そらのそこのくにせかいのおわり(改変版)2.4 < chapter.1 >
この話のきっかけが何だったか、それは思い出せない。何か別の話題からの流れで、何気なく始めた会話であったように思う。
その日、女王陛下は思い出話を始められた。
「昔ね……そう、本当に昔、大好きな人がいたの」
「それは、恋のお相手として?」
「ええ、そうね。恋だったのかもしれない。私はまだ子供だったから、自分がどんな気持ちを抱いているのか、うまく理解できなかったの。その人に少しでも多く構ってほしくて、くだらない悪戯ばかりして」
「たとえば、どのような悪戯を?」
「ふふっ。一番よくやったのはね、彼の上着のポケットに……」
他愛もない子供の悪戯。それを楽しそうに語られるご様子から、陛下は今も変わらず、その人物を想い続けておられるのだと感じた。
女王陛下と自分は愛人関係にある。周囲の人間にも国民にも、そのように理解されている。
しかし、実情は少しばかり異なる。
「陛下? その方は、今はどちらに?」
「永い眠りについてしまったわ。魔女と同じ時間を生きられる人間なんて、そうはいないもの」
「そうですか。それはよかった。まだ生きているなら、暗殺者を雇わねばならないところでした」
「あら、物騒な子ね。それで何人始末したのかしら?」
「さあ、何人でしょう。正確な数字は把握しておりません。現場に当人以外の人間がいれば、その人物も一緒に消されたはずですから」
「本当に危ない子。私を独り占めできて、嬉しい?」
「はい、陛下」
「ねえ、サイトちゃん? もしもの話をするわよ。もしも『彼』があなたの前に現れたら、あなたは、自分の手で彼を殺すのかしら?」
「当然です。その場で手袋を投げつけてやりますよ」
「それは楽しそうね。可愛い子が血を流しているのは、とっても綺麗だもの」
「陛下、俺は負けません」
「どうかしら。『彼』は強いわよ?」
「俺が本気を出せば、血まみれになるのはその男のほうです」
「勇ましいわね。好きよ、その目……」
「陛……下……っ!」
甘い笑顔でそっと手を伸ばし、陛下は俺の首を絞める。
もちろん、本気で殺そうとしているわけではない。これはただの窒息プレイだ。三十秒から一分ほど弱い力で頸動脈を圧迫し、手を放した直後に酸素マスクを被って深呼吸する。すると脳が急激に活性化し、異常な興奮状態に陥る。
見様見真似で試せばパートナーを死なせてしまう危険なプレイだが、女王陛下に限っては例外だ。一体何の目的で習得されたのか、陛下は一般教養をはるかに超える水準で医学を修められている。
的確なタイミングで手を放し、素早く酸素マスクを押し当て、飛びかけた意識が戻った瞬間に『本番』スタート。
乱暴にもてあそばれる下半身。
自分の口からこぼれ出た声が悲鳴なのか、喘ぎ声なのか、それすら理解できぬうちに悦楽の波が押し寄せ、呑まれ、無様に溺れて沈んでいく。
これはいつものこと。
俺は女王陛下の愛人なんかじゃない。陛下の気まぐれで一般的な性行為に及ぶこともあるが、たいていは陛下のお気が済むまで、こうしてじっくり、執拗に嬲られる。
はじめのころは嫌々やっていた『M豚』も、近頃ではすっかり様になってきた。垂らされた蝋で火傷を負っても、乳首にピアス穴をあけられても、痛み以上の快感に理性が飛ぶ。酸素と一緒に何らかの魔法薬を吸入させられているのだろうが、首を絞められた時点で、まともに物を考えられる状態ではなくなっている。されるがままに嬌声を上げ、喉が涸れるまでさらなる刺激を懇願し続ける。
この部屋に足を踏み入れた瞬間から、俺はただの豚なのだ。人間らしい思考力なんて、ここでは求められていない。
そう、だから俺は忘れていた。この会話を思い出したのは、オリヴィエ・スティールマンの生存が確認されたその時だ。
俺は関連資料に目を通しながら、補佐のアレックスに声をかける。
「なあ、アレックス? この男と俺だったら、どちらが強いと思う? 客観的な意見を聞かせてくれ」
アレックスは事務仕事の手を止め、数秒考えた後、ごく普通の口調で答えた。
「徒手空拳の体術勝負であればその方、純粋な剣術勝負では隊長、魔法ではギリギリで隊長、無制限試合ならそちらの方の圧勝……だと思いますがねぇ?」
「ありがとう、俺もそう思う。やはり、サイボーグ相手だとな……」
「パワーもスピードも初期値が違いますから」
