最終話
最終話
「何?ひょっとして戻ってきたの?」
見慣れた笑顔でそう話し掛けてくる知子。
茶色く染めた髪から漂う甘い匂い。
しっかりと施された化粧。
着ている服はどれもセンスがよく、似合っていて。
久しぶりに見た知子は、相変わらず美しかった。
モデルか何かをやっていたとしても、なんら不思議ではないくらいに。
しかし、と俺は疑問を持った。
彼女の美しさはこんなものだったのだろうか、と。
彼女にフラれたから、という理由で、こんなことを思っているわけではない。
確かに彼女のことは憎かったが、それも今では過去のことだ。
そんな歪んだレンズで彼女のことを見てはいない。
それにも関わらず、彼女と付き合っていた頃に比べて、彼女のことをそこまで美しいとは思えない自分がいた。
舞歌や真希と比べても見劣りはしないのに、なぜ彼女達程魅力を感じないのだろうか?
何が違うのだろうか?
そう思い彼女のことを観察していると、俺のその行動を、沈黙を誤解したのだろうか、政樹が知子へと言う。
「松島!お前何馴れ馴れしく紡に話し掛けてるんだよ!?」
「は?あんた誰?あんたこそ、何馴れ馴れしく私に話し掛けてるの?」
俺へと向けていた親しげな視線を一変させ、冷めた、見下すような視線を政樹に向ける知子。
その視線を見て、なぜ彼女のことを以前よりも美しいと思えなくなったのか、その理由を俺は理解した。
くすんでいるんだ。彼女の瞳は。
知らなかった頃なら、なんとも思わなかっただろう。
以前と同じく、知子のことを美しいと思ったはずだ。
しかし、知った今は。
真希の強く優しい瞳を。
静歌さんの温かく穏やかな瞳を。
そして、舞歌の深い色で輝く意志の強い瞳を。
そんな、綺麗で、温かく、優しい瞳を知った今だから、俺は彼女のことを美しいとは思えなかったんだ。
それを理解した時、混乱しかけていた頭は落ち着きを取り戻し、彼女に対して感じていた不安は、消えた。
以前は感じられなかったそれを、はっきりと感じられるようになった俺。
もう大丈夫。もう繰り返すことはない。そう、思えたから。
「お前……!紡に何をしたか……」
「政樹。ありがとう。大丈夫だから」
「紡……」
俺を庇ってくれた政樹の言葉を、遮り、彼に笑顔を向ける。
俺のそんな態度に何かを感じたのか、政樹は口を閉じる。納得はいっていないみたいだけど。
そんな政樹の優しさに、俺は微笑みを浮かべながら、今度こそ知子へと話しかける。
「久しぶりだね。知子。元気だった?」
「え?ええ……」
「そう。よかった」
「……?」
俺の言葉に、態度に、変化を感じたのか知子は訝しそうな視線を、遠慮なく俺へと向ける。
しかし、すぐに興味を失ったのか、彼女はまたあの、男を誘惑するような妖艶な笑みを浮かべ、言う。
「ねえ。紡。それよりどうしたの?なんでこっちにいるの?」
「ちょっとな。いろいろあって」
「ふーん……」
俺の言葉の、『いろいろ』という部分をどういう風に解釈したのか、彼女はちらり、と俺の後ろにいる舞歌達を見る。
しかし、すぐに興味なさそうに視線を俺へと戻した。
「ねえ、このあと少し付き合わない?調度私暇なのよ」
そう言い、俺の手を取ろうと俺へ歩み寄る知子。
しかし俺は、彼女の手が俺に触れる前に体を半歩引き、彼女から距離を取った。
「紡……?」
何が起きたかわからない、そんな様子で戸惑う知子の目を見つめながら、俺は言った。
「悪いけど予定があるんだ。だから付き合うことは出来ない」
はっきりと断った俺の言葉に、知子は唖然とした表情。
それもそうだろう。彼女と一緒にいた時の俺は、彼女のお願いを断れなかった。
不満を言うことはあっても、結局最後は彼女の言うことに従っていた。
そんな俺が、彼女からのお願いをはっきりと断ったんだ。何も知らない彼女からすれば、驚愕以外のなんでもないだろう。
