戸塚宿
夕刻。山岡鉄太郎一行は戸塚宿に到着した。
多くの人でにぎわっており、七十軒をこえて軒をならべる旅籠はどこも一杯であった。
おもむろに正雪が一軒の立派な旅籠に入った。しばらくすると入口から笑顔をのぞかせて手招きした。
「ここも一杯ではないのか」
「親分の口利きで、部屋を空けておいてもらったのです」
「ほう。次郎長親分とはたいした方であるな」
「先生はお気になさらず。これもわたしたちの勤めですので」
「かたじけない」
その夜、鉄太郎と次郎長の子分たちは酒を酌み交わした。
お満は気を使ったのか、立会人としての立場を重んじてか、一人で部屋に籠っていた。
もっとも、石松は早々に寝ていた。
市は静かに話を聞きながら、亜門に夕餉の残りを餌として与えていた。
「亜門の奴め。女にしか懐かなぬな」
正雪が呆れている。
「あれはふつうの動物なのか。先の戦いで、おぬしが亜門と話している風であったが」
鉄太郎は不思議そうに亜門を眺める。
「先生は管狐というのをご存じですか」
「さて」
「飯綱とも言いまして。物の怪や霊獣の類ですな」
「まことか」
「はい。飯綱を使って占いや神通力を使う者を飯綱使いと申します。わたしは飯綱使いの技を工夫して兵法、軍学にまで高めました」
「ふむ。亜門が物の怪や霊獣とはな。恐れ入った」
鉄太郎は己の知らない世界に驚くばかりであった。
「先生さんよ、こんな山師(いかさま師)の言うことを信じちゃいけませんぜ」
五寸釘が肘をついて寝そべった格好で盃を舐める。
「こら。何をいうか、この野郎」
「喧嘩をするな。正雪、管狐というのは他にもいるのか」
「それが日本からだんだん姿を消しつつあります。古の時代よりも物の怪たちが生きづらい世の中になってきているのでしょう」
「八瀬童子も同じかもしれぬな」
次郎長の子分たちが鉄太郎に目を向ける。
「そうであろう。あのような妖術や邪法を使う者たちはいずれ滅びゆく者たちなのかもしれん」
鉄太郎は黒厨子闇丸の最期を思い浮かべながら、盃をあおった。
滅びゆく八瀬童子を日の当たる世界に導くという八瀬姫とは何者であろうか。
しばらくすると、酒宴は明るい雰囲気となり宴もたけなわとなってきた。
鉄太郎は東海道の旅は初めてではなく、かつて盟友であった清河八郎と浪士たちを伴って上洛したことを話した。
その浪士たちのうち、京に残った者たちが新撰組になったという話には、正雪たちも興味津々で聞き入った。
「新撰組なんてのは下手なやくざ者より血の気が多い輩のようですね」
「もともとが武士でない者も多い。より武士らしくあろうとしているのかもしれぬな」
鉄太郎は、近藤勇や土方歳三といった剣呑な目つきをしていた面々を思い起こしていた。
「先生も京に残りたかった口ですかい。このご時世、剣豪ならば存分に刀を振るえるってのは本望なんじゃあないですかい」
五寸釘が杯に残った酒をなめるように飲みながら言った。
「さてな……」
鉄太郎はいきおいよく杯をあおった。
五寸釘の言葉は的を得ているのかもしれない。
だからこの旅に出たのか。
先の闇丸との死闘ではたしかに胸躍るものを感じていた。
鉄太郎の仄かな興奮は楽しい酒に溶けていき、戸塚宿の夜は更けていった。
三月七日。朝五ツ(八時)。山岡鉄太郎一行は戸塚宿を発つ支度をしていた。
「おめたちどけいっど」
薩摩兵の一団が近づいてきた。
「またか。まめなことだ」
鉄太郎はあきれた顔をお満に向ける。お満はうなずいて、薩摩兵たちに近づいていった。
「薩摩の田舎侍が目立ちますな」
正雪が辺りに目を配っている。
「薩摩軍が江戸に進軍しているんだ。あやしげな者がいると素性をあらためられる」
「ふん。偉そうに」
五寸釘が釘をくわえながら吐き捨てた。
「まあ、おれたちは人が見たらあやしげな者たちであろうがな」
「そいつはちげえねえ」
鉄太郎の言葉に五寸釘たちは笑った。
お満が一人の薩摩兵に手を引かれて戻ってきた。お満は抗っているようだ。
その薩摩兵は「だんぶくろ」と称するズボンの白い洋装に身を包んでいた。他の兵たちより身分が高そうであった。腰に二刀を差している。
肌が浅黒く、きりりとした眉の下の鋭い目をした顔は端正であるが、全身からは野生の獣のような気配を放っている。
鉄太郎はその男の掌の大きな胼胝を見逃さなかった。
――相当に剣の修練をしている。薩摩の示現流とみた。
「山岡鉄太郎はどいつだ」
「拙者だが」
薩摩兵は強い眼差しを鉄太郎に向ける。
「こん薩摩の隠密が言うには、有栖川宮さまに会いにいっちゅうとはまことか」
「何度も申してますように、この山岡さまは徳川慶喜の名代です」
鉄太郎のかわりに応えたお満を薩摩兵は投げとばした。
「おまえにはきいちょらん」
「おい。女には手をだすな」
鉄太郎の心に怒りがわき、一歩前にでた。
薩摩兵はにやりと笑みを浮かべて左手で鯉口を切った。
――こいつ、おれを誘ったか。喧嘩慣れしている。
仕込み杖の柄に手をかけて市が進み出るのを、鉄太郎は手で制した。
「市、さがっていろ」
「おなごに守られちょっとは情けなかね」
「おれとの手合せが望みであれば受けて立つ」
「やっとそん気になったか。きさまなど有栖川宮さまに会う分際じゃなか。この泰平呆けの旗本が」
鉄太郎はしばらくその男を見つめた。
「北辰一刀流、山岡鉄太郎」
「おいは野太刀自顕流、中村半次郎」
半次郎の笑みが凶暴なものになる。
「この名前。聞いたことはあっじゃろう」
「知らぬ!」