「ああ……しかしこの男、戦闘用サイボーグとしての資料は山ほど出てくるのに、個人的な生活データは何も残されていないのかな?」
「あ、そういえば。趣味も特技も、どこにも書かれておりませんな」
「家族構成も、妹が一人いた、ということ以外何もないよな? スティールマンという家は今もあるのだろうか?」
「検索してみます」
「すまないな、忙しいのに」
「いえいえ。そこで溜息を吐き続けられるよりは、ずっとましです」
「溜息なんか吐いてたか?」
「ええ、今朝からずっと」
「すまん。気付かなかった」
「無理もありませんよ。なにせ、最強ライバルの登場ですからな」
「ああ……実はな、俺は以前、陛下からこの男の話を聞かされていたんだ……」
「本当ですか?」
「『永い眠りについた』と聞いていたから、てっきり死んだものとばかり……」
「まあ、百年も前の話ではそう思うのも当然で……あ! ありました! 西部エリアに現存する下級士族ですね。現当主はボリス・スティールマン、九十七歳。オリヴィエ・スティールマンの甥です。現在は老人介護施設で寝たきり状態のようですが……ええと……本家筋唯一の男子、オリヴィエが死亡したため、一度は断絶。妹が嫁ぎ先で産んだ子供が成人した時点で、改めて『スティールマン家』を復活させたようです」
「ふむ……耳慣れぬ名だが、それなりの後ろ盾があるのだろう? 断絶した下級士族の復権が認められるほどの血縁となると……?」
「いえ、そういった理由での再興ではないようです。このエリアには他に有力な士族や豪族の家が無く、スティールマン家が集落のリーダーも兼ねていたため、地元住民の強い要望によって特別に復権が認められた、とありますが……」
「なるほど、そういう経緯か。ならば、子孫からの援護射撃は心配無さそうだな」
「あの、隊長? もしかして今、その方を抹殺する方向でお考えになってます??」
「もしかしなくても、今すぐガラスケースを叩き割りに行きたい気分だが?」
「せめて事故に見せかける方向で行けませんかねぇ? 隊長がやらかすと、私も失業してしまいますから」
「そうだな……隊員たちの生活も背負っている以上、よく考えて行動せねば……」
「本当にお願いしますよ? サポートはしますから」
「ああ、分かっている。お前のそういうところ、大好きだぞ」
「ありがとうございます。私も私が大好きです」
「言うと思った」
補佐の鋼のメンタルには感服するが、このくらいの人間でなければ隊長補佐は務まらない。俺はアレックスに留守番を頼み、王宮へ向かった。
だが、しかし――だ。
先日の件で話がしたい。
そう呼び出されたはずなのに、通されたのはいつもの部屋ではなかった。
「こちらでお待ちくださいませ」
「ああ、分かった……」
恭しく頭を下げ、退室する案内役。
一人ぽつんと残されたこの部屋は、女王陛下が使用する談話室ではない。陛下の代理として、式部省の人間が来客対応するための部屋だ。いつもであれば女王陛下のティールームに通され、俺専用の椅子とティーカップが用意されているところなのだが――。
「……強敵すぎる……」
本命彼氏に復活の可能性が浮上した途端、プライベートルームから締め出されてしまった。俺は今、非常に危ういところにいる。一つでも受け答えをしくじれば、本命彼氏との間に立ちはだかる『障害物』として職を追われることにもなりかねない。
「……花でも買って来ればよかったな……」
そうは思ってもいまさらである。俺はおとなしく女王陛下のお声がかかる時を待った。
何をするでもなく、じっと待つこと三十分。部屋の扉が激しく叩かれ、慌てた様子で顔なじみの侍女が駆け込んできた。
「ベイカー様!! たいへん失礼いたしました!! どうぞこちらへ!!」
「どうしたシエンナ。そんなに息を切らせて……なにかあったのか?」
「申し訳ございません! 先ほどベイカー様をご案内した者は、まだ研修期間中でして! 一般面会者リストにベイカー様のご来訪を記載しておりました!」
「ということは、もしかして、ここに通されたのはただの手違いか?」
「はい!!」
「……そうか……」
沸き起こる感情は、ヘッポコ新人への怒りが二割。残りの八割は安堵と、安堵してしまった自分に対する情けなさ。
俺は自分で思っているより、かなり本気でビビっていたらしい。
