撤退戦の始まり
グラミア王国の西方一帯をリュゼ地方という。
王国中央部とこの地方を隔てるクローシュ渓谷の西側と、スーザ帝国やルキフォール公国、アラゴラ西部に挟まれた地域を指す。
東西横断公道の中継地として、渓谷越えの前後に訪れる都市であったリュゼは、過去から現在に至るまでこの一帯で最も重要な拠点であった。
この都市を都にする公王がいる。
リュゼ公爵の爵位をもつ彼は、ナルという名前だった。
大陸西方諸国の人々は、彼を智神の遣い、あるいは大軍師と呼ぶ。それは彼が、グラミア王国で成した偉業が理由である。スーザ帝国は忌まわしい記憶とともに、その内容を誰よりも語ることができるが、求められても嫌であろう。実際、帝国の史書においてグラミア侵攻に触れられた箇所は、一行のみである。
『帝国は、教皇と聖女の派閥争いが理由でグラミア侵攻を継続できず、休戦した』
これだけである。
だが、これはまだ親切な表現である。帝国の中でも愛国心が強い者達は、勝っていたが自主的に休戦を申し出た慈悲深い国だと宣う。どの時代、国においても、このような妄想を語る輩は絶えないが、彼らを放置すればいずれ事実になるかもしれず、その時、史実を語る者は逆に異端者と罵られることは歴史が証明している。
愚かしい説でも、それは為政者に利用されれば、真実になるのだ。
そしてそれを、誰よりも知っているのが、皮肉なことにリュゼ地方を治める公王だった。
リュゼ公爵ナルは、グラミア王国補佐官であるが、公王でもある。それは彼が、グラミアに従いながら、あえて国を分けるということをしたからだ。いずれリュゼとグラミアが今ほど蜜月でない時代がくるかもしれないが、それでも親グラミアであろうと彼は予想するし、そうでなくてはならないと歴史を操るのである。
何故か。
グラミア王国の敵は、西にあると彼は見ているからである。ナルという男は、リュゼそのものをグラミアの盾に使おうというのだ。
だからリュゼの外交方針は、グラミアに影響を受けつつも、独自色が強い。
そのひとつが、ルキフォール公国との関係にある。
ナルは、スーザ帝国の属国ともいえるルキフォール公国を、帝国から切り離すべく接近していた。彼は彼の国において、新鋭の人物がグラミア由来の者だと知り、彼を支援することでルキフォール公国の中にリュゼ公国派を形成し、主流派へと育てる算段である。そしていずれ、その者を中心としたリュゼ公国派と親帝国派の戦いが起きることも予定に入っていて、もちろん、勝った後のことまで頭の中に描いていた。
そんな男が、ひさしぶりに領地に入っている。普段は、ラベッシ村で代官を装っている彼だが、異民族のこともあり、リュゼにいたのだ。
そう、ナルが領地にいる理由は、グラミア東部のことが主である。
ゆえに、家宰のコズンは、この人は親の自覚はあるのかという疑問を覚えて口にしていた。
「閣下……」
ナルは陛下や殿下と呼ばれるのを嫌っており、リュゼ公王の敬称は『閣下』とされている。
「……それはそうと、ボルニアの件、ご心配ではありますまいか?」
「……ボルニア? ああ、ドゥドラに任せてある」
「……」
「何か言いたそうだな? あ、ナル、これを見ておけ」
ナルに、ナルと呼ばれた美男子が一礼し、差し出された書類を恭しく受け取る。彼は影武者で、偽物の公王である。帝国の刺客から常に命を狙われるナルは、こうして自らを守っていた。しかし自分と全く似ていない男を偽物に仕立て上げているが、ナルはこれを、皆の期待に応えるためだと言っている。
大軍師は、それに相応しい外見であるに違いない! という勝手の期待、妄想を、彼は皮肉っているのだ。
コズンは、ナルの偽物に辞すように命じると、公国筆頭武官のルナイスに視線を走らせた。
ルナイスは苦笑し、書類の束を卓上へと放り投げて口を開く。
「家宰殿は、若君の件を話したがっているのです」
側近武官の言葉で、ナルは笑った。
「だから、ドゥドラに任せてあるんだ」