崩れかかった余裕の笑顔をなんとか保ち、彼女はぎこちない動きで口を開く。
「何……?もしかして、あの時のこと怒ってるの?だったら聞いて!私実はあのあとすごく後悔を……」
「そうじゃないよ」
彼女の言葉を遮り、俺は首を横へ振る。
そして、彼女の瞳を見つめながら言う。
「俺はもう、あの時の怒ってもいないし、恨んでもいない」
「じゃあ……」
「それと同じように、もう知子に、なんの感情も持っていない」
「――っ!?」
きっと、今まで知子は、俺にしたように何人もの男を利用して生きてきた。
だから利用することになんの罪悪感もないし、利用するためなら平気で自分の体を差し出した。
そんなことをしていれば、いつか痛い目にあう。取り返しのつかないことが起こる。
そうなってはほしくないから。
彼女としたのは、確かに恋愛“ごっこ”だったのだろうけど、それでも確かに“好き”という感情はあったから。
だから俺は、彼女に出来る最後のこととして、教えるつもりだった。
男は、他人は、道具なんかじゃないんだ、って。
「それに、俺には今、大切な人が、一緒に生きたいと心から思える人がいる。俺はこいつのことを大切にしたい。不安にさせたくない。だから、知子に付き合うことは、もう出来ない」
手を引き、俺の隣に引き寄せた舞歌に笑顔を向け、そして、再び真剣な眼差しを知子へと向けながら言った言葉。
戸惑う知子だったが、俺の言葉の意味を、そして俺がそれを本気で言っていることを理解した途端、彼女は、ぎりっ、と音がなるくらい強く歯を噛み締め、鋭い眼差しを俺へと向けた。
……以前の俺なら、その眼差しを、明確な怒気を向けられて、怯んでいただろう。
けど今は、違う。
彼女のその眼差しを、怒りを、目を逸らすことなく受け止める。
怖い、とか不安とかいう感情は一切なく、美人が怒ると怖い、っていうのは本当だったんだな、などと考えられる余裕さえあった。
「……」
俺に効果がないことを悟った知子は、その目標を、舞歌へと移す。
普通の女の子なら、そこら辺にいる普通の女の子だったなら、知子の怒りの眼差しを向けられて、驚き、萎縮していただろう。もしくは、気の強いタイプだったなら睨み返す、といったところか。
だが、知子がその眼差しを向けたのは、遠野舞歌だった。
様々な経験をした彼女に、そんな身勝手な怒りが通じる訳もなく。
「……っ!」
怯えることも、怒ることもせず、深い色の瞳で知子の目を見つめていた舞歌。
ただそれだけなのに、知子はそれ以上舞歌の瞳を見ていられず目を逸らした。
「……ねえ、紡」
悔しそうに歯を噛み締めていた知子だったが、にやり、と再び余裕ぶった笑顔を浮かべ、俺の目を見ながら言った。
「私さ、あんたの子供、妊娠してたんだよね」
「なっ!?」
そう声をあげたのは政樹だった。
知子は、反応を示したことに満足したのか、その笑顔を余計に深める。
「学生だし、紡は転校していなかったから、仕方なくおろしたんだけど」
そう語る彼女は、きっと気づいていない。
俺達三人が、なんの反応もしていないことに。
「すごくショックだったわ。それにお金もかかったし。だから……」
「いいよ。かかったお金と慰謝料、払うよ」
「え……?」
知子の言葉を遮り言った俺の言葉。それに対して知子は、戸惑いの表情を浮かべる。
意外以外のなんにでもなかったのだろう。彼女からしたら。
彼女は、俺達が動揺することを望んでいた。俺達の間に溝を作るつもりだった。
そうやって、俺と舞歌との関係を壊すつもりだったのだろう。
けど、彼女の行動が意味するものを、俺も舞歌も、そして真希も見抜いていた。
だから動揺することなく、俺は彼女に言葉を返すことが出来た。
「かかったお金も慰謝料も、きちんと、親父の知り合いの弁護士に仲介に入ってもらって払う。正確な金額を調べることになるから、知子がかかった産婦人科の名前、教えてもらえる?」
