ルヒティ
僕は船に乗っている。
波は高い。
何度も吐いた。
船員達には笑われた。
ようやく揺れにも慣れた頃、船は目的地に着いた。
フェルド諸島のひとつ、ロボス島の北東に位置する港町テッザ。
グラミア王国の保護国であるテッザ伯爵領の都にあたる都市だ。
ヴェルナ王国から本国へと帰された僕は、実家で復帰まで過ごした。
夏も終わろうとする頃になって、やって来た国軍士官が僕に命令書を手渡した。
それは、フェルド諸島赴任を命じるものだった。
北に比べて、南はいくぶんか落ち着いていると聞いたけど、そんなことはないと到着直後に知ることになる。
港は廃れ、街は荒んでいて、人々は貧しそうだとわかった。
でも、僕は自分に与えられた任務に励もうと思う。
そして、絶対に生きて軍役を終えると決めている。
エヴァと約束したんだ。
一緒に、大学に通おうって。
-Maximum in the Ragnarok-
グラミア王国暦一三六年、秋。
フェルド諸島はひとつの転機を向かえつつあった。
南方大陸の支援を受けるベアス伯爵領と、グラミア王国の保護下にあるテッザ伯爵領の間で結ばれていた五年間の休戦協定が終わろうとしていたのである。
テッザ伯爵ヴィルモールは、ベアス伯爵クルトネが死病で床にふせっていると聞き、休戦延長を申し出ていた。これはグラミアの意向が強く、またグラミアの同盟国であるアルメニアも支持していたことである。
ベアス伯爵家にとって、当主が大変な時にこの申し出はありがたいに違いないと誰もが思っていたのだが、なぜか、ベアス伯爵側が休戦延長に応じず、交渉の回数だけが増えるという状況が続いている。
両家の領境にあたるテラという都市に、双方の使者団が滞在していた。
マキシマム・ラベッシがテラに入ったのは、そのような時だったのである。
-Maximum in the Ragnarok-
「覚えた?」
「もう一度、お願いできる?」
マキシマムの返答に、同窓で士官のメロディが嘆く。
「早く覚えてよね!」
「ごめん……でも、メロディでよかったよ。他の人だとしつこく訊きづらいからさ」
「マキさぁ、覚えるってことに才能ないよね」
「……」
「もう一回、説明するよ」
メロディが黒板に白墨を走らせる。書いてあったものを消さないまま記すものだから、黒板に書かれた図や文字がぐちゃぐちゃになるが彼女はお構いなしだ。
マキシマムと同じ年齢のメロディは、キリヤ伯爵家のご令嬢なのだが両親の勧めに応じて士官学校に進んだ。奥二重の目は鋭いが、笑うと柔らかな印象を他者に与えるその差異で同窓の男達から人気は高い。その彼女は今、同学年の女子達から大人気だったマキシマムと同じ場所で働けるとあって、次に同窓生たちと再会した時は自慢してやろうと鼻が高く、それが講師役に熱を入れさせている。
マキシマムが教わっているのは、フェルド諸島に関して、であった。
昨年からの一年間、フェルド諸島で部隊を率いるメロディが、来たばかりのマキシマムに教えているのである。
「フェルド諸島は三つの大きな島から成り立っています」
「はい」
「東側のロボス島は人口が最も多くて経済も発展してる。真ん中のメテス島は昔、フェルド諸島を統一した王家の拠点があったというけど今は廃墟で、村々はあれど人はあまりいない。西側にはアルメニアが入植中のザマ島。で、このロボス島の北東、端っこにあるのがテッザ、南西にあるのが交渉相手のベアス伯爵領のベアス」
「うん」
マキシマムが広げているのは革表紙の本で、中は白紙である。新たな任務地に赴く際、その役目の凡そを聞いた彼の母親が持たせてくれたものだった。
教えられることを記した箇所を確認する彼の姿に、メロディは見惚れる。
やだ……かっこいい。
「かっこいい……」
頭の中の最後だけが声に出ていた。
「え?」
「あ! ううん! なんでもない! えっと……で、フェルド諸島のロボス島の情勢が落ち着かないのは、ひとつの島に三つの民族が住んでて、お互いに仲が悪いから」
