合流
ラムダは泣いている。
マキシマムを置いて逃げたから泣いているわけではない。
今、山羊の頭を持つ化け物二体を前にして、恐怖のあまり涙を流している。その背後で、祈りの言葉を囁くレディーンは、わらわらと数を増す蛙の頭を持つ化け物達に絶望していた。それでも、離れた場所から聞こえるマキシマムと大神の戦う声と音が止まず、それにすがった。
「ラムダ、マキシマムと合流したほうが……」
レディーンの声で、ラムダの心は折れた。
彼が叫ぶ。
「助けてくれ! この女を渡すから!」
化け物達は人語を理解できた。
彼らは彼の声に反応すると、脅えるレディーンへと迫る。悲鳴をあげた彼女は、助けをラムダに求めた。
「ラムダ! ラムダァ……いやぁあああ!」
山羊頭が少女の腕を掴み、一瞬で彼女を担ぎ上げる。そして去り際、涙と鼻水を垂れ流すだけのラムダを赤い目で見ると、ニヤリと笑ったように表情を歪めてみせた。それが侮蔑であるなら、ラムダはまだ耐えられただろう。
そうではなかった。
化け物は、彼に親しみを向けていたのである。
そして、山羊頭に担がれて運ばれるレディーンの目が、彼を捉えていた。
そこには怒りや悲しみ、驚愕ではなく、侮蔑のみが宿っていた。
ラムダは、動けない。
その胸の奥には、このまま化け物達が立ち去ってくれれば助かるというセコい本音があった。そして、顔を伏せていれば、レディーンの視線から逃れることができるという逃げもあった。しかるに、この時に届いたマキシマムの声で、説明がつかない状況をごまかせず、逃げ出せず、顔面はさらに蒼白となる。
「レディーン! ラムダ!」
マキシマムが叫ぶ。
彼は、敵が突然に引き上げていくなか、レディーンの叫び声を聞き、その方向に走り出していた。しかしすぐに、疲労で脚がもつれた。そして、地面に張り出した木の根に足を取られてよろめく。
大神が彼を助ける。魔獣は倒れかけた彼の下に身体を滑り込ませて、そのまま彼を背に乗せると、マキシマムが指し示す方向へと加速した。だが、その速度は速くない。魔獣であっても疲れに抗えないようだった。
マキシマムは大神の背で、進む方向にラムダだけを見つけた。彼はポツンと立っている。そこへマキシマムを乗せた魔獣が近づく。
「何が……あった? レディーンの声が……彼女は?」
マキシマムは問いながら、ラムダの無反応で答えを知ってしまう。しかし、それを信じられない彼は、また訊いてしまう。
「レディーンは?」
ラムダは答えられない。だが、その視線は北方向を示している。
マキシマムは、その方向に連れ去られたのだと理解しつつも、すぐに追えなかった。彼はどうしても、確かめたいことがあったからだ。
彼は魔獣から降りるとラムダの正面に立ち、その目を見ることで、相手が何をしたかを悟った。
「……お前」
ふつふつと沸き上がる怒りで声を震わせるマキシマムは、いつの間にか拳を握っていた。そして、感情のまま、相手を殴る。
頬を殴られたラムダは反撃せず、言葉だけを返す。
「しょうがない……しょうがないじゃないか……あんなの、勝てるわけないじゃないか」
「お前、自分が助かりたいって! レディーンを!」
マキシマムは、またラムダを殴った。口の中を切ったラムダは血と涎を唇から垂らしながら喚く。
「しょうがないだろ! あんな化け物相手にどうしろってんだよ!」
「逃げろって言ったろ!」
「逃げてたさ! お前がだらしないから追いつかれたんだろ!」
ラムダの言葉に、マキシマムは目を見開いていた。
「お前がカッコつけて、一人で向かっていったくせに敵を防げなかったから、化け物達が俺達に追いついて来たんだ……俺は悪くない……お前のせいだ。囮になって違う方向に走るとかしないから! 俺達に逃げろって叫んだから、俺達の場所がばれたんじゃないのか!?」
マキシマムは拳を収めた。
彼は、目の前の相手は殴る価値もない奴だと冷めた目でラムダを眺める。
見るのではなく、眺めたのだ。
「なんだよ? その目は? え?」
「……」
「おぼっちゃんはいいよ……すごい人に教えてもらえるんだから……俺は普通の人だから、特別なものなんてないから、しょうがないんだよ。お前みたいに、恵まれてないんだ……」
マキシマムは、相手の吐く毒のような言葉を途中から聞いていない。
彼は、ラムダをその場に残して、北へと歩み始めた。
「どこに行くんだ?」
マキシマムはラムダの問いかけを無視した。
そして彼は、これからしようとしていることが滅茶苦茶なことだという自覚をもちながらも、ラムダと同列にはなりたくないと唇を噛む。
「またカッコつけるのか!? カッコつけて! できもしないくせに!」
残されたラムダの叫びが、マキシマムの背を押す。
-Maximum in the Ragnarok-
マキシマムの後を追うと約束したベルベットは、森の中をまっすぐ北に進みながら、異民族と化け物達を蹴散らしていた。今から二刻前、彼女が放った光球のひとつがマキシマムの結界に触れて弾けた瞬間、彼女は彼の位置と敵の位置を察知できた。ベルベットはすぐさま、強力な魔法でマキシマムを掩護し、合流すべく急いだが、敵の数が予想以上に多く、ベルベットといえども時間を要した。
「疲れたのだぁ……」