「え……!?いや、その……」
先程の余裕は消え去り、はっきりとした動揺を見せる知子。
それはそうだろう。
彼女は俺達のことを動揺させれば、溝を作ればいいと思っていた。その結果、俺達が別れればいいし、慰謝料と称した架空のお金が貰えればなおいい、その程度にしか考えていなかったのだろう。
それが急に現実味を帯び、自分に不利な状況になったのだから。
「その……ショックで……。そう!あまりにもショックだったから、そこら辺の記憶が曖昧で……」
「曖昧な金額を請求するつもりだったの?」
「それは……」
必死で打開策を考えている知子は、まだ、気がつかない。
俺達が知子の嘘に気づいていることに。
自分が、どれだけ支離滅裂なことを言っているのかを。
「だから、それは……」
「知子」
俺は、もう終わらせるつもりだった。
これ以上、知子に嘘を重ねてほしくはなかったから……
「もう嘘はやめないか?」
「嘘なんかじゃ……」
「なら調べようか?親父の“力”を使って、全国の産婦人科を」
「――っ!!」
鋭い息をのみ、今度こそ彼女は青ざめた。
親父の力を使う。
そんなものはハッタリでしかなかった。
一介の医師が、個人的な理由で患者のあれこれを聞き出せるほど、日本のセキュリティは甘くない。
それに、もしそれが出来たとしても、俺はそんなものを使うつもりは、一切なかった。
しかし、知子はそうは思わなかった。
散々他人を利用してきた彼女にとって、誰かの力を使うのは当たり前のことだった。
だから俺の言葉になんの疑問も感じなかったんだ。
「……」
青ざめ、立ち尽くす知子を見て、もういいだろう、と俺は思った。
今まで他人を利用し、捨ててきた彼女にとって、このように突き放されるのは初めての経験だっただろう。
この経験から、少しでも知子が変わってくれることを祈りながら、俺は皆を促し、この場を去ろうとした。
「……何よ」
しかしそんな俺を、知子の再び発した声が止める。
振り向きかけていた俺が再び彼女の方に顔を向けると、鋭い視線が俺を射ぬいた。
「何調子に乗ってるの!?上から目線で何様のつもり!?」
余裕が消え去った彼女の下から出てきた、自尊心の塊がそう叫ぶ。
誘惑、狂言。この二つをかわされ、そして手痛い反撃を受けた知子。そんな彼女が、最後に取った行動は、いわゆる“逆ギレ”というやつだった。
突然あがった大声に、渋谷の駅や、その横の東急のデパートの前で待ち合わせをしていた人達の視線が一斉に俺達へと向けられる。
しかし知子は、そんなものを気にした様子もなく叫び続けた。
「ええそうよ!妊娠したっていうのもおろしたっていうのも全部嘘!認めてあげるわ!これでいいんでしょ!?」
「知子……」
悲しかった。少しでも変わってくれればいい、そう思い行った俺の行動は、彼女にしてみたらイラつく対象でしかなかったんだ。
それを悟った俺の瞳には、悲しい色が混じったのだろう。
俺の目を見ていた知子が、苛立たしそうに叫ぶ。
「何よ、その目は!?見下してる訳!?私を!」
「知子、俺は……」
「はっ!人を見下すなんてずいぶん偉くなったわね!」
俺の言葉が聞こえていないのか、聞くつもりなどないのか。知子はヒステリックに声をあげ続ける。
「ああ。そうね。あんたは医者の息子だったわね!お偉いんだったわね!」
これだからボンボンは、と付け加える彼女に、俺は流石にいらっとした。
俺は変わったと、成長したといろいろな人に言われた。俺自身、昔の俺ではないと思う。
しかし、俺は聖人君子になった覚えはない。
それに、好き勝手に言われて、我慢出来る程大人ではなかった。
「いい加減に……」
「しろ」と、そう続けるつもりの言葉は、パン、という小気味よい音と、信じられない光景によって言えなくなった。
