第四話. 豊麗の風巡る地、ファクトの村
「見えました。あれが私たちの村――ファクトの村です」
そういって、シルフィが指し示したときには、空が少しばかり黄昏色に染まろうとしていた頃合いだった。
ファクトの村は、小高い渓谷を中心として広がる農村だった。
村といっても、思っていたより規模は大きく、高原の地にはいくつもの石レンガの住まいが建ち並び、そのうちの多くは、夕餉の支度のための煙が煙突から立ち上っている。
また、遠くには石塔の風車が点在し、風を受けてゆっくりと帆を回していた。
黄金色に輝く麦畑に加え、柵に覆われた放牧地では、牛や羊といった家畜が多く見受けられる。暮らし自体は、かなり豊かなようだった。
(まるで絵本の中の世界みたい……)
わたしはなんとなく、そんなことを思った。
わたしたちが村の入り口に至ると、ちょうど農作業をやっていた若者が、わたしたちの方に気付いて、大きく声を張り上げた。
「――あ、シルフィだ! みんなー、シルフィが帰ってきた!」
その声を受けて、村人たちが次々と家から扉を開けて出てきた。
「シルフィ! よかった!」
「おかえりなさい!」
「あまりに遅いから心配したよ!」
次第に村人たちが集まり、シルフィを取り囲んで口々に出迎える。
全員が、シルフィの姿を見ては、安堵したような表情を浮かべていた。
「みんな、ただいまです。心配かけてごめんなさい」
その中心で、シルフィが深く頭を垂れた。
わたしはというと、少し離れた場所でその光景を眺めていた。
やがて、人だかりをかき分けて、一人の老人が進み出てきた。
「シルフィ、無事だったか!」
「村長!」
村長と呼ばれた老人は、大柄な体躯に、立派な白髪を蓄えた貫禄のある人物だった。
かといって、威圧的というわけではなく、穏やかな雰囲気を纏っている。
まるで、ハイジに登場するおんじみたいな人だった。
続く話の内容は、わたしを完全に置き去りにしたまま進められた。
「どうだった? 領主さまは何とおっしゃっていた?」
村長に問われたシルフィが、悲し気に眉を伏せつつ、答える。
「――それが、帝国の侵略に備えるため、今は兵をまわせないそうです」
「そうか……。王都の神官候補生であるシルフィの肩書ですら、聞き入れてもらえなかったか……」
「ごめんなさい。私の力不足です」
「お前が謝ることはない。むしろ、盗賊にも襲われず、よくぞ無事に戻ったと感心したところだ」
そう言われたシルフィが、両手を軽く振って、慌てて否定した。
「いえ、違います。本当は、街道での帰り道で盗賊団に囲まれてしまったんです。けれど危ないところを、こちらの方――テイルさんに助けていただいたんです」
それまで蚊帳の外にいたわたしに対し、シルフィの言葉でようやく視線が向けられる。
水を向けられたわたしは、彼らに対して挨拶をした。
「テイルといいます」
礼儀正しくお辞儀をする。
その時である――
ざわ、と村人たちが大きくどよめいた。
わたしとシルフィを除く、その場にいた全員――特に男性を中心として、驚きのあまり、ぽかんとしたような表情を浮かべている。
まるで空飛ぶクジラでも目の当たりにしたような、信じられないものを見るかのような目つきでこちらを凝視していた。
「あの……、どうしました?」
村人たちの態度に対し、わたしは若干困惑気味になって尋ねる。
(もしかして――この耳のことに驚いているのかな)
まあ、いきなり狐耳を生やした少女なんて怪しさ大爆発だし、彼らが警戒心を抱くのも無理はないと思った。
やがて、村長がはっとして口を開いた。
「ああ、いや……、こんな綺麗なお嬢さんは始めて見る……」
――あ、そっちなんだ。
「あはは……。けど四十年もしたら、どうせ皺くちゃのおばちゃんですよ」
わたしは多少むず痒い気持ちに襲われつつ、誤魔化すように頬を掻いた。
「――いえ、人様の顔をじろじろ見るなど、大変失礼いたしました。
村長のフランゼル・ボウと申します。シルフィを助けていただき、感謝の言葉もございません。村民を代表し、深く礼を申し上げます」
非常によくできた態度で、わたしに頭を下げてきた。
その時、バタンと勢いよく扉が開かれ、一人エプロン姿の女性が、慌てたようにバタバタと駆け出してきた。
「シルフィ! 無事だったんだね、よかった! 怪我はしてないかい? 盗賊には襲われなかった?」
