人質交換
聖紅騎士団からは、レーヴ・ラキティッチが人質として、オルビアン軍の部隊群先頭を務めるホウビ隊に入った。
ほぼ同時刻、スーザ人たちに囲まれたガレスは、大勢の敵国人から向けられる殺意の中で、ぎこちない笑みを浮かべるのが精一杯だった。
彼は、自分がいつの間にか漏らしてないだろうかと心配して股間をまさぐり、それがかえって、スーザ人たちの敵愾心をあおった。
「貴様!」
スーザ語で怒鳴られたガレスは、漏らしていないことに安堵するよりも早くに緊張を強いられる。
スーザ人たちが怒ったのは、ただグラミア人めという怒りもあるが、それよりもさらに強かったのは、彼らの総長が女性だからで、その彼女を、ガレスがその行為で辱めたと受け取ったからである。したほうにはそんな意図はなかったが、ガレスの立場はより悪いものになってしまった。
怒鳴るスーザ兵は一人、二人ではなくなるが、騎士の身なりをした女性の登場で場が静まる。
ガレスはそこで、名乗られていなくとも彼女が悪の親玉だと理解した。まだ遠目であるが、彼はオルタビウスの手紙で、指揮官はシュケル・クラニツァールの娘であると知っており、騎士身分の女性というだけで、間違いないだろうと思えたのだ。
「蛆虫、膝をつけ」
ガレスはスーザ人たちに、グラミア語で指示されると同時に両膝を大地につく。その胸中にはスーザ人たちへの嘲り言葉をいくつも浮かび上がらせているも、口は意識して閉じていた。しかし、兵たちに道を譲られる若い女性の姿が彼にも露わとなった時、「小娘かよ」と小声で吐き出してしまったが、運よく、誰にも聞こえていない。
「よい! 立たせよ!」
ガレスは、彼女の声で立ち上がると、その斜め後ろに続く威風堂々とした美丈夫に視線を転じる。
(ああ……あの馬鹿強い奴だな)
悪の親玉とその護衛、と勝手に決めたガレスは、正面に立つ小娘が、彼の間合いギリギリで止まったと感じたから緊張を増した。
彼は、勝手に彼女はたいして強くないと決めていた自分を反省したところで、自分もこれをわかるようになるほど戦いの中にいるのかという場違いな感動を覚える。
「名は?」
女性の問いに、ガレスは改めて片膝をつき、一礼をする。そして顔をあげないまま名乗ることで、彼女への敬意を示してみせた。
「ガレス……と申します。家名はございませんが、育った村はベイル村です。グラミア王国オルビアン軍団の戦闘部隊群指揮官が職務です。階級は少佐です、閣下」
ガレスのつたないスーザ語を、笑う兵たちの中でジュリアンだけは真面目な顔である。
彼女は、グラミア語ではなくスーザ語で名乗った相手を、蛆虫ではなく、グラミア人と呼んだ。
「ようこそ、グラミア人のガレス……歓迎はしてやらぬが、お前の態度は立派であることは認めよう。お前たち、笑うな」
ジュリアンはグラミア語でガレスに話しかけ、部下たちにはスーザ語で命じた。
彼女は言を続ける。
「お前のスーザ語よりも、わたしのグラミア語のほうが上手いと思うが、どうだ?」
問われたガレスは、顔を伏したまま答える。
「仰るとおりです」
「では、グラミア語で話そう。ガレス、お前たちの王太子は、約束を守る者か?」
「……我が王太子は、恐れながらマキシマム殿下であられます。マキシマム殿下であれば、必ず約束を守りますが、残念ながら、アルメニアから来たよくわからない者のことはお答えいたしかねます」
「大公と呼ばれる、イシュリーンの子こそ、お前たちの本当の王太子であると? アルメニアから来た者はそうではないと? これをわたしに聞かせるお前を、わたしは愚かとは思えぬ。考えがあってのことであろうが、つまらない策謀にはつきあわぬぞ? どうしたい?」
ガレスは、オルタビウスの頭脳にこそ驚嘆していた。