驚いて言葉を飲み込んだのだ。
右手を振り切り、残心しながら笑顔を浮かべている舞歌。
自分の左頬を押さえながら、驚いた表情を浮かべている知子。
そう。舞歌が知子の頬を叩いたのだ。
我に返った知子は、きっ、とそれこそ親の敵を見るような鋭い目で舞歌を睨みながら口を開く。
「あんた!何……」
「少しは落ち着いた?」
しかし舞歌は一切怖じけづいた様子もなく、知子に話しかける。
「は!?あんたふさげて……」
「私はね、あなたのことが嫌いだった」
「……は?」
相手の言葉を遮りペースを握るようなやり取りは、まるで真希のようだった。
おそらく、意識して真似をしているのだろう。
本来知子のようなタイプの人間に、そのような物言いは逆効果だ。
余計に怒りをかい、まともに話すことすらままならないだろう。
しかし、知子は口を閉じ、舞歌の言葉を聞こうとしている。
俺の位置からでは知ることは出来ないが、おそらく舞歌は、あの、全てを見透かすような視線で知子のことを見つめているのだろう。
俺もそうだった。
転校した当初、舞歌にあの視線を向けられた時、突き放すつもりだった彼女の話しを聞いてしまっていたのだ。
「あなたは紡を傷つけた。心に傷を負わせ、それをなんとも思っていない。そんなあなたのことを、私は嫌いだった」
「……」
知子はのまれていた。舞歌の瞳と雰囲気に。
普段だったら、舞歌の言葉になんらかの反応をし、自分に有利になるように話しを進めようとするであろう彼女が、何も言葉を発せず、黙って舞歌の話しを聞いているのだから。
「けどね、こうしてあなたに会って、目を見てわかったの」
舞歌は押し黙る知子の目を見ながら、穏やかな笑顔を浮かべ、言った。
「あなたは、傷つくことに怯えている」
「――っ!?」
舞歌のその言葉に、知子は驚愕の色を浮かべた。
俺の後ろで政樹が「怯えている?」と疑問の声をあげているが、俺はそれに反応することが出来なかった。
俺は舞歌の発した言葉の意味が、知子が驚愕した内容が気になり、それどころではなかったのだ。
そんな俺達の視線を集めた舞歌は、しかし、そんなものを気にした様子もなく、続ける。
「大切な人に、信じていた人に裏切られて。すごく、すごく傷ついて。そうやって心に深い傷を負ったあなたは、もう傷つきたくなかった。傷つくことを恐れ、裏切られることを恐れたあなたは、傷つく前に傷つけ、裏切られる前に裏切ることで自分を守ろうとした。うんん。それしか自分を守る術を知らなかった」
「……なん、で……?」
激しく動揺を見せる知子。
目は泳ぎ、口は半開きで、青ざめた顔色。
それはつまり、舞歌の語った内容が、間違いではない証だった。
「正解でしょ?わかるんだ。いろんな人を見てきたから」
「あなた……いったい……?」
「あいにく、友達でもない人に自分のこと話せるようなお人よしじゃないの。私」
「……」
二人が交わしたそのやり取りに、俺は思わず頬が緩む。
それは、俺が転校をし、舞歌と初めて会った時と同じやり取りだったから。
表情は見えない。けど舞歌は、絶対、悪戯な笑顔を浮かべているという確信があった。
舞歌のその言動で、俺は彼女が何を言いたいのか、何をしたいのか、きちんと理解した。
いまだ混乱をしている知子に向かって、舞歌は静かに右手を差し出す。そう。俺の予想通りに。
「友達になりましょう」
戸惑う知子へ向かい、そう、一言。
俺の後ろから、盛大なため息が聞こえた。
おそらく真希がいつものように額に手をあて、ついたものだろう。
おそらく彼女の内心は「まったくこの子は」だろう。
それは俺も同じだった。
ため息こそつかないが、あまりに舞歌らしいその行動に思わず浮かべる苦笑い。
そんな俺達とは違い戸惑っている人間が、二人。
一人は政樹。
舞歌の性格をまだきちんと理解出来ていない彼は、唖然とした表情を浮かべている。