公王の執務室は、これが元首の部屋かと疑われるほどに質素である。絨毯も、長椅子も、どこにでもある普通のものだ。公王の執務机は、スーザ人達がこの都市を占領した際に持ちこんだものをずっと使っていて、それはまずいとコズンが注意したが今もそのままである。笑えるのは、この室で最も高価であろうものが、その黒壇の机であることだった。
不満気な家宰に、ナルは「よっこらしょ」と立ち上がり、窓へと近づく。木窓を押し広げた彼は、澄んだ青空の下に広がるリュゼを眺める。
一万人を超える人々が暮らす市街地の外は、どこまでも続くように感じられる農園があり、クローシュ渓谷から引き込む幾本もの水路が、美しい幾何学模様を描いている。
水に苦労した土地を、水を利用して再生していこうとするナルは、視界奥に見える森林は残そうと思い、新たな開発計画は修正すると決めた。そして、視線を転じて、東の方向を見る。
クローシュ渓谷が、晴れた日はよく見えるのだ。
「閣下!」
背後からの声に、ナルはくるりと振り向く。
「コズン、心配症だな?」
「当たり前ですよ……いや、考えあってのことだとは思いますが、万が一、本当に、その……」
「コズン、戦に出ていれば、俺であってもルナイスであっても、お前でも……マキシマムでも死ぬことがある」
ナルは真面目な顔となった。
家宰は、背筋を伸ばす。
「俺は間違いをした」
ナルの言葉に、ルナイスは目を伏せた。
「あいつが戦に行くと聞き、事実だとわかって、ルナイスとベルに守ってやってくれと頼んでしまった……結果は、グラミアの惨敗と、ベルの負傷だ」
ナルは移動し、椅子に戻る。
ルナイスは、立つコズンを対面に誘った。
家宰が、一人掛けの椅子に腰掛ける。
ナルが続ける。
「俺は、二人なら断られないと思ってしまっていた。二人なら、なんとしてもあいつを無事に帰してくれるだろうと考えてしまった。しかしそれは、正しいことか? 一人の親としてなら正しいかもしれない。だが、兵達を率いる俺にとって、それはよくない区別、贔屓だ。権力者が腐る最初のきっかけとも言える……思いあがりだ」
彼は知っている。
いかなる権力者も、長くその座に居座れば、皆、腐ることを。
彼は、それをとても恐れた。
ナルは、多くの犠牲を払ったグラミアに責任があると考えている。顔も、名前も知らないグラミア人が死んだことに、自分は無関係ではないと知っている。作戦の為には仕方ないと、割り切ることが軍師ならば、参謀ならば、そのような者達こそ、戦場に立ち、現実を知るべきだと思っている。そこで初めて、自ら考えた作戦が成功するように、全力を尽くすようになるという実感を得ている。
しかし、ナルはヴェルナでそれを欠いたと思っていた。
智神の化身、大軍師と呼ばれる自分を、もう一人のナルという人間とでもいうかのように距離を取りたがっていた彼であるが、誰よりも、自分が『俺は偉いんだ』と考えていたのではないかと恐怖した。
それで彼は、再び表舞台に立つことを決めた。
そしてナルは、我が子にいずれ、出生の秘密を明かす時がくることを予感した。
ゆえに彼は、ルヒティにそうしてもらったように、我が子を鍛えると決めたのである。
「俺は、先生に助けられた。されている時は……杖で何度もポカリとくらってる時はムカついたが、それも感謝に変わった。先生を失ってからは、もう誰も俺の頭をポカリとやってくれない……叱ってくれる人がいない。厳しくしてくれる人はもういない……この喪失感はしかし……先生が俺の為に厳しく接してくれたからだ。愛情などは、後からでいい」
「閣下……」
ルナイスが口を挟む。
「しかしながら、閣下とルヒティ卿は親子ではありませんでした。そこが閣下と、マキ……シマム様との違いかと」
「お前もコズンの味方か?」
「敵味方と分けるのはやめてくださいよ」
ルナイスの苦笑に、コズンもつられた。
筆頭武官は、剣の弟子であるマキシマムの為に、あえて続ける。