女王陛下のお抱え侍女に案内され、いつものティールームに通される。
だが、そこで待っていたのは女王陛下ではなかった。
「お初にお目にかかります! 王立エビ・カニ研究センターの所長、ニクロム・トノムと申します!!」
「あ、ああ、はじめまして。特務部隊長のサイト・ベイカーです……」
「ベイカー隊長! 早速ですが! 先日のカニについてのお話をお聞かせ願えますか!? 騎士団からご提供いただいた資料を見る限り、あのカニは二百年前に絶滅した『カナカナ・ワタリガザミ』の可能性があります!!」
「カナカナ・ワタリガザミ??」
「はい! ノコギリガザミとワタリガニの特徴を併せ持つカニで、たいへん美味であるため、乱獲の末に絶滅したはずのカニなのです!! この比較図をご覧ください! ほら、足先のヒレもハサミの形状も、すべてあの巨大ガニと一致するでしょう!? 通常のガザミはこちらですが、ヒレもハサミの突起もありません!!」
「……ええ、そうですね。甲羅の感じも、俺が戦ったカニと全く同じで……するとあれは、魔導性素粒子の流出による変異個体ではなく?」
「絶滅種の生き残りであった可能性があります!」
「一匹だけで二百年も生きていた、という可能性は……」
「考えられません! このカニの寿命はせいぜい十数年ですから、少なくとも数十匹は生き延びて、どこかで繁殖しているはずです!!」
「そうですか……」
拍子抜けに次ぐ拍子抜け。
てっきりオリヴィエ・スティールマンに関する話をされると思っていたのに、面会者はエビ・カニ研究センターの声の大きいオジサンで、話題は絶滅種のカニだ。
このタイミングでなければ二百年ぶりに発見されたレア生物の話に興味も関心も示せたのだが、今の俺は崖っぷちのM豚。どう表情を取り繕おうとしても、どうしても不愛想になってしまう。
しかし幸いなことに、エビ・カニ研究センターのトノム所長は相手の表情も場の空気も読まない生粋の『オタク』であった。俺の乾いた声色には何の反応もせず、ぐいぐい話を推し進める。
「女王陛下から許可をいただいております! 本当に! ついさっき! ほんの五分前にゴーサインが出たばかりです!! さあ、ベイカー隊長! カニを獲りに行きましょう!!」
「えっ!? どこに!?」
「アトラス家の所有するマングローブ林です!! 特務部隊長と私が調査に向かうことは、王宮のほうからご連絡いただけたそうです!! 旅券の手配も諸々の支払いも、何もかも王宮サイドで請け負ってくださると!! ですから何の心配もいりません!! さあ! 行きましょう!!」
「え、あの、まさか、今から出発ですか!?」
「ベイカー隊長はMですよね!?」
「はいっ!?」
「胴長靴とゴム手袋とライフジャケットは、Mサイズで大丈夫ですか?」
「あっ、ああ、はい、そうですね! サイズの話ですよね! Mです。もう、一通りドMでお願いします!」
「OK! Mならいくらでも在庫があります!! では、行きましょう!!」
「え、ちょ、あの……本当に!?」
救いを求めるように視線を向ける俺に、女王陛下のお抱え侍女、シエンナはにっこり笑って旅行鞄を差し出してきた。
「旅費、切符、地図、アトラス家当主への親書、調査協力への謝礼などが入っております。着替えや洗面用具も一通り揃えさせていただきましたが、不足があればご連絡ください。ただちにお届けいたします」
「特務部隊のスケジュール調整は……」
「そちらは騎士団長と副隊長、お留守番の隊長補佐の方に連絡済みです。どうぞご心配なく。なお、道中の警護として近衛隊から六名ほど同行いたします。どうぞお役立てくださいませ」
「分かった……カニだな。俺は近衛のマッチョを連れて、どこに何匹いるかも分からない超希少なカニを獲ってくればいいんだな……」
「はい。なお、捕獲の様子は偵察用ゴーレムにて王宮、騎士団本部にライブ配信されます。陛下もご覧になられるご予定です。ご健闘をお祈りしております」
「……応援ありがとう……」
分からない。
これはいつものドSプレイの類なのか、それとも俺を中央から遠ざけるための口実なのか。陛下にお楽しみいただくため、見世物として魔獣と戦わされるのはいつものことだ。危険生物の捕獲作戦をライブ配信されたことも何度もある。だから、いつも通りと言えばその通りなのだが――。
(ああ……陛下! せめて一目! 一目だけでもお目通りを……っ!)
