第七十四話(前半)
「……紡」
そう俺の名を呼ぶ舞歌の声は、俺の顔の、わずか十数センチ上から発せれた。
声と一緒に届く、彼女の熱い吐息。
俺を見つめる、妖艶な眼差し。
俺の上に馬乗りするかのようにして跨がっている彼女の服越しに感じる体温は、熱い。
「……紡」
再度“女”の顔で俺の名を呼ぶ舞歌。
その顔に、声に。押し倒されているベットから香る彼女の香りと、ごく間近から香る彼女の香りに、俺の頭はクラクラしていた。
「……抱いて」
あからさまな性行為の誘いに揺れる感情を必死に抑えながら、俺は残った理性をかき集め、打開策を探していた。
上手く働かない頭を落ち着かせる為にも、俺は、なぜこんなことになってしまっていた、その理由を思い返していた。
第七十四話
「へえ。意外にシンプル」
それが舞歌に連れられて初めて入った彼女の部屋に対する感想だった。
白と赤で統一されたその部屋には、余計なものが一切なく、きちんと整頓されていた。
そうやって、見渡しながら口にした俺の感想を聞いた彼女は、振り返り首を傾げた。
「意外?」
「ああ。もっと物で溢れてるかと思った」
「紡ー。ひどいよー」
ぶー、と頬を膨らませ可愛らしく睨んでくる舞歌。俺は
「悪い、悪い」と言いながらそんな彼女の頭を撫でた。
途端に機嫌が良くなったのは、言うまでもないだろう。
「昔はね、もっと色々な物があったんだけど、全部捨てちゃったんだ」
「……そうか」
舞歌の頭から手を離しながら、俺は小さく俯く。
彼女の言葉の意味を、俺は正確に理解していた。
それはつまり、いつ死んでもいいように片付けていたということだった。
意味を理解したところで、俺はもう一度部屋を見渡す。
……淋しい印象を受けた。
「……今度、ぬいぐるみでもプレゼントするよ」
俺はこの部屋を変えたかった。
相応しくないと思ったんだ。今の舞歌に、こんな整頓“されすぎた”部屋は。
ぬいぐるみを置くことが彼女らしい部屋に変わることへ繋がるのかどうかはわからない。
けど、何かしたかったんだ。
そんな気持ちから出た俺の言葉に、舞歌は強く反応した。
「本当!?本当にプレゼントしてくれるの!?」
ドアの前に立っている俺に、彼女は瞳をキラキラと輝かせながら詰め寄ってくる。
俺はそんな彼女から発せられるプレッシャーに一歩後ずさりしながらも、
「ああ」と頷いた。
「やったー!じゃあね、私紡のぬいぐるみが欲しい!」
「……は?」
バンザイをしながら、無邪気な笑顔を振り撒きながらの言葉に、俺の思考回路は、その活動を止めた。
彼女の言っている言葉の意味が、全く理解出来ない。
そうやって固まる俺をよそに、舞歌の暴走は続く。
「大きさはこれくらいの、二等身のデフォルトでー。素材は……」
「ちょ、ちょっと待った!」
身振り手振りの舞歌の言葉に危険を感じ取った思考回路が再始動する。
彼女と同じ様に、俺も手を大きく前に突き出しながら待ったをかけた。
そんな俺の行動に、舞歌は不思議そうな表情を浮かべる。
「何、紡?」
「いろいろと突っ込みたいところが満載なんだが……とりあえず、紡のぬいぐるみ、って何?」
聞かなくても予想はつく。しかし聞かずにはいられなかった。
間違いであってほしい。そういう希望を込めながら。
「何って、紡をモデルにしたぬいぐるみだよ?」
希望はあっさりと砕け散った。
痛む頭を手で押さえながら、俺は突っ込みを継続する。
「……なんでそんなものが欲しいんだよ?」
「抱いて寝たいから」
「……」
「一緒に暮らしても、紡は一緒に寝てくれないだろうから、寂しい舞歌ちゃんは紡君人形を抱いて寝たいの」
「…………」
……それ以上の突っ込みは不可だった。
何を言ったところで自爆するのが目に見えて明らかだったから。
俺は視線を明後日の方にさ迷わせながら、現実的に攻める方向へと、アプローチを変える。
「……そんなもの、どこにも売ってないぞ?」
「頑張って作ってね。紡」
想像してみる。デフォルトされた自身のぬいぐるみを作る自分の姿を。