「ですけど、マキシマム様が閣下に求めるのは、父親ですよ」
「あいつはもうでかいぞ」
「閣下……ですが、中身はまだ大人になりきれているわけではありませんよ」
「……そうか?」
「だいたい、童貞ですよ」
「それは関係ないじゃないか……エヴァとはまだなのか?」
「俺が知る限りは……」
「エヴァ?」
コズンの問いに、ルナイスが説明する。
「マキシマム様の幼馴染で……小さい頃は元気のいいやんちゃな女の子だったが、これが今ではなかなか……」
「お美しいのか?」
「それはもう……彼女がお相手になれば美男美女だ」
「……しかしよくよく選ぶ必要がある」
コズンがそう言い腕を組んで何事か続けようとしたが、ここでナルが笑った。
「話がそれた……ま、コズンの提言はこれまで間違っていたことはない。ボルニアからあいつが帰国した時は、両親揃って出迎えて、無事でよかったと喜ぶよ」
ナルは含む発言をして、二人を黙らせたのである。
-Maximum in the Ragnarok-
マキシマムは走った。
ガレスの部隊が、再び敵とぶつかったのだ。
それも、敵は魔法と矢を掩護に急接近してきたかと思うと、一気に防御陣形を突破するほどの強力な攻撃を仕掛けてきたのである。
伝令が悲鳴混じりに報告し、マキシマムは部隊を率いて急行した。その彼の部隊に、作業を終えて休んでいたパイェと、エフロヴィネの部隊も加わる。
マキシマムは魔法攻撃を命じた。
エフロヴィネのヒッタイト人部隊が、火球と雷撃の魔法を敵に見舞う。
狭い山道で戦っていたガレスの部隊は、敵が後退した隙にマキシマム隊と合流できた。
パイェとエフロヴィネの部隊が、前衛に出ると盾を並べて、弩を構える。
ガレスは腕を矢で貫かれた格好で、マキシマムに駆け寄った。
「強い! 隊長! ギュネイ殿と俺の部隊を交代させたほうがいい!」
「やばいか?」
「やばい!」
「わかった。そのまま後退しろ。負傷者はいつでも撤退できるよう準備……助からない者は楽にしてやれ」
「助からない奴は、まだあっちです」
ガレスの視線が、ルキフォール軍に向けられる。
マキシマムはそれで、動けない者はまだ逃げることができていないと察した。
「よく判断した。退け」
マキシマムの指示で、ガレスは頷き村へと急ぐ。その彼に兵達が続いた。
爆発音が、マキシマムの鼓膜を襲う。
彼が前方を見れば、ルキフォール軍前衛は魔法に魔法をぶつけることで相殺させて突っ込んでくる。弩の斉射に対し、死体を盾に使って突進してきた。
「!!」
マキシマムは冷や汗を噴き出す。
これまでの敵とは違う圧力と迫力が、彼に戦場の恐怖を思い出させる。
しかし彼は、戦う部下達の背から視線を逸らさない。
パイェの部隊が、敵とぶつかり接近戦となった。
轟音と金属音の連鎖に、絶叫が連なる。
エフロヴィネが、敵中列を狙う魔法を発動させたが、敵の結界魔法に防がれた。
「!? 準備していた? 敵には強い魔導士がいる」
彼女は伝令をマキシマムに走らせると同時に、部下達に命じる。
「全体を結界魔法で守るぞ! 後退の呼吸で攻撃魔法を繰り出す!」
彼女の指示に、兵達が気合いの声で応えた。
怒号が飛び交う中、撒き散らされた血が雪の上にバシャバシャと降る。
前線で戦うパイェは、支えきれないと判断して後退を命じる。
「退く!」
これを、ルキフォール軍中で見るドゥドラは笑みを浮かべる。
「後退して我々の勢いを削ぐか……教科書通りの戦法だ。追えば魔法かな?」
「追いますか?」
ジアクの確認に、ドゥドラは頷く。
「当たり前だ。後退戦の大変さを教えてしんぜる」
「承知しました。伝令! 前進命令!」
ドゥドラ率いるルキフォール軍は、傭兵三〇〇を中心に二個連隊を合わせた合計八〇〇の軍勢であった。
「さて……若君は部下を先に逃がす指揮官か……自分が先に逃げる指揮官か……見届けようか」
ドゥドラは、腕組みを解かず、進む。




