第七十五話(後半)
「ああ……。勝手なイメージだけど、真希は弁護士とか政治家とかを目指しているんだと思ってたから」
俺のその言葉に、真希は驚いたように目を見開いた。
そして、
「へえ」と呟き、笑う。
「やっぱり結構人を見る目はあるのね。ずばりその通りよ。去年まで、私は法学部を目指していたの」
俺は、自分の予想が当たっていたことよりも、彼女のその言葉の内容に驚いた。
「去年まで、って……。じゃあ今年になって進路を変えた、ってことか?」
「ええ。そうよ」
事もなげに言う真希に、俺の開いた口は閉じなかった。
法学部から医学部へ。分野も、その先に待っているものも、全てが変わってしまう選択。
不思議だった。なぜ、受験間近の三年生が、しかも、真希のような性格の人間が、急激な進路変更をしたのだろうか?
そのことを真希に尋ねると、彼女は目をつぶり、小さな笑顔を浮かべ、言った。
「どっかの誰かさんみたいな人を助けるためよ」
「え……?」
俺が驚いた声をあげると、真希は閉じていた瞳を開き、“どっかの誰かさん”を優しい眼差しで見つめながら、言った。
「残される側の気持ちを身をもって知った私なら、同じ境遇の人を救えると思うから。何も出来ない悲しさと悔しさを味わうのは私達だけで充分」
嫌みのような真希のその台詞。
しかしそれを言う真希も、その言葉を向けられている舞歌も、二人とも優しい笑顔を浮かべていた。
きっと二人は、このことについて話し合ったのだろう。
だからこそ、舞歌は優しい笑顔を浮かべていられるのだ。
女同士の会話に、過ぎ去った過去に、あれこれ言うつもりはないが、少し、寂しかった。
「……そっか。じゃあ真希はそこでも俺の先輩になるのか」
「そこでも?」
「紡、それってどういう意味?」
ぽつりとこぼした俺の言葉。
小さく、独り言ともとれるそれに、二人は過敏に反応した。
二人から向けられる怪訝そうな眼差しから視線を逸らしながら、俺は二人からの質問に答える。
「いや、俺も来年そこを受験しようと思ってるからさ」
「つむ……」
「紡、医者になるの!?」
電車の中だということを全く気にせずそう叫ぶ舞歌。
集まる視線と言葉を遮られたことに対する苛立ちの視線を真希が送るが、舞歌は気にした様子はなかった。
席を立ち詰め寄ってこようとする舞歌をなんとか押し止め、俺は事情を説明するために口を開く。
「聞かれなかったから話さなかったけど、俺はもともと医者になるつもりだったんだ。親父が医者をやっているし、他になりたいものもないから、っていう理由で」
「つむ…」
「でも今は違うんだ」
「え……?」
舞歌の言葉を意図的に遮り、俺は小さく笑顔を浮かべる。
「真希と一緒でさ、今回の舞歌のことを通して、俺は改めて医者になりたくなった。真希と同じように、助けられる命を助けたいと思ったんだよ」
その言葉とともに真希に視線を向けると、彼女は小さく、それでも嬉しそうに笑顔を浮かべる。
続いて視線を舞歌へ。
彼女も、穏やかな微笑みを浮かべていた。
「そういう理由なら応援するよ。頑張ってね、紡」
「ああ。ありがとう」
「受験に失敗して、私を待たせすぎるようなことはしないでよね」
「嫌なプレッシャーをかけるな……。ってか、真希こそ失敗して俺と同学年になる、なんて真似するなよな」
「ふん。私を誰だと思ってるの?」
逆にプレッシャーをかけてやろうという、俺の試みは呆気なく失敗した。
不敵な笑顔を浮かべている真希と、顔をしかめている俺の表情を見て楽しそうな微笑みを浮かべていた舞歌は、背もたれに体を預けながら言う。
「そっかぁ。じゃあ私も大学東京のにしようかな」
『は?』
綺麗に重なる俺と真希の声。
別にタイミングを合わせたわけではない。ただたんに、舞歌の言葉に同時に驚いただけだ。
「どうしたの?二人とも?」
怪訝そうな四つの瞳に見つめられた舞歌は、首を傾げながらそう言う。
彼女のその言葉に戸惑っていた俺達ではあるが、なんとか声を絞り出し、舞歌に問う。
「……舞歌って、進路、決めてたのか?」
俺の言葉に舞歌は眉を寄せ、不機嫌な顔。
半眼で俺を睨みながら言う。
「紡。それ、めちゃくちゃ失礼なんですけど」
「ごめん舞歌。私も紡と同意見」
「二人がいじめるー」
悲しそうに目に手をあてる舞歌。
しかしそれが泣きまねであるのは俺も真希もわかっていたので、気にせず言葉を続けた。
「あんた、つい最近まで未来自体を諦めていたじゃない。そんなあんたが進路を決めていれば、誰でも驚くと思うけど?」
「ま、それもそうだよね」
真希の正論に、目元から手を離し苦笑いを浮かべる舞歌。
そのころころと変わる表情に、俺達の会話の内容に、舞歌の隣に座った会社員らしい中年男性が怪訝そうな表情を浮かべていたが、舞歌はもちろん、俺達ももうそれを気にすることはなかった。
「真希の言う通り、私は未来のことなんて諦めてたから、進路なんて考えてなかった。進学も就職も、流されるままにすればいいや、って思ってた。……でもね」
舞歌はそう言って、視線を、優しい笑顔を俺へと向ける。
「紡が私を助けてくれた時から、私に未来をくれた時から、私の中に夢が生まれたの」
「……どんな?」
真希の言葉に、舞歌はにっこりと目を細めて、穏やかな笑顔を携えて、口を開いた。
「私ね、先生になりたいの。高校の先生。私がそうだったから、ってこともあるんだけど、高校生って一番繊細な時期だと思うの。進路のこと。恋愛のこと。いろいろなことを考えたり体験したりして、私のように生きることを諦めちゃうような人もいる。そんな人達に教えてあげたいの。生きることの大切さを。そして支えになってあげたいの。真希が、お母さんが、そして紡が私にしてくれたように」
そう誇らしく言う舞歌。
想像しなくてもわかる。舞歌のような教師がいれば、絶対に楽しい高校生活を送れる。
そして、心に傷を負った人達の希望の光になることが。
「……舞歌ならきっといい先生になるよ」
「ありがとう。紡」
「その前に大学に受かる学力を身につけないとね」
「……頑張りマス」
真希と舞歌のそんな軽口に微笑みを浮かべながら、俺は温かい気持ちになっていた。
真希と静歌さんに託されて伝えた、俺達の想い。
その想いは形を変え、舞歌から誰かへと伝えられるのだろう。
そうして舞歌から伝えられた想いを、その誰かはまた別の誰かへと。
そうやって繋がる想いの連鎖を、温かい未来を想像して、俺は嬉しくなったんだ。
そうやって小さく微笑んでいると、目的地への到着を告げるアナウンスが社内に流れる。
俺は笑顔を消し、二人に伝えた。
「次、降りるから」
「はーい!」
「ええ。わかったわ」
舞歌は嬉しそうに、真希は静かに、それぞれ頷いた。