彼女は愚痴りながら、邪魔をする敵の集団に魔法を放っている。風神踊刃を一瞬で三方向に放った彼女によって、蛙の頭を持った化け物の群れが五つを数える間もなく消し飛ぶ。強力なかまいたちで切り刻まれた化け物達は、その場所に赤黒い霧を発生させて消えていた。そして地面には、血液と肉片が無数に飛び散り、赤い花が生い茂っているかのように森を変色させる。
ベルベットはいくつもの光球を再び発動させ、北の方向に飛ばした。どれか一つでもマキシマムを見つければと願う彼女は、戦いではなく移動による疲れから歩みを止める。
「……はぁ……川がもうそこに見える……が、上陸してないのか?」
ベルベットは、マキシマム達が敵に追われて方向を見誤った結果、北側に上陸したという推測をした。そして、再び歩き出し、川を魔法で凍らせて氷上を歩く。川幅は五〇デールほどもあり、流れているというのに、おかまいなしの彼女はそこでまた敵と出会った。
川の反対側に、山羊の頭を持つ化け物が五体と蛙の頭部を持つ敵が数十体、川の上流方向、つまり東へと進んでいた。
敵も彼女に気づき、武器を構えながら方向を転じる。
「光球を遠くに飛ばしたから、近くを見落としたか……山羊と蛙……ったく」
ベルベットは炎舞姫を放つ。
呪文の詠唱を必要としない彼女は、まさしく一瞬で強力な魔法を発動させていた。
化け物達の足場からいきなり炎が噴出し、狂ったように広がる。木々だけを避けて、敵だけを狙うように火炎の海が広がった。それはベルベットが敵と認めた相手だけに襲い掛かっている。そして、化け物達を焼き尽くすと彼女の意思で消えた。
彼女は何事もなかったかのように北岸に渡ると、光球がラムダ発見の報告をあげてきたので喜ぶ。だが、そこにマキシマムがいないともすぐにわかり、眉根を寄せた。
「マキぃ……どこに行ったのだぁ?」
落胆しつつ、ラムダがいるであろう場所へと進んだ彼女は、大樹に寄りかかり泣いている青年を見つける。
彼もまた、彼女に気付いた。
「一人か?」
ベルベットの問いに、ラムダは弾かれたように走り出した。
逃げ出したという表現が相応しい。
ベルベットは、恐怖で逃げ出したのだろうと察して彼を案じた。
彼女は彼がしたことを知らないがために示したもので、仮に全てを知っていたなら違ったはずだ。
ベルベットは光球を多数、空中に浮かべると周囲へと放つ。そしてすぐに、大神の背に乗るマキシマムを見つけた。
「大神が遅いし、マキは疲れてる……敵はいないのにどこに行ってる? あ? 姫君がいない」
ベルベットはヴェルナ王国の王女が敵に捕まり、ラムダは逃げ出し、マキシマムは取り戻そうと敵を追いかけているのだと感じる。
彼女は召喚魔法を解除することにした。大神を消すことで、マキシマムの無茶を止めようと思ったのだ。
「大神、お疲れさま」
ベルベットは、魔獣を労わるように優しい声色で発していた。
-Maximum in the Ragnarok-
マキシマムは地面を転がった。
何が起きたのかと混乱したのも束の間、大神がいなくなったとわかった。
草と土の冷たい感触を頬に感じながら、歯を喰い張り懸命に立つ。その頭上に、光る球がフワフワと浮かんでいるのを見上げた。彼にはそれが何かわからない。
ここで、黒皮狩人が三体、光る球に吸い寄せられるかのように姿を見せたが、マキシマムに接近することは叶わなかった。光球が発した光線によって、姿を見せた瞬間には身体を貫かれたからである。
マキシマムはそれで、光る球はベルベットによるものだと理解できた。それで彼は、魔獣が消えた意味もわかる。
ほどなくして、暗闇の中から笑顔のベルベットが現れる。
彼女は地面に倒れたまま動かないマキシマムに歩み寄ると、優しく抱き起し、怪我がないかと確かめながら口を開く。
「姫君が連れ去られたのだな?」
「そうです……僕が弱いから……」
「ものすごい数が、この辺りに展開していた……わたしも、ルナイスも、読み間違えた」
彼女は己の非を認め、マキシマムを立たせながら問う。
「彼女を連れ去った相手は?」
「山羊の頭をもつ化け物です」
「……」
ベルベットは、道中で山羊頭数頭と蛙頭の群れを一網打尽にしたことを思い出す。
「途中、見かけたが……燃やし尽くしたぞ」
「……先生は川の方向から来ました。彼女は、北の方角に連れ去られたようです……反対方向なんで、彼女はそこにいなかったと思います」
ベルベットに肩を借りて立つマキシマムは、北の方向を睨む。その横顔を見るベルベットは、彼の母親そっくりの目鼻に頼もしさを覚えたが、諌めるべく注意した。
「今のマキが追ったところで何ができる?」
「先生がいれば」
「わたしの今の優先順位は、まずお前を連れ帰ることなのだ」
「彼女を、見捨てるんですか?」
「冷静に考えて……魂縛の呪法を用い……今もまた連れ去っていった。つまり異民族にとって姫君は、いなくなっても死なれても困る相手なのだ……助けるなら、師団に帰還して仔細を報告したうえで、軍の動きをもってするのが良いだろう」
彼女は言いながら、マキシマムが納得していないなと、その目を見てわかった。彼の緑玉の瞳は、彼女を助けたいという意思で力強く輝いている。それは、色こそ違えど、彼の父親が、仲間の為に見せていたものだと思い出していた。
ベルベットはそれでも、彼をこのまま行かせるわけにはいかない。
彼女は口内で「ごめんね」と呟き、マキシマムから離れた。ガクリと崩れた彼が彼女を見上げようとした時、ベルベットの手刀が振り下ろされる。
マキシマムは気を失った。