そしてもう一人。その舞歌の行動に巻き込まれている張本人である知子は、とても愉快な表情で固まっていた。
混乱と動揺と希望と不安が入り交じった、そんな複雑な表情は実に人間味があり、知子らしくなかった。
「……あ、あんた!何訳のわからないこと言ってるの!?」
そんな風に固まる知子だったが、やがて我に返り、顔を真っ赤にしてそう叫ぶ。
しかし、そんな彼女の叫びなど、全く気にした様子もなく、舞歌は手を差し出したまま言う。
「だから、友達になろう、って言ってるの」
「だから、それが訳わからないの!なんで私があんたと友達にならなきゃいけない訳!?」
「そうすればあなたは一人じゃないでしょ」
「――っ!」
舞歌の言葉に、知子は言葉を詰まらせる。
そんな知子に、舞歌はさらに言葉を続けた。
「私はあなたを裏切らない。一人にしない。あなたがどんなにうざがっても、私はあなたから離れてなんかあげない」
「……」
知子の瞳が、再び動揺に揺れる。
舞歌の瞳と舞歌の手を交互に見ながら、どうしたらいいかわからない、そんな表情を浮かべていた。
戸惑う知子と、そんな彼女を見つめる舞歌。
舞歌はもう言いたいことは言った。
知子はきっと、答えの出ないままああやって戸惑い続けるだろう。
楔が必要だった。この硬直を破る楔が。
俺は目をつぶり、小さいため息をこぼす。
そうして俺は目を開き、彼女達へと向かい、一歩、踏み出した。
「俺はさ、こいつに会って救われたんだよ」
舞歌の隣に行き、彼女の頭に手を乗せながら言った言葉。
その言葉に、舞歌も知子も、視線を俺へと移した。
「俺は知子にフラれて、人のことを信じられなくなった。人と関わりたくない、そう思っていた。けど、こいつはそれを許してくれなかった」
俺が舞歌に視線を向けると、彼女はにっこりと、誇らしそうに笑う。
そんな彼女に笑顔を返しながら、俺は知子へと向けて言葉を続ける。
「一人になるのも、人と関わらないようにするのも許してくれず、こいつはずっと俺に絡んできた。うざいと思う時期も正直あった。けど、そんな生活を続けている内に、いつの間にか俺は変わっていった。そんな日々を楽しいと思えるようになったんだ」
視線を知子へ。
くすんで見えていた瞳は、今は不安と動揺に揺れ。
この先に、彼女の、松島知子の本当の瞳があることを、俺はなんとなく理解していた。
だから俺は言う。
恋愛ごっこをしたからこそ言える言葉を。
彼女を変えたいと思うから。
「知子。俺はお前の内面を知らない。知ろうともしなかった。けど、舞歌は違う。舞歌はお前の傷に気づき、そして知ろうとしている」
だから俺は伝える。
体験し、乗り越えたからこそ言える言葉を。
彼女を、変えたいと願うから。
「そんな舞歌のことを、信じてみてほしい。何を考えてるかわからないし、自分の好きに行動する自由人だけど、舞歌は決してお前を裏切らない。舞歌は決してお前を一人にはしない。こいつと一緒にいれば、きっと世界が違って見えるようになるから。楽しいと、心から笑えるようになるから」
「……」
俺の目を見て話しを聞いていた知子は、再びその視線を舞歌へと、そして自分に差し出され続けている彼女の手へと向ける。
舞歌は俺が話している間、知子へと差し出した手を下げることはなかった。
意思の強さを証明するかのように向けられ続けていたその手を知子は凝視し続けた。
……舞歌が最後の楔を入れるまで。
「……ねえ」
舞歌の小さな呼びかけに、知子は弾かれたように顔を上げ、舞歌へと向ける。
舞歌は、優しい笑顔を知子へと向けながら、言った。
「私と、友達になって」
「…………」
知子は、舞歌の瞳を見つめる。
舞歌も、知子の瞳を見返す。
俺の時と同じように、全てを見透かすようなカリスマの瞳で。
俺の時とは違い、優しく包み込むような穏やかな瞳で。
