第七十一話
「……すまない。もう一度言ってくれないか?」
向かいの席で夕飯をぱくつきながら言った親父の言葉が全く理解出来ず、俺は聞き返した。
一方親父は、そんな風に固まっている俺を尻目に、カレーを口に運びながら、同じ言葉を繰り返す。
「だから、お前、舞歌ちゃんの所に住むことになったから」
「だから」以下の、先程と一字一句変わらない親父の言葉に、俺は再度、フリーズすることになるのだった…
第七十一話
総合店から舞歌を家に送り届け、夕食を一緒に、というありがたい申し出を俺は今日は断り、自宅へと戻った。
冷蔵庫の中に痛みかけの野菜がいくつかあったからだ。
それらの痛んだところを切り落とし、そういう状態にあった野菜を適当に入れて作ったのはカレー。
手間もかからず、そういった事情の多量の野菜を処分出来る、便利な料理。
それが調度出来上がるタイミングで、親父の帰宅を告げる聞き慣れたエンジン音が表から聞こえてきた。
居間の白い壁に掛けてある丸い時計を見ると、8時をまわったところだった。
最近にしては早い帰宅だな、と思いながら、俺は二人分の夕飯をテーブルの上に並べる。
匂いに引かれたのか、パタパタとスリッパの音を鳴らしながら一目散に居間へとやって来た親父を叱り、スーツから家着に着替えさせてから共に食事を始めた。
そうやって、親父が三分の一を食べ終えた頃、
「そうそう」と先程の内容を口にしたのだ。
「ん?なんだ?嬉しくないのか?」
皿の上で、ルーとライスを乗せ、あとは口へと運ばれるのを今か今かと待っているスプーン。
彼を、あるいは彼女を、放置したまま固まっている俺に、親父は疑問を投げかけた。
その親父の問いに、瞬きもせずにいた瞳と、霧のかかったような脳をなんとか再起動させ、親父の目を見据え、逆に問う。
「…嬉しい、嬉しくないは二の次にして。…何がどうしてそうなった?」
今必要なのは情報だ。
昨日舞歌に提案された内容を、俺は親父に言ってはいない。
そしてついさっき、舞歌と話し『一緒には住まない』という結論にいたった。
その舞歌が意見を変え、親父を説得した、というのは考えにくいし、もし事前に親父に言っていたとするならば、“あの”舞歌の性格上、俺に言わないということは考えられなかった。
つまり、今回の件に関して舞歌は全くの白。
だからこそ知る必要があったのだ。
今後俺の頭を悩ませる、舞歌と同様の“破天荒”な考えをする人物を。
「ああ、今日たまたま静歌さんに会ってな。いろいろ話しをしている内にそういうことになった」
「そういうことになったって…!親父!何考えてるんだよ!?」
「何、って…。お前、何そんなに怒ってるんだ?」
声を荒げ、立ち上がった俺を、親父は不思議そうな表情で眺める。
そんな親父の表情に、俺は怒りのギアを、一段階、上げた。
「あのな親父!俺が一緒に住むってことは、舞歌や静歌さんにとって大問題なんだぞ!?血の繋がりも何もない他人が、一つ屋根下で生活してたら世間がなんて言うかくらいわかるだろ!?」
親父は俺にいろいろなことを教えてくれた、俺の最も尊敬する人物だ。
その親父が、あとのことを何も考えずにそういう行動をしたことが信じられなかったし、苛立った。
だから声を荒げ、親父を睨みつけたんだ。
…けどそれは、ものの一分も持たなかった。
「いや、でも、静歌さんは、紡なら大歓迎、って言ってたぞ?」
「……は?」
言い訳とは違う親父の言葉に、俺のまぶたと脳は再度動きを止めた。
ぽかんとする俺に、親父は説明を続ける。
「もちろん俺だって、世間体とか、彼女達の生活のことも考えたさ。でも話しを聞いた静歌さんは、舞歌も喜ぶし、紡君なら大歓迎、って言ってくれたんだ。俺も紡を一人で残すのは不安だったから、じゃあよろしくお願いします。って話しになった」
「…そんな馬鹿な…」
そんな、軽いともとれる親同士の会話で重要なことが決まってしまったことに、俺はショックを受けた。
俺が悩んだ昨夜の時間と、先程舞歌と話し合ったのはなんだったのだろうか?
「…いや、だけど、経済的な面でもいろいろとめんどくさくなりそうだし…」
「それも話し合ったぞ。毎月俺が静歌さんの口座に八万ほど振り込むことになってる。本当はもっと振り込みたかったんだけど、そんなにいらない、って断られた」
「………」
あの時間が全くの無駄であったことを認めたくない俺の抵抗は、あっさりと無に帰した。
そうやって打ち萎れていると、ズボンのポケットに入れていた携帯が、ヴー、ヴーとバイブ機能で着信を知らせた。
途端に走る悪寒。
恐る恐ると携帯を取り出し、折りたたみタイプのそれを開き液晶を見る。
『舞歌』
そこには、想像通りの人物の名前が浮かんでいた。
しばらく通話ボタンを押せずにいると、携帯は留守番電話に切り替わる。
と、同時に電話が切れる。そして一秒も満たないうちに、再度彼女からの着信を告げた。
このままだと着信履歴を彼女一人に埋めかねられない(既に埋まりかけてはいるのだが)と危惧し、俺はゆっくりと通話ボタンを押した。
「もしも…」
『紡!?聞いた!?一緒に住めるんだよ!毎日一緒だよ!やったぁーっ!!』
俺の言葉を遮り――というよりも聞く気は最初からなかったのだろう――叫ぶ舞歌(携帯)を耳元から十センチほど離し、俺は目をつぶり、空いている方の手で眉間を押さえる。
頭が痛くて仕方なかった。
「紡」
そうしている俺の肩を、親父が後ろから、ぽん、と叩く。
俺は眉間を押さえたまま目を開き、視線を親父に向ける。
「孫の顔は早く見たいけど、学生の内は自重しろよ」
そうにこやかに言い、ズボンのポケットから取り出したコンドームを差し出してきた時、ついに俺はキレた。
「この!アホどもがーーーっ!!!」
携帯を放り、親父の首を両手で締めて前後に振る。
親父が助けを求めてくるが、とりあえずストレスを発散させるまで付き合わせることにした。
電話から聞こえてくる舞歌の声も、時間経過と共に切羽詰まった声をあげてる親父も、全て無視して、俺は現実逃避を決め込んだ。
俺の周りが破天荒だらけだっていう現実も、俺の平穏が
「さようなら」と去って行ったことも、今は認めたくなかったんだ…
「…つむ……し、死ぬ……」
今、だけは……