ヘッポコ新人のせいで、陛下との貴重な面会時間が失われてしまった。女王陛下のお気持ちは今、自分と『彼』のどちらにあるのだろう。
エビ・カニ研究センター所長のハゲ散らかった頭部を見ても、今は何の感想も湧いてこない。ハゲ頭の中央に蚊に刺されたと思しき赤い腫れがあって、その上に新たに別の蚊が止まったというのに、そのことに対して何のツッコミも浮かんでこなかった。
こんなメンタルで、面白愉快な激レアカニ探しはできるのだろうか。
不安と心細さに押しつぶされそうになりながら、俺はゾンビのようにふらふらと王宮を出た。
南部のカナカナ村までは寝台特急で十七時間。中央駅を午後四時に出発し、翌午前九時頃にカナカナ駅に到着する。ありがたいことに、俺にも所長にもそれぞれ一人部屋が用意されていた。初対面のオジサンとツインの部屋で十七時間も一緒に過ごすことになったらどうしようかと、内心冷や汗をかいていたのだ。
旅券を手配した式部省担当官の心遣いに感謝しつつ、部屋に入り、シエンナに渡された旅行鞄を開ける。
するとそこには、なにやら見覚えのある衣装が納められていた。
「こ……これは……っ!」
SMプレイ用のボンデージ一式。なお、陛下が好まれるのは拘束や緊縛という行為そのものではなく、そのような行為と衣装で気分を盛り上げた上で行われる『女王様と豚ごっこ』である。拘束具に取り付けられた鎖の類は、俺が本気を出せば簡単に引き千切れる。陛下は俺の身に危険が及ばないよう、考え得る限りの安全策を講じてくださっている。だからこそ、俺も安心して身を委ねられるわけなのだが――。
「……え? いや、これは、どうすれば……??」
選択肢、一。これを身に着けて寝台列車内でのド変態自慰行為をライブ中継。
選択肢、二。エビ・カニ研究センターの所長をSM沼に引きずり込む。
選択肢、三。変態露出プレイで旅の恥を豪快に掻き捨てる。
「……どれも違う気がするな……」
陛下はどのようなお考えでこの衣装を用意させたのか。女王陛下のお心が分からない。まさか、俺は本当に捨てられてしまったのだろうか。以前どこかで見た『捨てられたことにも気付かず、何年も飼い主を探し歩く犬』の映像を思い出し、堪えていた涙が一気に溢れ出した。
衣装と一緒に収められていた首輪を装着し、部屋の隅で捨て豚の気持ちを噛みしめる。
「うう……うっ……陛下ぁ……」
こんな終わり方なんてあんまりだ。せめて直接、陛下のお言葉をいただきたかった。
いっそこのまま、ここで首でも吊ってしまおうか。
すぐ目の前に、座位での自殺に丁度いいドアノブもあることだし――。
そう思った俺の耳に、ノックの音が飛び込んだ。
「ベイカー、開けろ。話がある」
「!?」
俺は慌てて扉を開ける。
そこにいたのは近衛隊の制服を着たシアンだった。シアンはするりと室内に入ると、扉に鍵をかけ、襟の内側に仕込んだ通信機に向かって話しかけた。
「接触成功。これより作戦内容の説明を開始する。……もしもし? ……音が小さいな……?」
大きな猫耳は制帽に隠されているが、おそらく帽子の内側にイヤホンが仕込まれているのだろう。目深に被った帽子のつばをトントンと叩き、音量を調整しているようだ。
「……ああ、大丈夫だ、何とか聞こえている。次の連絡はカナカナ駅到着前に。不測の事態には……了解、それはこちらで対処する。では……」
通信を終え、シアンは俺に向き直る。しかし、わずかにつばを持ち上げて顔を見せてくれるものの、帽子自体は外さない。
「それ、外せないのか?」
「ああ、すまないな。間に合わせの装備品で、ネコ系種族用の帽子じゃないんだ。一度外すと被り直すのが大変で……気になるようなら外すが?」
「いや、そのままで結構。間に合わせということは、これは突発ミッションか?」
