約定
絶え間ない波濤の音が響き渡っていた。東海道から少し外れた浜辺。
漁師小屋が風を受けていまにも倒れそうに軋んでいる。
小屋の中には人がいる。壁の隙間から差し込む陽射しが四人の男女を浮かび上がらせていた。車座で向き合うわけではなく、座っている者、立っている者、おのおのが好きな場所にいる。
「それはまことか凶念」
割れ鐘のごとき声を発したのは小屋の中央で胡坐をかいている金嶽剛斎。岩から削りだしたような面長の巨漢。白木綿の着物に結袈裟を着けた山伏の姿をしている。
牙刀院凶念は藍木綿の着物に袈裟を着けた虚無僧姿であった。上がり框に腰をかけている。彫の深い顔で精悍な雰囲気を漂わせていた。
「闇丸の亡骸を検めてきた。見事な太刀筋であったぞ」
「徳川慶喜の名代は腕が立つようだな」
「名は山岡鉄太郎――」
「む」
剛斎は顎に手をあてて首をかしげる。
「どうした剛斎」
「や、そうか。大坂で会うた老いぼれの剣士が言っていた男か」
「わたしもその名を聞いた。北辰一刀流の使い手という」
美しく澄んだ声。小屋の奥に座わっていた太田垣蓮月。氷の彫像のように美麗な女であった。吉祥文の着物に笠を被って三味線を抱いた鳥追い女姿。
「ほう」
凶念は目を細めた。
「なるほど。やるなあ、山岡鉄太郎」
「仲間が斬られたのに嬉しそうではないか。剛斎よ」
「おうよ。わしらの一人や二人を斬るほどの男でなくては、鬼童衆がわざわざ出て来た甲斐がないではないか」
剛斎は笑みを浮かべて顎を撫でる。
「ひ、一人や二人て……」
怯えた声がする。これは小屋の隅に佇んでいる木綿の着物と羽織を着けた薬売り姿の月ノ輪紅之丞。よく見れば女のようにも見える美形だが、青白い顔で肩を丸めた姿からは弱々しい印象が強い。
「どうだ次はおまえが行くか、紅之丞」
「え、そんな」
「わはは、戯言よ。次はわしが行こう」
「待て、剛斎」
蓮月の声に剛斎は口を閉ざす。
「凶念。山岡鉄太郎は一人ではないであろう」
「うむ。仲間が四人いた。あれは博徒だな」
「博徒だと」
剛斎が呆れた声をあげる。
「そのような奴らがものの役に立つのか」
「だが、闇丸はやられた。物見役で向かったのに、おまえと同じように相手を侮ったのであろう」
凶念が笑みを含んだ声で言う。
「凶念の言う通り。万が一を考えると、一人で行くのは危険だ」
蓮月の言葉に剛斎は舌打ちをした。
「ならば二人で組んで動くか――」
剛斎の話の途中で蓮月は小屋の入口に目を向けた。
凶念、剛斎、紅之丞も倣って入口の方を見る。
音を立てながら小屋の戸が開いて、白い洋装の軍服を着た男が入って来た。
「中村さま」
蓮月が声を上げた。小屋に入って来たのは中村半次郎であった。
「八瀬鬼童衆の面々がこちらにおっち聞いて来た」
半次郎は西郷が蓮月という尼僧と恋仲であったことを知っている。その蓮月が八瀬鬼童衆の首魁であることには驚いたが。
「中村さまがなぜここに」
「西郷先生にこん闘争ん立会人として八瀬鬼童衆を監視すっごつ仰せつかった」
「それは」
「もちろん旧幕府側には内密だ。さっそくだが――」
半次郎が鬼童衆の面々に目をやる。
「先ほど山岡鉄太郎と立ち合うた」
小屋の空気が震えた。
「あれは大した男だ。おいの負けだ。次は負けんが、山岡鉄太郎は鬼童衆との戦いが終ってから決着をつけようちゆた」
「なんだと!」
剛斎が声を荒げた。
「じゃっで気が変わった。ここに西郷先生からん書状を預かって来ちょっ――」
半次郎は懐から一通の書状を取り出した。鬼童衆たちの目が書状に吸い寄せられる。
「立会人では物足らん。おいを鬼童衆に加え」
「そのようなことをしたら西郷さまの約定が破られてしまいます」
蓮月の凛とした声。
浜辺の暗い小屋の中の生ぬるく湿った空気がさらに重たくなった。
鬼童衆たちの肌にじっとりした汗が滲み出る。
「ならば自分たちん目でたしかめてみよ」
半次郎が書状を宙に投げる。
鬼童衆たちの目が書状を追う刹那、半次郎が抜刀。
目にも止まらぬ早さで牙刀院凶念の首を斬り飛ばす。
「あー!」
紅之丞の叫びと凶念の体から血が噴出する音が交じり合う。
床に落ちた書状を剛斎が拾い上げ、広げて中を検める。
「なんだこれは!」
剛斎が広げて見せた書状は白紙であった。
「どういうことですか。中村さま」
蓮月は静かな声で尋ねた。
「さすがは八瀬鬼童衆。仲間が斬られても動じちょらんな」
「こやつ……」
剛斎が睨みつける。
「所詮これしきんこっで斬らるっような奴じゃったんだ。ならば代わりにおいを仲間に加え。それならばこちらん人数は五人のままだろう。西郷先生ん約定は破られん」
半次郎は蓮月と目を合わせた。冷たく深い眼差しであった。
――この女。恐ろしい使い手かもしれんな。
背中に冷たい汗が流れるのを半次郎は感じた。
「いいでしょう――」
蓮月の言葉を聞いて剛斎と紅之丞は顔を見合わせた。
「安心せい。西郷先生の約定は守る。おいが山岡鉄太郎と勝負するのは、あいつがおまえたちを皆倒したら、だ。万が一にもそれはなかとであろう」
中村半次郎は不敵に笑った。




