逃亡
巨大な狼は、見掛け倒しではないかとラムダは呆れていた。
それは、マキシマムの隣で機嫌よく尻尾を振りながら歩く魔獣を見たからである。まるで犬が主人の隣を歩くようだと、ラムダは情けなくなった。
「マキシマム、そいつ、本当に役に立つのかな?」
ラムダの問いかけに反応したのは、マキシマムではなく大神だった。
「ガルル……」
「怒った?」
「ラムダ殿、謝ったほうがいいですよ。言葉、わかるみたいです」
「すまなかった……」
「クゥン」
魔獣がマキシマムに身体を寄せて甘える。
「はは……可愛いな。さすが先生が選んだ護衛だ」
「キューン」
「撫でて欲しいの?」
レディーンが大神の頭を撫でると、魔獣は耳を伏せて舌を出す。
喜んでいるようだ。
ラムダは溜息をつき、歩く速度をあげた。
これは自分がしっかりしないといけない、などと自らに言い聞かせる彼だったが、大神が突然に前に躍り出たことで立ち止まる。
「グルル……」
「何だ?」
ラムダは問いながら剣を構え、マキシマムはいつでも駆け出せるようにレディーンを背負う腕に力を込める。彼女もまた、マキシマムにしがみつく手に意識を集中させた。
『いたぞ!』
『こっちだ!』
イヴァール語だと三人にはすぐにわかる。
「前にもいたか!」
ラムダが敵の出現に備えた瞬間、大神が咆哮と共に猛烈な吹雪を前方に放つ。射線上の木々や草花を一瞬で凍りつかせた息吹はすさまじく、突風にも似た勢いである。白い輝きが暗闇の中で煌めき、夜の森は不思議な輝きで彩られた。
「左へ!」
ラムダの指示で、マキシマムは左へ向けて走る。方向は北で、師団へと近づくはずだ。だがその先からも大勢の声が聞こえてきた。
「大神!」
マキシマムが呼ぶと、大神は犬のように尻尾を振って彼の傍に駆け寄る。
「姫様、この子の背に」
マキシマムに促された王女が、大神の背に乗ろうとするが届かない。しかし魔獣は、自ら伏せることで王女を背に乗せてやった。
「マキシマム、俺が先に行く!」
ラムダが走る。彼は右手の長剣を構えながら木々の隙間を駆け抜け、前方に白く鈍く光るいくつもの白刃を視認した。距離はそうないと判断し、迷わず突っ込む。彼は長剣を一閃させ、目の前に迫った敵をひるませると身を屈ませた。その動きで敵の視界から消えてみせた後に、垂直に振り上げる一撃で最初の敵を倒す。
悲鳴よりも早く、血潮が撒き散らされた。
彼は二人目に迫った。
その相手は、手練れだった。
ラムダの初撃を剣で受け止めた敵は、反動を利用して後退することで彼の体勢を崩す。殺られると彼が恐怖した瞬間、後方から放たれた雷の魔法で敵が吹っ飛んだ。
マキシマムが放った雷撃が、敵にぶつかった瞬間に爆発したように周囲へと放電することで複数の敵が巻き込まれた。至近距離からの魔法攻撃に、結界で対抗できる場慣れした魔導士が敵にいないとこれで知ったマキシマムは、長剣を煌めかせて暗闇の中でも明らかに狼狽する敵中へと突っ込む。
彼は、驚く一人目をなで斬り、脇をすり抜けた直後には外から内へと払う一閃で二人目の頸動脈を切断せしめた。そして低姿勢となって三人目の脚を回し蹴りで払うと、倒れた三人目の背後にいた四人目、五人目に火球の魔法をぶつけ、同時に長剣を下方に突きだす。
爆炎を浴びて倒れたイヴァール人二人と、切っ先で串刺しにされた一人の断末魔の叫びに大神の跳躍が続いた。
魔獣は凍てつく息吹で敵を凍らせ、脅えさせると、マキシマムとラムダの為に突進する。その背にしがみつくレディーンは絶叫していた。
「きゃああああ!」
突風のように突っ走る魔獣に蹴倒されるイヴァール人達。
その中を疾走するマキシマムとラムダ。
彼等が走り去った後、よろよろと起き上がりながら喚くイヴァール兵。
『逃げたぞ』
『追え!』
『このままだと全員、喰われるぞ!』