「うん……大陸からの移民の子孫にあたるテッザ人系、南方大陸からの移民の子孫のベアス人系、もともと島で暮らしていた人達の子孫にあたるロボス人系……だよね?」
「そ! テッザ人系の国がテッザ伯爵領、ベアス人系の国がベアス伯爵領、ロボス人系の国は今はなくて、このテラに多く住んでる。昔はロボスという名前の町だったみたいだけど、十年前にテラ……南方大陸のオルセリア皇国で信仰の対象とされる三女神の一人の名前がつけられた……ということは、つまりその頃はベアス伯爵領だったの」
「で、グラミアが介入し、アルメニアも参加したことで、東部中間地帯は緩衝地帯のようになって、お互いの勢力の境……というよりはロボス人の勢力が強くなったんだね?」
「そう」
「でもさ、それが休戦交渉に関係するかい?」
「ベアス伯爵は病で伏せっていること教えたよね?」
「うん」
「ベアス伯爵の現当主クルトネには二人の妻がいて、一人はオルセリア人、もう一人はロボス人なのよ」
「ロボス系の子供が伯爵位を相続したら、ロボス系にとって大成功ってことなんだね?」
メロディはうなずき、黒板の一か所を白墨でぐるぐると囲んだ。
そこには、ベアス伯爵クロトネの長男ラキアと、長女ピレネーが記されていて、彼女によって白い色で囲まれたのはピレネーだった。
「今、彼女が優勢。だって、ラキアはまだ五歳、ピレネーは二〇歳」
「……嫌なこと、考えてしまった」
「なに?」
「クロトネが病って……ロボス系の人が関係しているんじゃないか?」
「それは、オルビアン総督閣下の読みと同じで、これから説明しようと思ってたんだけど」
「ごめん。続けて……」
「総督閣下……ムトゥ閣下が仰るには――」
フェルド諸島に派遣されているグラミア王国軍は、オルビアン総督指揮下になる。つまり、オルビアン総督であるロッシ公爵ムトゥが指揮権をもっており、オルビアンにいる彼の代理たる連隊長ジャキリがフェルド諸島での全権を握っている。
国軍が諸侯の指揮下に入るのかという疑問はあるが、フェルド諸島に派遣されているグラミア軍の主力はロッシ公爵軍で、国軍は交渉役の官僚を警護する目的が強い。
マキシマムは、その警護にあたる一個小隊の隊長として、この島にやって来ている。
「――、ロボス系の暗躍でクロトネが病に伏せ、相続問題が発生しつつある今と、休戦期限が重なることが疑惑を生じさせている……と。で、これは疑惑ではないだろうと。ロボス系は、武力で勝てない相手……ベアス伯爵家に血を入れて、有利な今、権力を握ろうとしている。その先には、テッザ伯爵を倒すというものもあるだろうね」
喋り終えたメロディは、喉がかわいたと水差しに手を伸ばした。
マキシマムが気付き、水差しを取ると杯に注ぎ彼女に手渡す。
二人の指が触れ合った時、メロディだけが赤面した。
連隊が滞在する間の拠点として借り上げたテラの宿の一室、士官達が談笑や相談に使う目的の部屋は過去、客室であったから寝台が隅に置かれている。
メロディがちらりとそれを見たが、マキシマムは本を睨んで腕を組んだ。
動かない、誘わない彼に、彼女は思い出した。
たしかに彼は、こういう人だと。
士官学校で、マキシマムは女子達からとても人気があった。数少ない女子の人気を、彼が独り占めするものだから、それはもう男達の嫉妬はすさまじいものがあり、おかげでマキシマムは、士官学校で男友達に恵まれていない。
では、女の子達を仲良くしたかというと、そうでもない。
マキシマムは、どちらかというと一人で過ごしたがっていた。
そして、女子達からそれとなく誘われても、全く気付いていなかったのか、そのフリなのかはともかく、全てを無視していたのである。
メロディは、考え込むマキシマムに見惚れる。
黒に銀の色が混じり合った髪は、説明しがたい妖しさと艶がある。そして二重の大きな目と上品な鼻筋、形の良い唇、全ては完璧な均衡で成り立つ美形がそこにあった。また、信じられないほどに美しい緑玉の瞳が、メロディの胸を締めつける。