お互い目を逸らすことなく見つめあう。
一秒、十秒と時間が過ぎていき。
そのまま一分近くが経過した時。知子が小さく微笑みを浮かべ、目を閉じた。
明らかに変わった雰囲気。
今まで見たことがない、穏やかな笑顔。
そんな彼女に、おそらく、次の瞬間にも交わされる握手を想像し、俺の頬は緩む。
……しかし、実際に知子がとった行動は、俺が全く想像していないものだった。
「なるわけないでしょ。バーカ」
その言葉と一緒に、知子は、先程の頬のお返しとばかりに舞歌の手を強く叩いた。
呆然とする俺をよそに、彼女はくるりと背を向け、自分の体を抱くように手を交差させ、言う。
「あークサイクサイ。よくそんなクサイ台詞言えるわね」
先程のシリアスをぶち壊すその行動に、言葉に、俺の脳は完全に動きを止める。
それは俺だけではなく、真希も、政樹も同じだったようで。
背後から漂ってくる戸惑いの気配を、俺は感じた。
そんな風に固まる俺達三人。
唯一、何の変化も受けていない舞歌が口を尖らせるのを、俺は視界の端に捉えた。
「ぶー。なんでそういう意地悪なこと言うのかなー?知ちゃんは」
「誰が知ちゃんよ!?」
舞歌の言葉に振り返りそう返した知子は、次の瞬間、しまった、という苦い表情を浮かべた。
舞歌が、悪戯な笑顔を浮かべていたのが原因だろう。
にやー、とやけにいい笑顔の舞歌に知子は鋭い視線を向けるが、効果がないのを悟ると、小さく舌打ちをして再び背を向けた。
舞歌は、そんな知子の背後に歩み寄り、口を開く。
「ねーねー知ちゃーん」
「だから!人のことを変なあだ名で呼ばないで!」
「じゃあ、知りん?」
「……殴るわよ?」
そうやって、子供みたいなやり取りをする二人。
そんな二人のやり取りを見て。
舞歌と“普通に”会話をしている知子を見て、俺の頬は再び緩んだ。
激しくデジャヴュを感じたんだ。そのやり取りに。
それは、転校初日。舞歌のペースに巻き込まれた俺が彼女と交わしたやり取りと、瓜二つだった。
笑う俺を目ざとく見つけた知子は、眉間にシワを寄せ言う。
「紡。何かしら?」
「別に。ただ、ずいぶん楽しそうだな、って」
俺がそう言うと、知子は鼻を鳴らし、そっぽを向く。
変わらない強気な態度。
しかし、なぜかとても自然な、知子らしい行動だと、俺は思えた。
俺がそうやって微笑んでいると、知子が気まずそうに視線をさ迷わせながら口を開いた。
「……紡」
「あ?なんだ?」
俺の返事に、彼女はさらに視線を上下左右させ。何かを言い淀むように口を二、三度開いたり閉じたりを繰り返してから、少し俯き、言う。
「……私は、こういう生き方しか知らない。誰かを利用し、切り捨てるなんて、私の中では当たり前のことだし、罪悪感なんてない。だからあんたを捨てたことも、なんとも思ってないし、正直、今日会うまであんたのことを忘れてた」
「……」
けなしているとしか思えない言葉。しかし、俺は口を挟むことはしなかった。
まだ話しの途中だし、彼女が本音を口にしているのがわかったから。
「そのことに対して反省するつもりもないし、悪いことをしたとも思っていない。……けど」
再度視線をさ迷わせ始めた知子。口を開きかけては閉じ、また少し開き。
俺はこの時初めて、それが物事を言い淀む時の彼女の癖なんだと悟った。
そうやって言い淀んでいた知子だったが、やがて決心がついたらしく、俺を睨むように見ながら口を開いた。
「……悪かったわ」
「……え?」
突然の謝罪に、俺は戸惑う。
何に対して謝れているのか、わからなかったからだ。
しかし、知子はそんな俺に構わず――いや、構っているからだろうか、言葉を続けた。
「利用したことにも、切り捨てたことにも罪悪感はないけど、でも、傷つけたことは……悪かった思ってるから。……傷つくことの辛さ、知ってるから。だから、それだけは謝るわ。……ごめん、なさい」
