差し出した。

 一団の歩みが止まった。誦経も止まった。一瞬、静寂の世界になったかのようだが、すぐに往来の人々の喧噪に満たされた。

「これは申し訳ありません。拙僧が落としたようです」

 優しい声が近づいてくる。

 刹那、僧形の一団は笠を飛ばした。錫杖と思われた仕込み杖から抜刀し、一斉に市に斬りつけてきた。


 鉄太郎とお満はゆっくりと人びとの往来の中を歩む。

 首筋にひやりとした感覚があった。

 ――刃が当てられている。

「お初にお目にかかります。八瀬鬼童衆首魁、太田垣蓮月(おおたがきれんげつ)。山岡鉄太郎さまのお命を頂戴に上がりました」

 熟した果実のような香しい吐息が鉄太郎の鼻に忍び込んで来た。

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