女性はシルフィの元までやってくると、無事を確認するように少女の身体をしっかりと抱擁した。
「マリアさん……、ちょっと、苦しいです……」
「うんうん、苦しいのは生きている証だねぇ。ホントよかったよ。もう一度ちゃんとその顔を見せておくれ」
「わたしは大丈夫です。こちらのテイルさんが助けてくれたので」
その言葉を聞き、マリアと呼ばれた女性がわたしのほうに向き直った。
年齢は三十歳くらいか。鮮やかな赤毛を三つ編みに束ねており、大柄で気の強そうな女性であるが、その表情は慈愛に満ちた笑みを浮かべている。
「あんたが……! そうかい、あたしはマリア。これでも一応、村長の娘をやってる。本当に、シルフィを助けてくれてありがとう」
そのとき、マリアさんの後ろから、二人の可愛らしい幼女が飛び出してきた。
二人の女の子は、わたしを中心としてくるくる回って、きゃっきゃと飛び跳ねている。
「おかーさん、見てー! この人、キツネだ!」
「しっぽもあるよー!」
その様子を見咎めたマリアさんが厳しく叱責の声を飛ばした。
「こら! フラッカ! ジェシカ! お客さんに失礼なことを言うんじゃないよ!」
その言葉から察するに、彼女とこの二人の女の子は親子なのだろう。鮮やかな赤毛はマリアさんにそっくりだった。
「だってだって、キツネの耳しているよ。かーわいいよー」
「だからやめなさいって! ――すみませんね、ウチの子達ったら言っても効かなくて……」
わたしはくすりと笑って、
「いえ、気にしていません。大丈夫です」
手を振って応えた。
実際、無邪気に飛び跳ねる女の子たちは、見ていて微笑ましい。社交辞令ではなく、本当に気にしていないのだった。
そういう訳にも……。ホラ、あんたたち! ゴメンナサイしなさい!」
母親に大きな声で怒鳴られ、そこでようやく二人の女の子は素直に従い、「ごめんなさーい」と謝ってきた。
それまで黙っていたシルフィであったが、思い出したように村長に進言した。
「あの、村長! 実はテイルさん、記憶がないんです! それで、記憶を取り戻すまで村に置いてほしいんです! お願いします!」
「なんと! ふうむ……」
それを聞いて驚いたフランゼル村長は、一瞬考える仕草をしたが、
「――わかりました。シルフィを助けていただいたとあっては、私たちにとっても恩人です。あまり大したもてなしはできませんが、どうぞ滞在なさってください」
それを聞いたシルフィは喜色満面の表情を浮かべた。
「よかったぁ! テイルさんは、私の家で住んでもらいますね! ささ、行きましょう! テイルさん!」
小躍りしそうなほど喜んでいるシルフィに手を引かれ、わたしは村の中を進んだ。
*
シルフィの家は村の奥にひっそりと建っていた。
こちらも同じく石レンガで建てられた家で、築年数はそれなりに重ねているのか、多少古びた感じはあるものの、どこか温かみのある佇まいだった。
「おじゃまします」
シルフィに一歩遅れ、わたしは遠慮がちに言って扉を潜った。
家の中には明りはなく、先んじて家の中に入ったシルフィは、まずランプに明かりを灯し、窓を軽く開けて換気を行った。
「ゆっくり寛いでくれていいですからね」
シルフィは手際よく作業をしつつ、背後のわたしに向かってそのように言う。
わたしをリビングに残したまま、シルフィは奥の部屋へとパタパタと早歩きで駆けて行った。
一人取り残されたわたしは、手持ち無沙汰になって家の中を観察する。
家の中はそれなりに広く、部屋はいくつもある。少女一人で住むには、明らかに大きな間取りであった。
とりあえず、気になったことを訊いてみることにした。
「ねえ、ご家族の人はいないの?」
奥の部屋に向かって質問してみる。
ごそごそと何かを漁る音が、向こうからかすかに聞こえる。
シルフィの声が廊下越しに飛んできた。
「いえ、この家に住んでいるのは私一人です。
お父さんは、私が産まれて間もなく亡くなりました。お母さんも――数年前に死んで、今では私だけです」
「そうなの? 気にしていたらごめんね」
「いえ、大丈夫です!」
気丈に言って、シルフィは再び戻ってきた。
はたしてシルフィの腕の中には、折りたたまれた衣服が積み重ねられていた。
村娘が着るような、素朴な感じのドレス服だ。
「テイルさん、こちらをよかったらどうぞ。亡くなった母のお古で申し訳ないのですが……」
