老人の念
帝国領ミュンヘル。
南方諸国のひとつ、ルキフォールでスーザ人とグラミア人が激戦を繰り広げているとは、一部の者しか知らないことであるから、民たちは平穏に、日々の暮らしを繰り返すのみだ。
帝国領最大の港湾都市で、東、南、西のいずれへも海路で行くことができ、北には陸路で繋がる大都市の沖合に、その船は停泊していた。
南方大陸から荷を運んできたにしては小さいが、速度と小回りに優れた船である。
国籍は、トラスベリア王国で、グレイグ公爵旗があわせて掲げられていたので、その船を気にして見たとしても、北海から内海まで貿易で来たのだなと理解するに違いなかった。
しかし、その船に乗っていたのは、オルビアンから乗り込んだグラミア人と宋人、ペルシア人だけで、トラスベリア人はいない。
片脚と片腕が不自由な老人は、供の助けを借りなければ動くのが大変であるほどであったが、頭と口のほうはしっかりしていた。
「まだつかんのか? スーザ人は時間にいい加減だな。各国から嫌われる原因がこれだ」
オルタビウス・アビスである。
彼は、王直属の相談役という職務を得て、この敵国の都市に乗り込んできていた。目的は、アレクシ王子旗下のマキシマム大公が、ルキフォールでスーザ人相手に戦闘をおこなっているので、これを止めるためである。その交渉に、王命を受けてやって来た彼は、時間となっても現れない相手のことを悪く言うものだから、供であり秘書フィリポスにしかめっ面を作らせた。
「先生、部屋の外にはスーザ人がいるんです、聞こえていたら問題になります」
「儂もお前も、アルメニア語で話しとる。聞こえてもわかりゃせんだろう」
「とにかく、今回は争うことが目的じゃないんですよ?」
「儂もすっかりグラミアに染まったわ……スーザ人を、スーザ人というだけで嫌うんだからな」
「やめてくださいよ、もう……」
「嘆いておるんだよ、儂は……王政なんぞに降って、こき使われていても悪い気がしなくなってしまった自分に」
「……陛下と再会なされた時、感激で泣いたくせに」
オルタビウスは、秘書を怒鳴りつけようとしたが、ドアが叩かれて咳払いをした。
「入室、よろしいか?」
部屋の外から、アルメニア語で話しかけてきたスーザ人に、オルタビウスもフィリポスもげんなりとする。
「交渉がまとまらなかったら、先生のせいだと報告します」
「やめてくれ……」
小声で交わされた会話の後、オルタビウスがスーザ語で応えた。
「もちろん、問題ない」
ドアを開いた帝国軍の士官と思われる男は、二人を一瞥するとひと睨みし、その人物のために道を譲る。
現れたのは、騎士の正装に身をまとった初老の男と、同じく騎士身分と思われるが司祭の法衣に身をつつんだ青年だった。
「ミュンヘルにようこそ、シュテファン・キースリングと申す。聖炎騎士団総長を務めています」
「歓迎いたしませんが、仕方ありません。外交次官のフレドリク・ザークツィー、司祭です」
初老の男は騎士で総長、青年は官僚かつ聖職者であった。
「おたがいに、若者たちに振り回されて大変ですな? オルビアンのオルタビウス・アビス、これは秘書のフィリポス」
長方形の卓を挟んで対面した彼らは、ほぼ同時に腰掛けるが、フィリポスだけは立った。
シュテファンが口を開く。
「残念ながら、貴国とは現在、停戦中のはずで戦闘はしてはならない約束だが、ルキフォールの件はどういうことでしょうか?」
「それは、こちらがうかがいたいことです。王太子殿下と大公殿下は、まさかルキフォールで戦う相手がスーザ人とは思いもよらなかったに違いありませんでしてね……戦ってしまった現在、どちらも退かずでダラダラと殺し合いが続いております。そろそろ、引き上げませんか?」
隠すことなく、ややこしい腹の探り合いも避けたオルタビウスに、外交次官の司祭が苦笑を返して口を開く。
