第六十九話(前半)
その建物は、周りの民家に溶け込みながらも、ある種のオーラを出していた。
決して綺麗ではない。しかし、汚いわけでも決してない。
歴史と趣のある白い壁と黒い瓦で彩らた寺。その横にあるアスファルトの道には、その雰囲気をぶち壊しにするような青いスポーツカーが一台、止まっていた。
その青い車のすぐ後ろに、黒いセダンタイプの車が静かに止まる。
運転席から降りた、スーツの上から厚手の黒いロングコートを羽織った男は、青いスポーツカーを一瞥し、懐かしそうな表情を浮かべる。
その男は視線をその車から外すと助手席側に周り、乗せてあった一升瓶を手に取ると、寺の方へ歩き出した。
賑やかな寺など、京都や奈良の、もはや観光地と化したそれ以外にそうはない。
この寺も例に漏れず静かだった。
男の耳に届くのは、自身が踏み鳴らす砂利の音だけ。
一歩踏み出すごとに、その名通りの音が静かに鳴り響く。
じゃり、じゃり…
じゃり、じゃり…と。
そうやって彼は一定の音楽を奏でながら、寺の裏へと回る。
そこには墓地が広がっていた。
都心にあるような、数百の数が並ぶ霊園とは違い、周りにある民家のご先祖達が眠る、わずか十数個しか墓石のない、こじんまりとした墓地。
その墓地の奥の一画へと、彼は歩いて行く。
彼は、ある墓石の前で足を止める。
彼が目的としていたその墓石の前には先客がいた。
襟元に灰色のファーのついた、けれどもけして成金趣味ではない洒落た白いトレンチコートと、タイトなジーパンに膝下までの黒いレザーのロングブーツという、およそ墓地には似つかわしくない格好の女が墓石の前に座り、手を合わせていた。
男はその女に、なんの躊躇もなく話しかける。
「墓参りになんて格好で来てるんだよ」
「だからこそよ。悟に会いにくるのに、変な格好でこれるわけないでしょ」
「あーそうかい」
女も驚いた様子もなく男にそう返し。
二人の話し口調と会話は、二人が顔見知り以上の関係であることを示していた。
墓石に、いや、そこで眠っている想い人に手を合わせていた女は立ち上がり、男の方へと振り返る。
しばしの見つめ合い。
目で会話をする、という表現があるが、この二人は今、まさにそれをしているようだった。
見つめ合い、いろいろな思いを交差さている、そんな雰囲気が二人から出されていた。
やがて、目での会話を終えたのか、今度は口での会話を始めようと、女が口を開く。
「…こうやって、プライベートで会うのは何年ぶりかしら? 本当、久しぶりね。“司”」
「…そうだな。久しぶりだな。“静歌”」
そうやって、女――遠野静歌と、男――“草部司”は小さく笑い合うのだった。
第六十九話
「よう、悟。久しぶり。悪かったな。なかなか来てやれなくてさ」
司は、墓石に手を合わせたあと、つぶっていた目を開き、そう話しかけた。
「本当はもっと早く来たかったんだが、いろいろと忙しかったんだ。許せよ」
司は脇に置いてあった一升瓶を手に取ると、蓋を開け、墓石の前、主に供物を乗せる所に置く。
「詫び、ってわけじゃないが、お前が好きだった酒持ってきたから。飲んでくれ」
「……ねえ、司」
司の後ろに立ち、彼等の会話を黙って聞いていた静歌だったが、おずおず、といった感じで口を開いた。
「何を今更、って思うかもしれないけど…よかったの?ここに来て…」
静歌の問いは、墓地に来て、という意味じゃない。
東京からこんな田舎に来てよかったのか、という意味だ。
静歌はもちろん、司が世界で活躍する心臓外科医だと知っていた。
紹介状を書いてもらい行っ病院、紹介してもらった医師が司だったのは全くの偶然だが、逆にその時静歌は驚く以上に安心したのだ。司になら任せられる、と。