老人は、シュケルの娘はマキシマムとアレクシを、グラミア人たちはどう思っているかを聞けば、必ず興味を示すと書いていた。そして、それを利用する術を、ガレスに示していたのである。
ガレスは、会ったこともない相手を離れたところから操ろうという老人の顔を脳裏に描き、あの爺さんが敵でなくてよかったという感想を抱きながら、ジュリアンの問いにわざとらしく咳払いを返す。
それに応じたジュリアンが、兵たちに命じる。
「撤収準備をせよ。この者はわたしを害さぬ。お前たちを怖れているからだ。安心して作業をしてよい。万が一のときは、叫ぶから助けに来いよ」
彼女は、兵たちへの指示を冗談でしめくくった。
ガレスは、背を見せた彼女に続く美丈夫に立たされる。
「歩こう」
男の声で、ガレスは女性騎士に続く。
彼女は、作戦卓の近くに置かれた床几に腰掛け、近くの床几をガレスに示した。
しかし彼は、彼女から少し離れて――彼女の間合いに入らない距離で、片膝をつくことを選ぶ。
ここで、背後から、美丈夫に声をかけられた。
「床几に座らないで正解だ。俺に斬られていたぞ」
「カール、よしなさい」
ガレスが苦笑したところで、ジュリアンが表情を柔らかなものにして口を開く。
「ジュリアン・クラニツァール。彼はカール・シュタイナー……ガレス殿、お前の安全は約束する。我が父に誓おう」
「ありがとうございます……しかし、閣下であれば必ずそうなさるものと信じておりました」
「グラミア人に閣下と呼ばれるのは不思議な感覚だ……で、お前たちグラミア人は、やはり大公に王位を継がせたいのか?」
「……仰るとおりですが、少し違います」
「どう違う?」
「大公殿下がお継ぎになるべきもの、です」
「それをわたしの前で言う……意図はなんだ?」
「実は……某は、大公殿下ではなく、オルビアンのオルタビウス卿からの伝言を預かっております」
「オルタビウス……彼が過去、対グラミアの指揮官であれば歴史は変わっていたのに……惜しい。オルタビウス卿の伝言とは?」
「出来が悪うございますので、彼の手紙を広げてもよろしいでしょうか?」
笑みで許可したジュリアンに、一礼したガレスが懐に手をつっこむ。それをゆっくりと引きだした彼は、オルタビウスからの手紙を二人の見える場所で晒した。
「読んでよろしいでしょうか?」
ガレスの問いに、ジュリアンが頷きを返す。
オルタビウスが、ガレスを通じてジュリアンに伝えようと企んだ内容は、彼女を通じて帝国に聞かせたいと考えたものである。それは、オルタビウスというより、外部の者が帝国上層部に伝えても、彼らは聞く耳を持たれないが、内部から出てきた案という形にすれば、伝わり、理解されるであろうと思えたものだ。
それは帝国が、アルメニアに、アルメニアの王族がグラミアの王位を継がないと約束させる、というものだ。
しかし、それをそう言ったところで帝国が「はい」と言うわけがない。
帝国がそれをすることで得る利益を、老人は手紙に記していて、それを、ガレスは二人に読み聞かせる。
「帝国にとっての利は、大陸西方の連合に違和感なく組みすることで、周辺国との関係を転換する機会を得ることである。教皇支配から、聖女を経て皇帝を頂点とする運営へと変革中の帝国だからこそ、それが可能である。周辺国も関係を改めようと考えることができるからだ。今のまま、周辺国と争いばかりでは、結局は神の威を借りて内部統制するしか手がないし、その先に未来がないことくらい上層部は理解しているだろう。幸い、という言葉が正しいかは不明なれど、東から悪の権化とも言える異民族と化け物たちが侵略を仕掛けてきている。今はグラミア一国がその被害にあっているが、グラミアが敗れれば、西へとその暴力は手を伸ばすに違いない」
ガレスはそこで、カールから差し出された杯を受け取り、水を飲んだ。