「知子……」
顔を真っ赤にさせながら言った、不格好な謝罪の言葉。
それを聞いて。今はまたそっぽを向いてしまった彼女の姿を見て。
俺はようやく、舞歌が見抜いていた知子の本当の姿が見えたような気がした。
“傷つくことに怯えている”
“傷つく前に傷つけ、裏切られる前に裏切ることで自分を守ろうとした。それしか自分を守る術を知らなかった”
そう。その通りなのだ。
知子は、傷つくことを恐れ、そうならないように逃げ惑う、臆病で不器用な、ただの女の子だったんだ。
……多少、性格が歪んでしまっているけど、でもそれはある意味仕方ない。
そのことに、誰も気がつくことはなかったし、誰も正面から彼女と向き合おうとしなかったのだから。
彼女は、常に孤独だったのだから。
しかし、今は違う。
知子の弱さに、舞歌が気づいた。
正面から向き合った。
そして、俺も。
昔は気づけなかった、気づこうともしなかったことに、気づくことが出来た。
彼女はもう、一人なんかじゃ、ないから……
「知子」
「……何よ?」
俺が彼女の名を呼ぶと、彼女は不機嫌そうに返事をする。
むろん、視線は明後日の方角。
俺はそんな彼女に、穏やかな笑顔を向けた。
「さっきも言ったけど、俺は今、こいつと付き合っている。こいつのことを不安にさせたくはないから、以前のように知子とは付き合えない」
「はぁ?何、のろけ?そんなの聞きたくないんだけど」
白けた表情で、冷めた瞳を向けてくる知子。
しかし、俺はそれに構わず言葉を続けた。
すぐにでも見られるであろう、彼女のあわてふためく姿を思い浮かべながら。
「でも、友達になることは出来る」
「え……?」
目を見張る知子に、俺は舞歌がやったように右手を差し出した。
「知子、俺と友達になろう。友達として、付き合っていこう」
目の前で、唖然としていた顔が、次第に赤く染まっていく。俺はその様子を、舞歌と同じように悪戯な表情を浮かべ見ていた。
「なっ、何恥ずかしいこと言ってるの!?あんたは!?」
「恥ずかしい?何が?」
「いや……だから……!」
おかしなことなど何もない。
そんな態度で返すと、知子は言葉を失う。
慌てて反論を考えているであろうところに、追い撃ちをかけるように、舞歌が話しに加わってきた。
「そうだよ知ちゃん!私達と友達になろうよ!」
にこにこと笑顔で、再び知子に手を差し出す舞歌。
そんな舞歌に、俺達に、知子は、顔を更に赤くして叫んだんだ。
「あんたら、恥ずかしいのよーっ!」
俺は、舞歌と出会って、いろいろと変わった。
今まで気づけなかったことに気づけるようになった。
今まで出来なかったことが出来るようになった。
それら全てが舞歌のおかげ、という訳では決してない。
智也や佐藤。クラスメート達の影響もある。
けど、変わるきっかけを作ったのは間違いなく舞歌だ。
だって、彼女との出会いから、俺は変わり始めたんだから。
舞歌には人を変える力がある。
知子。お前は気づいている?
以前のお前だったら、こんな風に人と話してないぜ?
以前のお前なら、さっさと話しを切り上げて、この場を去ってた。
お前も変わり始めているんだ。舞歌の力で。
俺と舞歌と。真希と政樹。そして、知子。
この五人で笑える日が、きっといつかくる。
俺は舞歌と一緒に知子をいじりながら、そんな未来を願っていた。
政樹も知子も。二人とも声を揃えて「ありえない」と言いそうだけど、俺はそうは思わない。
だって、二人とも変わっていっているのだから。
このまま舞歌と時間を共有していけば、そんな願いは現実になる。俺はそう確信していた。
そして、それは、そう遠くない未来に訪れる。
そう、実感していた。
ふと見上げた空。
十七年間見続けてきた空は、今ではとても狭く感じて。
でも。
以前よりもとても、とても青く見えた。
そんな、気がした……