しかしその後、舞歌が予想外の行動を起こし、治療どころの話しではなくなってしまったのだが、その時、少しだけ電話で司と話しをした時、彼がとても忙しいことを知った。
毎日のように相談や診察、手術の予定が入っていることを。
彼がこの村に来た時は驚き、そのことまで頭が回らなかったが、舞歌の件も落ち着き、他のことに気を配れるようになった今、その点が心配になったのだ。
それらをほったらかしにしてここに来て大丈夫なのか、と。
静歌の質問を受けた司は、立ち上がりながら頭をぼりぼりとかきながら言う。
「いいわけねーだろ。このことがマスコミにばれたら大騒ぎになるさ」
司は語った。
自分がここにいるのを知っているのは、病院の院長と、自分の信頼出来る部下の二人だけだということ。
他の人達には、アメリカの病院へ行き、そこで世界有数の名医の元で、手術の助手を兼ねた勉強をしていることになっていること。
ここに来るために、約一年近くもの間、休みなく働きスケジュールを調整したこと。
「向こうに帰って舞歌ちゃんの手術が終わったら、むこう半年は休み無しだ。ったく、超過手当よこせつーの」
「…そこまでして、なんで?」
静歌は申し訳ないと思うよりも先に、疑問に思った。
なぜそこまでして舞歌のことを助けようとしてくれたのだろうか?
静歌は司の性格をよく知っている。
彼は助けを求める者のことは命懸けで助けようとするが、生きるのを諦めている者へは、非情なまでに冷たい。
その彼がなぜ、そうまでして舞歌のことを治そうとしてくれたのか、静歌は疑問だったのだ。
「……償い、だからかな…」
目を細め、辛そうに、申し訳なさそうにそう呟いた司を見て、静歌は、はっとした。
「償い、って…。あれは司のせいじゃ…」
「わかってる。悟はそんなことで人を恨んだりするようなやつじゃなかった。でも考えちゃうんだよ。俺が悟の話しをきちんと聞いてやっていれば、違う未来が待っていたのかもしれない、ってな」
「それは…」
言葉に詰まる静歌を横目に、司は空を見上げた。
冬の遠い空には、ぽつぽつと白い雲が泳いでいて。
ふぅ、と小さくはいたため息は、白い筋となり、やがて空へと吸い込まれる。
「悟から、なんとなくこっちの病院がする身体検査がおかしい、って話しを聞かされた時、俺は仕事を言い訳にそのことを後回しにしてしまった。そうやって後に後に回しているうちに悟は死に、お前と舞歌ちゃんが紹介状を持って俺の前に現れた」
「………」
「後悔したよ。悟の言うことを真摯に受け止めていれば、舞歌ちゃんの心房中隔欠損症は早期発見出来て、カテーテル治療を受けることが出来たはずなんだ…。それなのに、彼女は開胸手術するしか治療が出来なくなった。残さなくていい傷を残さなくちゃいけなくなったんだ。俺の、せいで…!」
「司…」
悔しそうに拳を強く握りしめる司を見て、静歌はなんとなく、悟った。彼が舞歌にこだわる理由を。
静歌の呟きともとれる呼びかけに、それでも我を取り戻した司は、握っていた手を開き、苦笑いを浮かべながら空を見上げた。
それが気持ちを落ち着けるための彼の癖だと知っていた静歌は、彼が気持ちを落ち着けるのを待った。
「…後悔したんだけどさ」
そうやって十数秒の間を挟み、司は顔を下ろし話しを再開する。
「同時に喜びも感じたんだよ。舞歌ちゃんが他の心臓外科医のところに行かなくてよかったって。これで俺は、悟にも、舞歌ちゃんにも、せめてもの罪滅ぼしができるって…。自己満足以外のなんでもないけど、俺はそう思ったんだ」
けど、と司は続ける。
「入院予定日になっても舞歌ちゃんも静歌も姿を表さなかった。慌てて連絡したら、舞歌ちゃんが引きこもって部屋から出て来ない、だもんな」
当時のことを思い出したのか、司は渇いた笑顔を浮かべていた……