「その通り。本来の予定にはなかった。よって、チームの人員も都合のつく連中を寄せ集めただけの即席だ。お前も含めてな」
「他の五人はどこの所属だ? 知らない顔ばかりだが……」
「一応はコード・ブルーの所属だが、特務以外からの転属組だ。いつもの連中は別の任務に駆り出されている。あいつらの応援は期待するなよ」
「了解。いや、むしろ助かる。ラピやピーコと南国旅行なんて、悪夢以外の何物でもないからな……」
「同感だ。奴らは羽目を外しすぎる」
「で? 今日のシアンは『どこ』の『なに』さんだ?」
「近衛隊所属のアンディ・ブロンコだ。近衛隊の平隊員に接する態度で頼む」
「分かった。近衛隊のアンディ・ブロンコさんだな。それで、このカニ捕獲作戦は何だ?」
「情報部の動きを隠すためのダミー作戦だ。本来の目的は、アトラス家の所有する魔法学研究所の周辺を調査すること。できることなら、今回のミッションで確実な証拠物品を押さえたい」
「具体的には?」
「キメラ培養液特有の化合物か重金属を採取できれば、強制捜査に持ち込める」
「なるほど。絶滅種のカニ探しならば、水も泥も採取し放題だな」
「ああ。マングローブ林に入る口実を探していたところに、都合よくあの所長さんが現れてくれた。出発を急がせてすまなかったな。アトラス家から提示された調査期間は『明日から一週間』なんだ。時間を無駄にしたくなかった」
「いや……そうか、なるほど。突発ミッションだから、いつもと違う部屋に通されたのか……?」
「ん? 何かトラブルでもあったのか?」
「え? そっちで手を回したわけではないのか?」
「なんの話だ?」
俺はいつもと違う部屋に通されたこと、お茶も出されず三十分以上待たされたことなどを話した。するとシアンは、驚いたような顔でこう言った。
「それは情報部の指示ではない。その『新人』は何者だ? この数カ月、王宮で新人採用は行っていなかったはずだが?」
「……と、すると、あれは側近の魔女の誰かが化けていたのだろうか? やっぱり俺は女王陛下に捨てられるのか? プライベートルームから締め出されるなんて、洒落にならないよな……?」
「あー……いや、いくらなんでも、オリヴィエ・スティールマンの復活の可能性が出ただけでいきなりポイ捨てするとは……」
「シエンナに渡された旅行鞄に、プレイ用のボンデージ一式とこの首輪が突っ込まれていたんだ。首輪はご主人様と豚との主従の絆……エンゲージリングにも等しい存在なのに! これは事実上の野外放逐! 終わりなき放置プレイ!! 俺は今、ただの野良M豚に成り下がったのかもしれない!!」
「えーと……俺はこの話のどこに突っ込めばいい?」
「どうしよう。陛下に捨てられたら、俺はこの先、どうやって生きていったら……」
「まあとにかく落ち着け。まだ破局確定ではないだろう? 先走って変な言動を見せれば、自滅することになるかもしれないし……というか、その、ちょっと確認させてもらっていいか?」
「なんだ?」
「お前、陛下の『愛人』じゃなくて……豚……?」
「あっ、いや、その……あまり深く聞いてくれるな。特務部隊長にもいろいろと、大人の事情というものがある……」
「……うん。そうか……」
シアンの視線から限りなく冷ややかな空気が感じられた。この視線に羞恥心よりも快感を覚えてしまうのだから、我ながら末期的だと思う。
しかし、ここでM豚にご褒美をくれないのがシアンである。ほんの数秒だけ見せた素の感情をサッと引っ込め、淡々とした声で事務的に作戦内容の説明を始める。
情報部の面々はカニ捕獲作戦に乗じて水や土壌、動植物のサンプルを採取。魔法学研究所から違法な魔導性物質が流出している証拠をつかむ。
その間、俺はトノム所長の動向を監視。と言っても、所長に付き合ってあちこち動き回りながら、普通にカニ捕獲作戦を遂行していれば問題ないらしい。
