薩摩藩邸焼き討ち
江戸が燃えていた。
芝の方角。真冬の鈍色の空がほのかに輝いている。三田の薩摩藩邸から火の手が上がったのは四半刻(三十分)まえ。
二人の武士が鼠色の忍び装束を追っていた。すでに半里(約二キロメートル)近く追跡は続いている。
「さすがは忍びだな」
「はい」
白い息を吐きながら感心したように言った武士は、幕府遊撃隊頭並の高橋伊勢守精一郎(のちに泥舟)。
並んで走りつつ応えた武士は山岡鉄太郎(のちに鉄舟)。身の丈六尺(約一八〇センチメートル)を超える屈強な男であった。
着ているものはところどころ擦り切れて糸がほつれており、貧しい生活をしていることが見て取れた。
巨体に似合わず軽やかに走っている。全身がバネのようで、十分に鍛えぬいた身体であることが分かる。
先刻、鉄太郎と精一郎は野次馬に交じって火が上がっている薩摩藩邸を見物していた。
その時、鉄太郎が近くの屋敷の屋根で空に滲むように蠢く忍び装束を目聡く目にとめた。忍びが火事と関わりがあるとみて、人通りがまばらな町の中を二人は追跡をしている。
「鉄太郎、行っていいぞ」
「え」
「おまえ。おれに合わせて走っているだろう」
「いやいや。さすがは幕府の槍術師範殿。よく鍛えておられると感服していたところ」
「ふざけている場合か。このままだとあの忍びに逃げられてしまう。先に行け」
「では御免」
鉄太郎は一気に速度を上げて走って行った。
「まったく。なんという足腰をしているんだ」
精一郎はあきれつつ走る速度をゆるめて息を整えた。
鉄太郎と忍びの距離は離れなかった。忍びに匹敵する驚異的な鉄太郎の脚力である。
通り過ぎる人々には一陣の風の如くにしか感じていない。
突如、忍びは地を蹴って宙で一回転。身体が後方を向いた瞬間に手裏剣を放った。着地と同時にまた元の通りに走り続けた。
必殺の手裏剣は少なくとも鉄太郎を怯ませるはずであったが、その期待は外れた。
鉄太郎は左の掌で手裏剣を受けていた。そして忍びが宙に浮いていた間に一気に距離をつめており、その背を蹴り飛ばした。
忍びは二間(三・六メートル)ほど飛んで転がってから立ち上がった。こちらを見た頭巾からのぞく瞳に動揺の色が浮かんだのを鉄太郎は見逃さなかった。
「幕臣、山岡鉄太郎。わけあって今は無役。それから北辰一刀流を少々」
鉄太郎は手裏剣が刺さったままの左手をさすりながら忍びに近づく。
ほんのり汗が浮いた赤銅色に焼けた肌が男の野性味を際立たせる。身なりは貧相だが、きりりとした眉、鋭い目が精悍な光芒を燦と放った苦みばしったいい男であった。野生的な瞳の奥には高潔な精神と知性の光が宿っていた。
「手裏剣に毒が塗ってあったらどうする」
男の声――。
鉄太郎はその声には聞き覚えがあった。
「野に屍を晒すまで。……おまえ、訛りがなさすぎるぜ。江戸の者ではないな。どこぞの藩の隠密か。なぜ薩摩の藩邸に火をつけた」
「……」
鉄太郎は忍びが火つけと決めつけたが、相手が黙しているところをみると図星であろう。
「そして、おれを知っているな」
忍びと鉄太郎が同時に動いた。袖から得物を放とうとした忍びの鳩尾に鉄太郎が抜いた刀の柄頭がめり込んでいた。忍びはその場に倒れた。
鉄太郎は屈んで忍びの覆面を外した。
「やはりな」
鉄太郎が頷いてから振り向くと、追いついてきた鼠色の忍び装束がさらに二人立っていた。
忍びたちは苦無を懐から取り出して構える。
「こうなっては生かしてはおけぬ」
片方の忍びのくぐもった声。
「あ――」
鉄太郎が声を上げた時には、忍びたちは背後から迫ってきた棒でしたたかに頭と首を打たれ、足を払われてもんどりうって地面に叩きつけられていた。砂埃が舞う中、二人はそのまま動かなくなった。
「竹竿さえあれば、この高橋精一郎には槍の権三も敵わぬわ」
倒れた忍びたちの向こう、言葉通りに竹竿を持った精一郎が立っていた。
「お見事でござる」
「なんとか間に合ったな」
精一郎は鉄太郎の左手に血の滲んだ布が巻かれていることに気づいた。
「おまえに怪我を負わすとはかなりの手練れだったようだな」
精一郎は鉄太郎が倒した忍びの顔をのぞき込む。
「なんと。女か」
「先刻までは男でしたが」
精一郎が怪訝な顔を向けた。
「薩摩藩士、益満休之助」
「あの虎尾の会のか」
「薩摩の隠密という噂は本当だったようです」
七年前の万延元年(一八六〇)。虎尾の会は尊王攘夷を旗印として山岡鉄太郎、清河八郎らによって結成された。そのメンバーの中に益満休之助もいた。なお、結成から一年ほどで虎尾の会は四散している。
「薩摩の隠密……。では、この薩摩藩邸の火事は薩摩による狂言」
精一郎はうめいた。
「誰も信じますまい。恐らく薩摩の連中は幕府の仕業だと触れ回るでしょうな」
「こいつはてえへんなことになるぜ」
火の手が広がり輝きを増した芝の方角の空を、鉄太郎は見つめていた。