第六十九話(後半)
「静歌に頼んでなんとか説得してもらっている間、俺はいつも通りの毎日をすごすことにした。心臓病で悩んでいる人の相談を受けながら、診察、手術をする毎日。けど…その日々は、決していつも通りの毎日じゃなかった。頭の中にはいつでも舞歌ちゃんがいた」
まるで恋する乙女みたいだな、と冗談めかして言う司に、静歌は苦笑いさえ浮かべることが出来なかった。
なんの反応も示さない静歌に、逆に苦笑いを浮かべながら、司は言葉を繋げる。
「そうやって半年近くが過ぎたある日、真希ちゃんから現状を知らされた俺は、すぐに院長室に行って事情を説明した。すげー反対されたよ。沢山の患者さん達がお前の助けを待ってる。その患者さん達を裏切って、たった一人の為に固執してどうするんだ、ってな」
苦笑いしながら頭をぼりぼりとかく司。その姿は紡にとてもよく似ていた。
いや、紡が司に似ている、が正解か。
「院長の意見はもっともだ。俺もそう思う。俺は自分の仕事に、医師という仕事に、誇りと責任を持っている。人の命を与る、人の未来を作る仕事だからな。それを投げ出してまで、たった一人の少女に固執する理由なんて、本来はないんだ。…けどな」
司の話しを黙って、無表情で聞いていた静歌の瞳を、司の、強い決意を秘めた瞳が捉える。
静歌はもう、司の言いたいことはわかっていた。
そして、司も静歌がわかっていることを理解していた。
しかし、それでも司は口を開く。
そして静歌も司の言葉を待った。
二人とも、言葉にしないと伝わらないことがあることを、知っているから。
「けど、俺は舞歌ちゃんを治療しないと、先に進めないんだよ」
想像通りの司の言葉に、静歌は頷くことはしなかった。
ただ黙って先を促す。
「俺は、おかしいと言う声を軽んじ、その結果、患者に一生ものの傷を残してしまうことになった。…ズタボロなんだよ。俺の医者としての自信も、誇りも」
司は視線を静歌から自分の右手に移す。
彼は胸元に上げた手を、きつく、握る。
それは彼の決意の表れだろうか。それとも悔しさと苛立ちの表れか。
静歌は、間違いなく後者だと思っていた。
「…償いとかかっこいいこと言っときながら、結局俺は、俺自身の為に舞歌ちゃんにこだわってるんだ。俺が俺自身を取り戻す為に、舞歌ちゃんの手術をする必要があるんだ。心臓外科医の名医、草部司として、可能な限り彼女の傷が小さくなるように手術して、し終えて、そこで俺はようやく、先に進めるようになるんだ」
そう言い終えたところで司は、はっとし、拳を解き空を見上げる。
彼のそんな仕草を見て、静歌はようやく小さく、くすり、と笑みを浮かべた。
空を見上げながら自分を落ち着かせていた司は、笑っている静歌に気づき、ばつが悪そうに頭をぼりぼりととかく。
「そう説明したら、院長はしぶしぶと首を縦に振ったよ。そうやって俺はここに来れたんだ。……悪いな。静歌の子供を俺の為に利用する形になって」
そんな司の言葉に静歌は口元に笑顔を浮かべながら目を閉じ、言う。
「まったくよ。私の可愛い娘をそんな形で利用するなんて許せないわ」
「…わりぃ」
「…けどね」
静歌はつぶっていた目を開き、司に視線を向ける。
彼に向ける彼女の表情は、とても穏やかで、優しい笑顔だった。
「けど、そのおかげで舞歌は生きる理由を、大好きな人を見つけることが出来たの。それに、そこまで固執してるってことは、完璧な手術をしてくれるんでしょ?」
「当たり前だ!それは約束する!」
即答した司に、静歌の笑みは深くなる。
「だったら、怒る理由なんて何一つないわよ。…司。舞歌を、私の大切な娘を、よろしくね」
そう、頭を下げる静歌。
そんな静歌に、司はしっかりと頷いた。
「ああ。親友と、“初恋の女”の娘だ。絶対に助けるよ」
そう言い切った司に、静歌はもう一度、穏やかに笑いかけるのだった。