異民族側も真剣にならざるをえない事情で、すぐに立ち上がり、まだ立てない仲間を助け起こし、三人が向かったであろう方向へ一目散に急いだ。
しばらく後。
短時間の戦闘が終わり、誰もいなくなったはずの場所で大神が目を開ける。黒い体毛は闇夜に溶けていて、赤い目がなければそこにいたとはわからないだろう。その魔獣に隠されていたレディーンが立ち、ラムダとマキシマムもほっと一息をついた。
彼等は、逃げるフリをして少し離れた場所にあえて留まった。
それが、最も助かる方法だとマキシマムが二人に伝えたからである。
「……しかし、さすがにキツい。歩き疲れて、戦いまでして限界です。休まないと、見つかった瞬間に終わりです」
マキシマムの意見にラムダも同意する。
レディーンが、おずおずと口を開いた。
「今の……マキシマム殿の案のように……相手が、ここにわたし達がいるはずがないと思う場所に隠れるのはどうでしょう?」
「それは?」
ラムダの問いに、王女は苦し気に呼吸する。それは、言葉を発するのが辛いという心情が気管に悪影響を与えたからかもしれない。
「……わ……わたくしがいた神殿……です」
-Maximum in the Ragnarok-
ヴェルナ王国の民はラグーラの神々を信仰している者が多い。その中でも、神々の頂点に立つ主神オルヒディンを敬っている。グラミアはオルヒディンと美神ヴィラをほぼ同列に扱い奉っているが、この国ではオルヒディンの下に他の神々がいるという教えが徹底されていて、それはヴェルナ派と称されている。
そのヴェルナ派である彼等が大切にする神殿は、異民族による急襲を受けて惨劇の現場と化した後、変わり果てた姿となっていた。レディーンは捕えられ、すぐに運び出されたゆえに知らなかった現実を、戻って来たことで目の当たりにしてしまう。そこはもう彼女が知る場所ではなくなっていた。
美しい庭園も、荘厳な神殿も、死体と血で汚されている。神職者や彼等に仕えていた者達は悉く殺されていて、なかにはレディーンと既知の者もいる。
王女は涙を流しながら、主神への祈りを囁きながら二人を案内した。その姿にラムダは尊さを覚え、この少女をなんとしても守らねばと誓っている。
「神殿の地下……祭事に使う道具を保管する部屋の奥に、隠し通路があり……神殿北を流れる川へと通じているんです」
彼女の説明に、マキシマムが反応した。
「ははぁ……なるほど」
「マキシマム、何がなるほど、だ?」
ラムダの問いに、後輩は苦笑しつつ答える。
「神殿に本来、そのような通路は必要ないけど、存在している。この神殿、代々……王家の中でも特殊な事情の男女を預かる役割を担っていたわけですよ」
「仰る通りです」
彼女は進みながら話す。長い通路は殺戮があったことを晒しているが、恐怖と怒りと嘆きが麻痺したかのようにレディーンの歩みに淀みはなかった。
「わたくしは……今は十五です。十八になれば王妃として兄上の妻になる予定でした」
「兄と妹が?」
ラムダの驚きに、彼女はコクリと頷くのみだった。
「わたくしと兄は血は近くはありませぬ……わたくしは先代の王の娘で、両親が早くに亡くなったので、今の陛下の養女になりましたから……現在の国王陛下はわたくしの両親の従弟……陛下にあられては、血を濃くする為のものでございましょうね」
「血か……」
マキシマムは思いを溢していた。彼もまた、その血で悩む一人である。
マキシマムが、両親の反対を無視してまで大学に入りたがる理由も実はそこにある。彼は自分の生まれに疑問を抱いていた。それは妹の存在と、ディステニィがいるからである。
「ここです」
マキシマムの思考を遮った声はレディーンのもので、通路から左に折れた場所に扉があった。それを押し開き先にすすむと、祭事に使う道具の保管庫がある。採光窓からこぼれ落ちる明かりで暗くはなかった。
粉々にされた道具達。
一つひとつに意味があるものでも、こうなってしまえばただの破片でしかない。
