第七十二話(前半)
第七十二話
「いらっしゃいませ〜」
「帰る」
遠野家の玄関の扉を引いた瞬間“それ”に出迎えられた俺は、今した行動を巻き戻すかのように、しかしスピードだけは倍速で扉を閉じた。
このまま本気で帰ろうかな、と振り向き、バイクの方へ一歩踏み出した瞬間、俺の後ろで扉がすごい勢いで開く。
「ちょっ…!紡!帰ろうとするのもスルーするのも反則だよ!」
そう叫びながら俺の腕に抱き着いてくる舞歌の姿は、この時期、どこかのコンパニオンが必ずと言っていいほどの確率で着ている、赤く――ボタンや襟元、裾部分だけが白い――股下十数センチしかないノースリーブのチュニックと、同様の赤い帽子。いわゆる“サンタクロース”のコスプレ服というやつだった。
外に出ることを想定していなかったのか、足元だけは裸足に健康サンダルという、笑える組み合わせだったが。
彼女が今している格好は露出が高い。二の腕はもちろんのこと、胸元、足にいたっては、太股が半分以上も見えている。それにぱっと見、生地は安物らしく薄っぺらい。
屋外にいては、いや、屋内にいてもなお風邪をひきそうな格好だった。
俺はため息をつき、舞歌を腕から引き離す。
そして着ていた黒いピーコートを脱ぎ、舞歌に羽織らせながら口を開く。
「一応確認をとっておきたいんだが、お前にこんな格好をさせたのは…」
「私よ」
いつからそこにいたのか、玄関の扉によっ掛かり、腕を組ながらの真希が答えた。
彼女の格好はサンタクロースのコスプレ、等ではなく、グレーのニットチュニックに、タイトなデニム姿。首にはチュニックと同色で同素材のストール。靴も、ファスナーこそしていないが、革製のニーハイブーツをしっかりと着用。
舞歌に比べれば、いや、比べるまでもなく暖かそうだった。
「…まあ想像はついていたけど、やっぱりお前か」
右手の親指と人差し指で眉間を押さえながら、俺はため息をこぼした。
左手には舞歌が
「ありがとう」と満面の笑みを浮かべながら、再度抱き着いている。
…正直、普段よりも生地の薄い服で胸を押し付けるのはやめてほしい。
「…で?なんでこんな格好を?」
「紡を悩殺させるため」
「真希が、この格好なら間違いなく紡は欲情するって言ってました」
そう、ほぼ同時に答える、一つ年上のお姉様方。
俺を本気でその気にさせようとしている、白い小悪魔の舞歌。
俺の反応を見て心の底から楽しんでいる、黒い小悪魔の真希。
どう転んでも俺はいい思いしかしないはずなのに、口から出たのは、澄んだ空には似つかわしくない、重い、重いため息だった…
・・・・・・・・・・・・
「静歌さん、ちょっとお話しがあるんですけど」
寄り添ってくる舞歌を引っぺがし、
「着替えてこないと付き合い方を本気で見直す」と脅迫めいた言葉で彼女を部屋に直行させた俺――真希はつまんない、と言っていたが、もちろん黙殺した――はキッチンで忙しなく料理を作っている静歌さんの元へ行き、声をかける。
「あら、紡君。いらっしゃい。…悩殺されなかったの?」
にこにこと笑いながら、そう小悪魔的なことを言ってくる静歌さんに、俺は、されてません、と素っ気なく返した。
先日の写真の件で、間違いなく彼女も一役噛んでいると俺は悟っていたため、心の準備が出来ていたのだ。
「まあ、残念。やっぱりもう少し露出を多くした方がよかったかしら?」
「…お願いですから、もっと娘のことを大事にしてあげてください…」
彼女は自分の娘が男に犯されてもいいのだろうか?
そう思いながら言った言葉だったが、彼女の
「紡君のことを信頼しているのよ」との言葉に、それ以上何も言えなくなってしまった。
「それで?お話し、っていいのは、一緒に生活することに関してかしら?」
顔を手で覆い俯きながら、顔を小さく左右に振っていた俺に、静歌さんはそう言い、脱線した話しを元に戻した。
料理を作り終えたのか、中断したのか、どちらにしても彼女は手を止め、まくっていた桃色のセーターの袖を戻し、俺の顔を見つめている。
それはつまり、きちんと話しをする、ということの表れだった。
彼女のその意をくみ、俺も静歌さんを正面から見据え、件の話しを始めた。
「ええ。こんな言い方は失礼にあたりますが、静歌さんは本当に、そうなった時のことを考えて頷かれましたか?」
「…それは、世間体のことを指しているのかしら?」
静歌さんが返した言葉。
奇しくも舞歌と同じ言葉に、ああ、やっぱり親子なんだなぁ、と頭の片隅で考えながら、俺はこくりと頷いた。
「ええ。俺だけがああだこうだ言われるならいいんです。けど、俺がここに住むことになったら、事情を知らない人達は必ず何かしら言ってきます。舞歌や静歌さんまでもが誹謗、中傷の対象となります。それに、余計な手間が増えることになるんですよ?そこをきちんと考えましたか?」
俺は真剣な目で静歌さんの目を見ながら、言葉を続ける。
「はっきり言って、俺はガキです。自分で生活費も学費も払えない半人前です。何か物事を起こしたら、保護者が呼び出されます。つまり、俺を受け入れるってことは、とらなくていい責任をとらされるはめになる、ってことなんです。そこを、きちんと考えましたか?」
俺の言葉を、視線を、真剣な眼差しで受け止めていた静歌さんだったが、俺がそう言い切ったのち、小さく、表情を崩した。
優しい、微笑みを浮かべた。
「…本当、たくましくなったわね」
「…静歌さん?」
彼女の言葉に、眉を寄せた俺に、静歌さんは再度、優しく笑いかけた。
「もちろんきちんと考えて、紡君のお父さんときちんと話しをして決めました。確かに心ない人にいわれのないことを言われるかもしれない。でも、何も悪いことをしていないんだもの。私も舞歌も、気になんかしないわ」
「静歌さん…」
「それにね、あなたがいなくなると、舞歌が寂しがる。あの子の悲しそうな顔は、もう見たくないのよ…」
「………」
それは母の優しさか、それとも自己保身か。
彼女の言葉に、“俺の為”の言葉はなかった。
けど、責める気持ちは浮かんではこなかった。
「それに、紡君は余計な手間が増えることになる、って言ってたけど、決してそんなことはないと思うの。洗濯にしろ食事にしろ、一人分増えるくらい、たいして変わらないもの。それに、そこまで自覚して、私達のことを考えてくれる紡君なら、保護者が呼び出されるようなことは絶対にしない。違うかしら?」
「…断言は出来ませんけどね」
にこにこと言ってくる静歌さんに、俺も表情を崩し、ため息混じりにそう答えた。
そんな俺の返答がおかしかったのか、静歌さんは口元に手を添え、くすくすと笑っていた。
「問題を起こすような人はそんな言い方はしないものよ。ねえ、紡君」
静歌さんは笑顔をさらに優しくし、母親の笑顔を浮かべながら、俺に言った。
「紡君が心配していることは、私達にとって何の問題もないことなの。だからね、あなたさえよければ、家で一緒に暮らさないかしら?」
静歌さんの言葉に、俺はもう一度考えてみた。
世間体のこと。
遠野家にかける迷惑のこと。
舞歌のこと。
そして、俺の気持ちを…
……答えを出すのに、一分もかからなかった。