「ううん、とっても助かるから。ありがとう」
いや、本当に助かるのである。
この世界に目覚めたときからずっと、面積の大きな布一枚を、さながらレインコートのように纏っていただけであり、ぱんつすら穿いていない状態だった。
更衣室を借りて、シルフィが持ってきた衣服に袖を通す。
渡された中には、下着や靴も一式含まれていた。
ぱんつはいてない狐耳少女から、村娘風狐耳少女にクラスチェンジしたわたしは、鏡の前でくるりと一回転――調子に乗って、可愛いポーズなどを取ってみる。
リビングに戻ると、さっそくシルフィにお披露目した。
「すごい……、可愛い! 可愛いです! テイルさん! 最高です!」
なんか、予想以上に感激された。
きゃー、と黄色い悲鳴を上げんばかりにシルフィは喜んでいる。
「渡した服で、どこか変なところはありませんでした? 古い服なので、虫に食べられていなければいいのですが」
「変なところ? うーん、と――」
後ろを振り返る。
問題点があるとすれば、一つはそこだ。
なにせ、今のわたしのお尻にはモフモフした尻尾があるのである。スカートの上からでもハッキリと分かるように、もっこりと膨れ上がっていた。
「あ、確かにこれはヘンですね――ちょっと、待ってください」
そう言い残し、シルフィはパタパタと再度奥の部屋へ消えていった。
それほど時間をかけずに戻ってくる。
わたしはぎょっとする。
シルフィの右手には、人間の手首すら切断できそうなハサミが握られていた。
ぎらん、と死神の鎌のごとく、刃先が不気味に光る。
「シ、シルフィ――、ちょっと、それは」
良からぬ想像をしてしまったわたしは、若干引き攣った表情になる。
「じっとしていてくださいねー」
シルフィはそんなわたしに頓着することなく、素早くわたしの背後に回る。
ジョッキン、と、裁断する音が響く。
無論、わたしの尻尾がちょん切られた訳ではない。
シルフィは、ドレスの背中を引っ張ると、お尻の上――腰のあたりで、縦に切れ目を入れたのだった。
「ここから尻尾を出してみてください」
言われたとおりにすると、今しがたシルフィが入れてくれた切れ目から、わたしの尻尾がするりと首を出すことができた。
その行動を意外に思って、わたしは背後のシルフィに尋ねた。
「……切ってよかったの? だってこれ、お母さんの形見なんでしょ?」
するとシルフィは、可愛らしく笑みを浮かべた。
「いいんです。テイルさんに着ていただくんですから、全然構いません」
「………………」
有り余る好意が重い。
なんか、随分となつかれちゃったみたいである。満更でもないけれど。
シルフィは屈託のない笑顔で再び尋ねてきた。
「他に何かありませんか? 窮屈なところとか」
「窮屈……。えっと……」
実を言えば――もう一つだけあるのだった。
あえて黙秘を貫いていたけれど。
その――胸のあたりがきついのである。
ちょっと――ほんのちょっと――辛うじて着れなくもないってくらい――だと思うけど。
明らかに胸周りだけ、サイズがキツキツだったのだ。
一方で腰周りとか袖とかは尺がかなり余っているのだけど――
(けど……ストレートにそう言ったら嫌味になるんじゃ……)
わたしの気まずい沈黙に対し、シルフィがハッと気づいたようだった。
ががーん、とショックを受けたように、よろよろと後ろずさる。
(しまった! 気づかれた!)
焦ったときにはもう遅い。
途端に一転してシルフィはブルーとなってしまう。
「ごめんなさい……。それ……お母さんの服の中でも、かなり大きいやつを選んだつもりだったんですが――」
「う、ううん! 気にしないで! シルフィは悪くないっていうか、成長は人それぞれっていうか、貧乳に罪はないというか――」
いけない、何を言っても藪蛇にしかならない。
天国にいるであろうシルフィのお母さんに対し、三途の川を飛び超えて、心ない流れ弾が飛んで行ってしまった!
「ごめんなさい……。私がもっと大きかったら私の服を渡せたのに……。けど私も所詮お母さんの血筋ですし、胸が小さくてごめんなさい……。生きていてごめんなさい……」
わたしに背を向けて、三角座りをしつつ、ぶつぶつと呟くシルフィ。
どよーんと、空気が淀む。
わたしは慌ててその後もフォローをし続けた。
シルフィのお母さんが草葉の陰で泣いていないことを祈りつつ、わたしはこの世界に来て、初めての夜を迎えるのだった。