第八話. 最強の矛と盾
大気を揺るがすレッサーデーモンの咆哮。
野生の猛虎でさえ尻尾を巻いて逃げ出しそうなほどの大音量だ。
直後、レッサーデーモンの周囲が不気味に揺れる。
空間が歪む――その時のわたしには知るべくもなかったが、それは膨大なまでの魔力の奔流であった。
そして、レッサーデーモンの眼前に猛る溶岩もかくやという火球が出現した。
――ブォオオオオッ!
まるで炎が意志を持つかのように、巨大な烈火がわたしに向かって襲い掛かる。
回避なんて望むべくもない。バックドラフト現象にも等しい勢いの炎が、あっという間にわたしの身体を包み込んだのだった。
忽ちのうちに、灼熱の業火の中へとわたしは隠れてしまった。
「――テイル!」
フランゼル村長が、戦慄した表情で叫ぶ。
「お姉ちゃんっ!」
村長の家から出てきたシルフィが、悲痛な声を上げた。
しかしそんな声すらも、轟く爆炎にかき消される。
後には――無残なまでの破壊の残滓である。
ナパーム弾の直撃を受けたかのように燻された大地。
その爆心地では、悽惨なまでに白い燻煙が濛々と立ち込めていた。
その中心に人がいたとなれば――生存は絶望的である。
「そんな……」
シルフィが蒼白の面持ちで呆然となる。
一方で、さも勝利を確信した盗賊たちの余裕ある声が聞こえた。
「へへ……どうだ、鉄すらも溶かすレッサーデーモンの火炎だ。いかに意味不明な尻尾があっても、炎に包まれたとあってはどうしようもねえだろ。――ん?」
盗賊たちが怪訝に眉を顰める。
濛々とした煙と、凄まじい熱気が収まると同時に、次第にその全容が明らかになる。
煙が消えた後に残されたのは――黒コゲとなったわたしの姿――などではない。
――なんか、やたらとモフモフした丸っこいものがそこにあった。
ふわり、と尻尾が開かれる。
それまで尻尾に隠れていたわたしの顔がひょっこり覗き出た。
「――ぷはっ、死ぬかと思った……」
緊張に止めていた息を吐き出す。
何のことはない、ようするにわたしは巨大化した尻尾を丸め、その中に隠れただけであった。
人一人の全身がすっぽりと収納できる毛玉と化した尻尾は、わたしの全身を覆い隠し、炎から身を守ったのである。
逃げきれないと悟ったことから、咄嗟に取った行動であるが、おかげでわたしは命を拾っていた。
しかし――あれほどの炎に包まれても、尻尾には焦げ目一つ付いていない。
どういう原理かは皆目見当がつかないが、この尻尾にはあらゆる攻撃を防ぐ能力があるらしい。
その証拠に、炎に包まれて蒸し焼き状態となったにも関わらず、わたしはダメージ皆無で、ピンピンしていた。爆風による衝撃も、鉄すらも溶かす高温も、全てが尻尾のモフモフにシャットアウトされ、わたしは痛くもかゆくもない。
そんな尻尾に包まれたならば、並大抵の攻撃が通じる道理もなかった。
(――うん、『わたあめガード』と呼ぶことにしよう)
などと、なんとなしにわたしはこの防御形態の名前を考えていた。
レッサーデーモンが低く喉を唸らせる。
今の一撃が防がれるとは、さしもの魔族であっても予想外だったのだろうか。
まるで正体不明のものに相対したかの如く、恐れ慄いているかのように動きを止めていた。
一方で、わたしもすぐに反撃に転じなかった。
レッサーデーモンに、また、その背後にいる盗賊たちに対して言い放つ。
「――引きなさい。もう二度と悪さをしないと誓うなら、この場は見逃すことにするわ」
静かなる怒りを言葉に乗せ、わたしはなおも宣言する。
「わたしには記憶がない……。あなたたちがどんな事情があって盗賊家業をやっているのかも知らない……。
けれど――この村の人たちを傷つけることは、わたしが許さない!」
記憶がない自分を受け入れてくれたこの村の人たちを、決して傷付けさせはしない――
絶対に揺るがぬ意思をもって、わたしは啖呵を切った。
すると、まるでわたしの迫力に気圧されたように、レッサーデーモンが一歩後退した。
今、かの魔族が相対しているのは、ほんの小さな少女であるのに、まるで――自分よりもはるかに強大な存在を目の当たりにしたような様子だった。
「――怯むんじゃねぇ、レッサーデーモン! 炎が効かないなら、直接攻撃だ! やれ!」
盗賊たちのリーダーが、半ばヤケクソじみた指令を出す。
レッサーデーモンが大きく腕を上げて振り下ろした。
大地すら割り砕くような怒涛の拳圧である。
――だけど、そんなものは怖れるまでもない。
わたしは尻尾でそれを打ち払うようにガードした。
ドゴォォォン!