……吐き気がした。
「……それより、何か用があったんじゃなかったのか?」
俺は話しを逸らすことにした。
この話題は二度とふらないと、心に決めながら。
「あ、うん。あのね」
俺の言葉に、舞歌の瞳の色が変わる。
現れたカリスマの瞳に、俺は少し、緊張感を高めた。
「紡がお母さんから受け取った時計。あれね、本当はお母さんが、お父さんへ送る誕生日プレゼントだったんだよ」
「――っ!?」
予想すらしていなかったその内容に、俺は鋭く息をのむ。
先ほどとは違う意味で固まる俺を、舞歌はカリスマの瞳で見つめながら、言葉を続ける。
「お父さんが事故で死んじゃった、その三日後がお父さんの誕生日だったんだって。その時に用意していた誕生日プレゼントが、あの時計なんだって」
「……なんで、そんな物を……?」
「お母さんがね、紡にあげたかったんだって」
「だって……あれはクジで……」
「ごめんね。ちょっと細工しちゃった」
小さく舌を出す舞歌の姿に、俺はいつものようにため息をつくことが出来なかった。
疑問と混乱が頭を埋めつくし、まともに考えることが出来ない。
そんな俺の姿を見ながら、舞歌はカリスマの視線と笑顔を携え、口を開く。
「お母さんは、紡が今感じているような重さを背負わせたくないって言ってた。けど、紡に時計をあげたい、そうも言っていたの。だから今回みたいな方法をとったんだよ」
「……なんで?」
「うん?」
「……なんで、言っちゃうんだ?静歌さんは、俺に言わないつもりだったんだろ?なのになんで……?なんでお前は言っちゃうんだ?」
揺れる俺の瞳を見つめる舞歌は、優しい微笑みを浮かべていた。
「紡に知ってほしいから。あの時計の意味と、お母さんの気持ちを」
「時計の意味と、静歌さんの気持ち……?」
そのまま言葉を繰り返した俺に、舞歌は
「そう」と頷く。
「あの時計はね、お父さんに対するお母さんの愛情と、お母さんの涙が、たくさん、たくさん詰まっているの。いわば、お母さんの想いの結晶なんだよ。本当はね、手放すつもりはなかったんだって。でも、あの時計を“悲しみの結晶”から“幸せの結晶”に変えたい、って言ってた。だからお母さんは、私を助けてくれたお礼と、自分達以上に幸せになってほしいっていう想い。そして、今度こそあの時計が持ち主と一緒に時を刻めますように、って願いを込めて、私が、そしてお母さんが大好きな紡に、あの時計を送ることにしたんだよ」
「……」
「だからね。その時計を、高いものを貰った、ラッキー、なんて気持ちで受け取ってほしくなかったの。きちんと全てを理解した上で受け取って、身につけてほしい。そう、私は思ったの」
「……」
疑問と混乱が立ち去った頭で、舞歌の言葉を反芻する。
そして考えてみる。静歌さんの気持ちを。
例えば、例えば俺が、舞歌を誕生日の数日前に事故で失ったとする。
手元に残ったのは、舞歌の喜ぶ笑顔を想像しながら選んだ誕生日プレゼント。
俺はそれをどうするだろうか?
手元に残しておくだろうか?それとも、処分してしまうだろうか?
……そればかりはその時になってみたいとわからないが、でも、どちらにしても辛い選択には変わりない。
手元に残し、彼女のことを思い出し続けるのも辛いだろうし、処分して忘れてしまうのも、辛い。
そんな苦渋の選択のうち、静歌さんは手元に残しておくことを選んだ。
そうして旦那さんの、悟さんのことを思い出し、想い、涙を流してきたのだろう。
そんな大切なものを、まさしく想いの結晶そのものを、彼女は手放すことを決めた。
それは、決して簡単な選択ではなかっただろう。
悩みに悩んで、そうやって出した答えだったのだろう。
……何も知らなかった時なら、軽い気持ちであの時計を受け取り、身につけていただろう。
しかし、あの時計の意味を、静歌さんの想いを知った今、俺は、そんなことは出来なかった。したく、なかった。
――ゆっくりと目を開き、正面で微笑んでいる舞歌と視線を交える。
そうやって見つめ合ったのち、俺は小さい笑顔を浮かべ、舞歌に言った。