奥にまた扉があったが、レディーンにここだと言われるまでわからないように細工されていた。
見た目は壁そのものであるからだ。そしてそこには魔法で鍵がかけられていて、レディーンが封したものだと彼女の説明で二人は知った。
「わたくしがここに来た時に……この神殿に王家の者が入った時に、必ず自らでするのです。自分以外が使えぬようにと」
王女の言には批判めいた響きが込められていた。
扉が開く。そして、下へと続く階段がまた続いていた。それまで、黙って三人についてきていた大神が、三人を押しのけるように前に出ると先に進む。それまで漆黒の毛並であったが、闇の中で発光し、通路を照らし始めた。
レディーンが扉を再び閉じて、魔法で封をする。
「扉ごと破壊されたら意味はないですが……」
彼女はそう言いつつも、何もしないよりはいいという表情でラムダの横に並んだ。
階段を下った先は、立方体の空間があり、さらに奥に進む通路があったが、疲労困憊の三人はここで休息をとることにした。休めるという安堵で、一気に疲れが増したように彼らはへたりこむ。壁を背に並ぶように、三人は腰を落ち着かせ、水筒の水を飲み、空腹に苦笑し合う。
「マキシマム殿は……とても強いですね?」
レディーンの問い。
彼女は先ほど、異民族相手に奮闘した彼を見ている。そしてそれは、神殿で異民族と異形の者達相手に戦った僧兵達に比べても数段上の印象をもっていた。とても戦歴豊かに見えないマキシマムが、見事に敵を破ってみせたものだから、彼女はほっとできた今、会話がないのも気まずいと思ってという程度の気分で尋ねている。だが、それはラムダの関心を誘った。彼は士官学校の先輩として、マキシマムよりも年長であるし、戦闘も多く経験している。当然、先ほどのような戦闘時には、自分こそ頼りになると思っていたが、そうではなかった。
「お前、ベルベットどのに学問や魔法を習ったと言ってたが、それでか?」
「……そうですね。あと、ルナイス卿……師匠です。武術の」
「ああ……それで二人が揃ってお前の隊に……コネがあるのか?」
「僕に、というよりお二人にあるんでしょう。師匠はリュゼ公爵閣下の側近であった人だし、ベル先生はまぁ……いろんなところで有名ですから」
「へぇ? お前、おぼっちゃんなんだな?」
「……」
「気を悪くしたなら謝る」
「いや、そうじゃないです。答えようがないんです」
レディーンが興味を瞳に宿す。彼女は、ラムダが差し出した水筒で喉を潤すと、手の平に水を少し溜めて、大神に差し出す。魔獣は水を必要としないが、少女の気持ちに感謝するかのように鼻で鳴き、レディーンの差し出した水を舐めた。
「答えようがない? お前、ラベッシ村だったよな?」
「ええ……リュゼ公領の……父上は農場を経営してます。リュゼ公爵閣下の代官です」
「おぼっちゃんだな」
ラムダがわざと嫌味のある言葉を発したが、それはからかうつもりであった。だが、無言となってしまった後輩を見て、まずいと思って慌てた。
「すまん、嫌味を言った。悪かった」
「……ラムダ殿ってイイ人ですね?」
レディーンが言い、二人のグラミア人を笑わせる。
「ラムダでお願いします。貴女は王族でいらっしゃる」
「いえ、そういうのやめてください。わたくしは……そういうの本当はあまり好きではありません。ラムダ……マキシマムでいい? レディーンと呼んでください。この三人の秘密」
「こういう危機的状況で……親密感が増してるんですねぇ」
ラムダの冗談で、二人は笑った。そこで魔獣が「うるさいぞ、今の状況をわきまえろ」と言わんばかりに唸るから、三人は一斉に口をふさぐ。
「わたくし……お二人は年上だし、大人って感じがしましたが……でも、なんだか安心しました」
「……僕達は十分に大人ですよ、ねぇ先輩?」
「そうだ」
三人は笑い合い、また魔獣に唸られることになった。