「お互いに、追撃をしないという約束を守る。信用できない者どうし……担保をとりあいませんか?」
「人質……?」
オルタビウスの言葉に、フレドリクはシュテファンを見た。
聖炎騎士団総長は、素早く思考をして口を開く。
「お互いに、副官級を一人ずつ……双方が完全に見えなくなってから解放……いかがか?」
「問題ない」
オルタビウスは、マキシマムがまたあれこれと文句を言うだろうなと想像し、ガレスに知らせた後に、彼からうるさい大公を説得させる図を描いた。当然、そこには人質はガレスだというオルタビウスの計算があり、こういう役を任せられる部下をもつ大公は、やはり王になるべきだという気持ちを強くする。
詳細を話し合うフィリポスとフレドリクの会話を聞きながら、オルタビウスは自らの案を実現するために、この状況は利用できるのではないかと思案した。
手を汚すのは、老い先短い自分が良いとも思えた、からかもしれない。
「双方撤退は、三日後の正午、よろしいか?」
シュテファンの問いに、思考を切り替えたオルタビウスが頷きながら口を開く。ここで、老人がよそ事を考えていると知りながら、その邪魔をすまいと交渉を引き受けていたフィリポスが、問いに答えようと開きかけていた口を閉じた。
「現地、ルキフォールの時刻で正午、と付け加えたい。現地の若者たちは、戦いたいのだ……あれこれと理由をつけて殺し合いをしたがる」
「承知した、オルタビウス卿」
シュテファンに名を口にされたオルタビウスは、口端を歪め笑うと「やめてくれ」と答える。
「儂は騎士でもなんでもない。貴公にそう呼ばれるとこそばゆいのでね……議員でもない」
「オルタビウス殿、貴殿を得たイシュリーンがうらやましいと、我が主が申しておりましたよ……ペルシアの件、お見事でした」
「お恥ずかしいかぎりで……老人はあつかましく図々しいもんで……あのようになんでも首をつっこんで口を出したがるのですよ」
オルタビウスはここで、はたと無事な手で、無事な脚の膝を叩いた。
「せっかくの機会です。貴国は、アグメメフィティをどう見ておられるか?」
シュテファンは、フレドリクを見た。
外交次官は咳払いをして、「これは個人の考えですが」と前置きをした後に答える。
「グラミアを襲ってくれる良い者たち……というのは如何か?」
「なるほど……では、我々が敗れた後、貴国へとその牙が向かうことを想像しておられんか?」
シュテファンとフレドリクは視線をかわす。そのやり取りを見て、オルタビウスは思うところがあり、返答を待たずに口を開く。
「貴国でも、意見が割れておられるのかな?」
「まぁ……」
シュテファンは、目の前の老人になら話してもよいかと思っていた。というのも、彼は過去にリュゼを攻めて、グラミアと戦い敗れている。その彼であるから、同じくグラミアに敗れた後に、グラミアに仕えた――オルタビウスは仕えるという表現を否定するに違いないが――オルタビウスが、オルビアンの執政官だった時以上に名声を高め、あのペルシアで、ペルシア王家を救い外敵を駆逐する難事業を短期間で成功させた実績を高く、そうとうに高く評価していたからだ。まったくの個人の感想、評価であるが、それを基に独断を許されるほどの信頼を、シュテファンはローターから得ていた。
「……我々、軍としてはいざとなれば防衛をどうするかということは常に考えていて、いくつも計画を用意してあるが……いかんせん、今はグラミアが被害に遭っているだけだ。聖女様をはじめ、猊下の奥方も貴国のナルにはそうとうな恨みがあるゆえな……しかし、これは重要な要素だ。人の心は、そう簡単に変わるものでも、癒されるものでもない。ゆえに、今はいざとなったら防衛はどうするか、というものを超える予定はない」
「猊下の奥方?」
オルタビウスは、ローターの妻がどうしてリュゼ公爵に恨みを抱いているのかと不思議だった。