「護衛班の全員が視界から消えたのでは、さすがに不自然だろう? 俺だけはそちらから見えるところでウロチョロしているが、特に意味は無いから気にするな」
「分かった。護衛をしているフリなんだな?」
「ああ。実際には護衛無しだと思ってくれ。まあ、イリエワニが出たら多少は戦ってやるが……」
「ワニが出る地域なのか?」
「ここ半世紀の死亡者数は年平均五十人。大半がノコギリガザミの密猟者であるため、表立って報道はされていない」
「しかし、密猟者だとしてもそれは多すぎるのではないか? 半世紀もの間、コンスタントに五十人ずつ食われ続けるというのも、あまり聞かない話だが……」
「単純な話だ。アトラス家が現当主に代替わりしたのが五十三年前。それ以降、私兵隊による害獣駆除は一度も行われていない」
「現地住民が被害に遭っても?」
「こちらで確認した限りでは、駆除作戦に関する資料はないな。イリエワニによる被害は完全に放置されている」
「そうか……ならば、相当な個体数になっているだろうな……」
「あと、ワニに食われた密猟者の幽霊も出るらしい。蚊やアブも多いし、アカエイとアカクラゲもいる。ノコギリガザミやワタリガザミに挟まれると指くらい簡単に切断されるから、ダミー作戦だからといって油断は禁物だ。ゴム手袋なんて防御の足しにもならないからな」
「もう何に注意すればいいのか分からない」
「ナンヨウダイオウフナクイムシとカナカナ・オオオニイソメの危険性も説明したほうがいいか?」
「いや、なんとなく予想できるからいい……」
「そうだ、カナカナシジミという二枚貝にも気をつけろよ。最大二十センチまで育つシジミで、泥干潟で踏むと確実に転ぶ。地味に痛い」
「痛かったのか」
「ああ。本当に、地味に痛いからな。地味に……」
「シジミだけに……」
「えっ? おやじギャグ!? さむぅ~いっ!!」
「いや、ちょ、シアン!? 自分で振っておいて!?」
シアンの隠れたお笑いスキル、『逆引きオトシ』が発動した。自分から乗りやすいネタを振っておいて、相手が乗ったところで『逆にドン引き』して強引にオチに持ち込む。これはボケ属性でない人間にボケ役を押し付ける、お笑い界の強襲揚陸作戦だ。
やられた! という顔をする俺に、シアンはフッと笑顔を見せた。
「やっといつもの顔になったな」
「え?」
「なあ、ベイカー? 俺にはお前みたいな恋愛経験は無いわけだが、一応、年長者としておせっかいを焼かせてもらってもいいか?」
「……なんだ?」
「せっかくの武器を手放すな」
「武器?」
「そう、武器だ。お前にあって、オリヴィエ・スティールマンにないものはなんだ?」
「ええと……財力かな? あとは地位とか、世間的な知名度とか……」
「馬鹿。笑顔だ」
「笑顔?」
「オリヴィエ・スティールマンは眠ったまま。元々どんな奴だったか知らんが、今は喋ることも、陛下に向かって微笑みかけることもできない。それに比べて、お前はどうだ? 喋れないのか? 笑えないのか? 陛下のお気持ちが分からないからといって、自分からは何もしないまま、お声がかかる時を待ち続けるつもりか? お前、そんな性格だったか?」
「……シアン……!」
「おっと、違うぞベイカー。今は『近衛隊のアンディ・ブロンコ』だ」
「そうだったな。ありがとう、おせっかい焼きなアンディさん。なんとかなるような気がしてきた……」
「まだ足りない。なんとか『なる』んじゃない。『する』んだろう?」
「ああ……そうだな! なんとかする! 百年も昔の骨董品サイボーグなんかに、負けてたまるか!!」
「よし、その意気だ」
俺の肩をポンと叩き、シアンは部屋を出て行った。
なんとかする。
この言葉を支えに、俺は眼前の任務をやり遂げることにした。