素敵……かっこよすぎる……顎髭、似合ってないからやめたほうがいいけど。
「顎鬚、やめたほうがいいけど」
思考の終わりが声に出ていた。
「え? 似合ってない?」
「あ! うん! いや、ううん……でも、うん……」
「……髭、駄目かぁ」
「どうして、顎の髭、剃らないの?」
「……最初、士官学校出てすぐに偵察で一緒にいた先輩に、お嬢ちゃんて呼ばれてたのが嫌だったからさ」
「……剃ったほうがいいよ。そのほうが絶対にかっこいい!」
「そうかな?」
「絶対にそう! 剃ってあげようか?」
「うーん……遠慮しておくよ。ありがとう」
マキシマムは、ラベッシ村に帰った際に、髭の件をエヴァに訊き、彼女もやめたほうがいいというなら剃ろうと決めた。
-Maximum in the Ragnarok-
グラミア王国の王都キアフ郊外の、小高い山は罪人の墓場と呼ばれている。それは、その山の中腹に掘られた巨大な穴に、罪人の死体を投げ捨てるからだった。
グラミア王国の王は、一人でその場を訪れた。
誘う相手は、リュゼとヴェルナに行ってしまって彼女の近くにはいないせいだ。
イシュリーンは年を重ねたことで、太りやすくなった身体の愚痴を、この場所で眠っているはずの大切な人にこぼす。
「――だからね、チーズケーキを我慢しているの。皆は気にすることはないっていうけど……油断したらすぐお腹にくっつくの」
外見こそ若々しい彼女であるが、自分の身体は自分が一番わかっていると嘆いた。そして、子供を産んだことでの変化も、体系維持の苦労に繋がっていると苦笑する。
イシュリーンは、だが我が子を前に、母親だと名乗ったりしていない。
彼の母親は、アブリルだと自分に言って聞かせている。
彼女はそれが辛く感じて、話題を変えた。
「じじ様、来年ね……王宮をベオルードに移すの。そうしたら、わたしやナルが使っていた小屋を壊して、そこにじじ様のお墓を作るからね……名前は刻めないけど、でも、わたしやナルは忘れないから……わたし達の子供にも、ちゃんと伝えるからね」
イシュリーンは、一人で語り続ける。
「会わせたかった……じじ様も、わたしの子供、見たかったよね? 元気な時に、見せてあげられなくてごめんね……でも、じじ様のおかげだよ。じじ様がわたしを守ってくれて、優しく厳しく育ててくれたから、わたしは大切な人と出会えて、大切な子供を授かれて……ありがとう」
「あ……ツイカだけじゃないの。今日もね、ルヒティもってきたの」
イシュリーンは、十年物のブランデーを罪人の墓場である穴へと注ぐ。
風はない。
秋空といってもまだ碧く、雲は軽やかだ。
木々は緑を濃く残している。
彼女は少し微笑んだ。
「今年のもおいしい? よかった。今年からは、オデッサの葡萄酒を保存する樽と、ルマニアのツイカを運ぶ樽を合わせたものをね、このブランデーを熟成させる樽に使っているの」
「じじ様、あと二、三年で、アルメニアから王子を招くことができるから……そうしたら、わたしは王じゃなくなって、じじ様の近くにいようと思ってるの……キアフの王宮を離宮にして、そこでじじ様のお墓を守るね」
イシュリーンは、誰にも話したことがない彼女の気持ちを口にした。
だがそれは、ずっと前から決めていたことだ。
彼女が王になる前から。
イシュリーンは、過去を脳裏に描く。
彼女は馬車の窓にしがみついていた。車内から、外を懸命に見ていた。
窓の外には、自分を見送る祖父と慕う人がいた。
彼の声が、聞こえた。
『イシュリーン、一人じゃないぞ』
幼い彼女は、感謝と寂しさで声にならない泣き声をあげ、それでも彼を見続ける。
そして、その時に彼女は決めた。
いつか、この人のもとに帰る。
この人と一緒に、暮らす。
その為に、つらいことも我慢する。
嫌なことも、耐えられる。
「嫌なことも、耐えられた……」
イシュリーンは、記憶を封じて囁いていた。