禍々しい悪魔の巨腕と、場違いなまでにファンシーな尻尾がぶつかり合う。
発生した衝撃は大気を震撼させ、すさまじいまでのソニックブームを引き起こす。
高度から振り下ろした形であるパンチの方が位置的優位はあったものの、しかしそこでダメージを受けたのは悪魔の巨腕の方だけであった。
――グォオオオオッ!
悪魔が苦しみのあまり呻きだした。
見れば、レッサーデーモンの肩から先が、つぶれて複雑骨折したかのように拉げて曲がり、血管からはドス黒い血が噴き出していた。
「――どういうことだよ、殴った方がダメージを受けるなんて……。あの尻尾、一体なんなんだよっ!」
野盗たちが恐慌のあまり喚きだす。
レッサーデーモンが痛みに大きく仰け反り、たたらを踏んだ。
(今だ――!)
――わたしは、尻尾の先端を丸め、トドメの一撃を放つべく大きく踏み込んだ。
肥大化し、力強く握りしめた尻尾の先端は、破城槌にも等しい破壊力を有している。
しかと地面を踏みしめ、腰を捻り、渾身の正拳突き――ただし腕ではなく、尻尾を使って必殺のパンチを繰り出す。
必殺技と呼ぶのもなんだけど、この攻撃に相応しい名前を付けるとならば――それは一つしかあるまい。
「――ふもっふパンチッ!」
……断っておくが、わたしはいたって真面目である。
ゆるふわな名前とは裏腹に、威力は凶悪極まりないものだった。
残った三本の腕で防御するレッサーデーモン。
さらにはデーモンの前方に、魔力の防壁ともいうような薄い膜が出現する。
――だが、そんなものは紙ほどの役にも立たなかった。
ドパアアアアアアアアン!
レッサーデーモンの胸部にパンチが命中する。
衝撃のあまり、肉片と血、さらにはミンチとなった眼球や脳ミソを含むグロテスクなシャワーを撒き散らし、レッサーデーモンの腰から上が跡形もなく吹き飛ばされる。
下半身だけとなったレッサーデーモンの身体がぐらりと倒れ込む。
ワンパンで倒されたデーモンの肉体は、黒い霞のような魔力の残滓となって大気へと消えていった。
「う、うそだろ……。レッサーデーモンが、たった一撃で……? 下級魔族とはいえ、ドラゴン種とも渡り合えるほどの強さを持った、レッサーデーモンが……?」
愕然として盗賊団の男が呟く。
その場にいた誰もが、言葉を無くして呆然自失としていた。
ふぅ――とわたしは大きく息を吐いた。
拳を振り切ったポーズで残心を取る。
次いで、きっ、と盗賊団に対して睨みつけた。
『まだやるの? まだやるのなら、次にミートソースとなるのはあなたたちの番よ』と、言葉ではなく、視線だけでアピールする。
ハッと我に返ったリーダー格の男がみっともなく喚いた。
「て、てめぇ、こんなことしていいと思ってんのか!」
この時の盗賊団たちは、恐怖のあまり我を忘れた。算を乱し、口々に悲鳴を上げつつ逃げ出そうとする者まで現れている。
わたしは、無言で一歩を踏み出し、盗賊団へとにじり寄る。
「や、やめろ、来るんじゃねぇ! 近づくな! ば、バケモノ! バケモノッ! ――お、俺に手を出して見ろ! 俺たちの親分が黙っちゃいないぞ! 言っておくがな――」
そして、続く野盗の言葉は、今度こそわたしを驚愕せしめたのだった。
「俺たちの親分はな――『異世界転生者』なんだぜ!」
「――――な」
わたしは愕然とした。
それほどまでに、野盗の男の言葉は衝撃的だった。
(わたし以外にも異世界転生者が――!?)