フレデリクが、忌々しいという表情で答える。
「シュケル・クラニツァール卿は当然、知っておるでしょうね?」
「もちろん」
「彼には、三人のご息女がおられた……長女はローター猊下の奥方です……今、問題となっているルキフォールで、貴国の王太子軍と戦っているのが三女のジュリアン様だ」
オルタビウスは、そういうことかと理解できた。
彼は、どうしてルキフォールで、そこまで戦いにこだわっているのかと不思議だったが、情勢や地勢以上に、復讐心をもつ者たちに、過激は反応をした真っ直ぐなマキシマムという推理をした。そしてそれは、ほぼ正解である。
だが、これで逆に、オルタビウスは自らの計画はうまくいくだろうと満足した。
「よくわかりました。シュケル卿とは……残念ながらお会いしたことはないが、彼が存命であれば、きっと今、オルビアンと帝国で、グラミアを攻めておったでしょうな」
オルタビウスの危険な冗談に、笑ったのはシュテファンだけであった。
-Maximum in the Ragnarok-
「先生、あのようなことを仰って……奴らがそれを利用しようとは考えないんですか?」
船に戻ったところで、ここでなら安心だとするフィリポスの諌めに、オルタビウスは笑みを返す。
「あれを笑えんでどうする? もしあの時、など世の中にはないんだ」
「オルタビウス・アビス、グラミアに叛意あり! て、オルビアンで流されますよ」
「グラミアがくだらん国に堕ちたら、いつでもやってやるつもりだ、儂は……フィリポス、真面目な話をする。そうグチグチ言うな」
オルタビウスは、秘書を船室に招きながらそう言いつつ、船員たちには「出港」とだけ声を発する。
ガラガラと碇が巻き上げられる音と同時に、するすると帆がはられ、次に漕ぎ手たちの掛け声が船底から聞こえ始めた。
船室の扉を閉じたオルタビウスは、フィリポスに言う。
「儂の最後の大仕事、手伝うか?」
「は? 最後、最後と、いつも最後と言うじゃないですか?」
「……」
反論できないオルタビウスに、フィリポスは満足して頷く。
「なんでしょう? もちろん、お手伝いします」
「マキシマムを、王にする」
「……王太子がいます」
「お前、あの王太子で、務まると思うか?」
「思いません」
オルタビウスは、さすが儂の秘書だと笑った。しかし、フィリポスの感想は、言ってしまえばグラミア国内においてそう珍しいものではなく、そうであるから、秘書は笑うオルタビウスを見て、今さらわかりきったことを、という表情となり、言を続ける。
「今回のルキフォールの件、結局、アレクシ殿下に箔をつけるのが大きな理由でしょう?」
「そう……なるな」
「それもあるから、マキ……シマム殿下は、退くに退けないということもあるのではないです?」
「それも……あるな」
「しかし、どうやってやるんです? 今さら、王太子はなし、なんてできませんよ。アルメニアのメンツを丸潰しです」
オルタビウスは、「方法は言えん」とだけ答えることで、フィリポスの表情を無とさせた。それは秘書の彼に、十分すぎる答えだからだ。
「先生……そういう悪い顔、似合いません」
「マキシマムも、同じことを言うだろうが、儂はもう軍を率いることもできんし、重要な決定をくだす強い気持ち、気概を失ったからな……彼の役に立つには、これくらいしかない」
「……事の後、彼が知ったら、悲しみますよ?」
「いいんだ。それで、いい。感謝しないところが、あいつらしいからな」
オルタビウスはそこで、紙と筆を手にして、フィリポスに退室を命じた。
その手紙の内容を、お前は知るなという意味であると、秘書は理解する。
船が、大きく揺れた。
「出発……です」
フィリポスの言葉に、片手で机にしがみついていたオルタビウスが苦笑する。
「すまん、紙と筆を拾ってから出ていけ」
秘書は笑みを返して応じると、揺れが小さくなってようやく、室を辞した。