「失礼……ここで、異民族と化け物たち、魔軍はまさに神の敵とするにふさわしい暴力性、凶悪性、語彙がないゆえ表しきれないが、恐ろしくも醜く危険な者たちであるから、民意を得ることに苦労はない。神が、魔軍を討てと命じるのは容易いことであるとわかる。よって、帝国が魔軍と戦おうとする大陸西方の連合に加わることは、神の意に反するものではないだろう。これをもって、帝国は大陸西方での国家としての立ち位置を、過去のものから一変する機会を得るに至る。南部都市国家連合、アルメニア、トラスベリアの物資が帝国を通過しグラミアに渡る過程で、経済も好転するであろう」
ガレスはそこで、ジュリアンの表情をうかがう。
彼女は、考えているというように顎に手をあててじっと彼を見つめ返してきた。
「ただし、帝国の東西がアルメニアに挟まれた状態で、魔軍が消えるのは帝国にとって大変な問題である。魔軍を殲滅させた後、アルメニアと、アルメニアにべったりのグラミアに挟まれては流通、貿易もアルメニアの顔色をうかがうしかない。そこで、大陸西方の連合に加わる条件として、アルメニアに、アルメニアの王族がグラミア王位を継ぐという取決めを白紙にせよと出すのだ。アルメニア国内の細工は、アルメニア人にさせるのでそこまでをお願いしたい……以上です、閣下」
読み終えたガレスを、ジュリアンはしばらく見つめた。
彼は視線を地面に落とし、彼女の言を待つことに徹する。
百を数える間を経て、ジュリアンは口を開いた。
「それをわたしが、そのまま上層部に伝えるとお前は思うか?」
「いえ、ただ……オルタビウス卿は、そうしてくれれば謝礼は用意すると仰せです」
「謝礼?」
「リュゼ公爵ナルを、閣下の前に差し出すと仰せです」
ガレスの言に、ジュリアンは床几を倒すほどの勢いで立ち上がると叫んだ。
「待て!」
カールが、抜剣してまさに斬撃をガレスに見舞う直前で動きを止める。
「カール、わたしは父上に誓った。よせ」
「戯言をほざく罰を与えます」
カールの怒りに、ガレスは震える声で答える。
「お許しを……しかし、オルタビウス卿はそう仰せです。オルタビウス卿だからこそ、閣下とこの密約を結ぶことができるでしょう。証人は、私とカール卿……で如何でしょう?」
「大公は知らぬことか?」
ジュリアンの問いに、ガレスは一礼した。
「はい。殿下はこのようなことを好みませぬ。しかし、それがかえって物事の進みを遅くするとオルタビウス卿は存知です。今は正々堂々やっている時代ではないという認識です」
「わたしが、上層部に伝えたとお前たちはどう判断するのだ?」
のった。
ガレスはようやく安堵できたが、一方で悲しみと寂しさで表情を暗いものとする。彼はこれで、マキシマムの友人ではいられなくなったと理解しているから。
「帝国が、大陸西方の連合に参加し、その物資の中継としての役目を負ってくだされば、オルタビウス卿は閣下の誠実さに感謝し、必ず約束を守るでしょう」
「……」
ガレスは、オルタビウスの手紙に書かれていないことを迷うジュリアンにぶつける。
「お急ぎください。オルタビウス卿は高齢……しかもペルシアで大怪我を負いました。回復したといっても、以前と同じではございません。何年も待てないかもしれません」
「……ナルを、オルタビウス卿は本当に、わたしの前に連れて来ることができるのか? 彼は公爵だぞ?」
「公爵だからこそ、会合、宴など、そういう場所に出る必要がございますれば、オルタビウス卿がよきに計らいます、間違いなく」
「オルタビウス卿は、公爵を操ることができると?」
「彼は王陛下の信厚い人物……また、大公殿下も大変な信頼を寄せている方……成せます」
ガレスはそこで、首を差し出すように頭をたれる。
斬られるかという不安のなかで、彼の耳にジュリアンの声が届いた。
「承知した」