どういうことなのかと、わたしが問いただそうとした時である。
突如、背後から悲鳴が上がり、わたしは驚いて振り返った。
見れば、そこにはいつの間に回り込んだのか、盗賊団の一味がいた。
そして――彼らが人質として羽交い絞めしているのは、二人の赤毛の女の子である。
「――フラッカ! ジェシカ!」
飛び出してきたマリアさんが、娘たちが捕らわれている状態に痛ましい悲鳴を出す。
とっさに駆けだそうとした彼女を押しとどめたのは、さらなる展開――盗賊団の男が、人質の女の子たちにナイフを近づけたのだった。
「う、動くな! いいか、動くんじゃねえぞ。すこしでも動いたら、このガキどもの命はねえぞ!」
興奮に血走った眼を向けつつ、脅迫の言葉を紡ぐ野盗たち。
マリアさんはその光景を前に両手で口を押え、がくがくと足を震わせている。
「いやぁ……やめて! 娘たちを放して!」
彼女は卒倒しそうなほど青くなっていた。
「うぁあああん、おかーさん!」
「テイルおねーちゃん!」
泣き叫ぶ二人の女の子たち。
わたしはかっとなって吠えた。
「卑怯者! その子たちを放しなさい!」
これ以上ないというくらいの激昂だったが、そんな言葉でどうこうできる状況ではない。
人質という存在を前にして、一転してわたしたちは不利へと陥った。
膠着状態となった中で、最初に動いたのは盗賊団のリーダーだった。
「よ……、よし、いいぞ。――おい、お前ら! 倒れている奴らを馬に乗せて、とっととずらかるぞ!」
「あ、兄貴、いいんですかい!? この女を見逃して!」
「バカ野郎! こっちの怪我人が多い! この場は人質を盾にして逃げるんだよ!」
敵ながら賢明な判断だった。
動けないでいるわたしたちを置いて、盗賊団はすぐさま退却の準備に入る。
「フラッカとジェシカを返して!」
「動くなっつってんだろ! こいつらは保険だ――俺たちが無事逃げ切るためのなぁ!」
マリアさんの哀願するような叫び声、しかし盗賊団は無慈悲に二人を捕らえたまま、村から去っていこうとする。
一度馬で村の外に出てしまえば、わたしたちには追いつく手段はない。いや、追いついたところで、再び人質を盾にされては手の出しようもなかった。
わたしは悔恨に歯噛みしながらも、去っていく背中に向かって大声を叩きつける。
「その子たちに傷一つでもつけたら――絶対にあなたたちを許さない! どこまでも追いかけて、一人残らずブチのめしてやる!」
そんなわたしの怒声にも、もはや盗賊団は振り向くことすらしなかった。
もはや長居は無用とばかりに、猛然と砂塵すら巻き上げて去っていく。
――やり場のない怒りのあまり、わたしは爪が肌に食い込むほど手を強く握りしめ、街道の彼方へと消えていく盗賊団を見ていることしかできなかった。