第六十八話(後半)
「つむ、ぐ…?」
俺の言葉に、揺れる舞歌の瞳。
彼女は、俺は、俺なら頷くと思っていたのだろ。
だからこそ、俺の返答にここまで動揺しているのだ。
こんな瞳は見ていたくない。すぐにでも笑顔にしたい。
けど、その結果が“ごっこ”へと繋がるのであれば、逃げることはしたくなかった。
不安に揺れる舞歌の幼子のような瞳をしっかりと見据えながら、俺はきちんと自分の考えを伝える。
「俺は、舞歌みたいに人目を全く気にせずに自分のしたいことが出来るわけじゃない。人の評価、とかは気にならないけど、それでもやっぱり、ある程度、人目は気になる」
「…そっか」
しょんぼりとする舞歌。
そんな舞歌に俺はさらに追い撃ちをかける。
…彼女からしてみたら、自分への援護射撃になるのかもしれないけれど。
「ああ。悪いけど事実だ。まあ、それでもだいぶ気にならなくなってはきているんだぞ?」
「そう、なの?」
「ああ。誰かさんが人目を一切気にせず抱き着いたり、キスしたり、恥ずかしいことを大声で叫べば、嫌でもそれに慣れて、人目なんか気にならなくなってくる」
「え…?」
戸惑った顔の舞歌に、俺は頬杖をつきながら苦笑いを向ける。
「東京にいた時さ、よく夜の駅で抱き合ってるカップルや別れ際にキスしてるカップルを見かけてさ。人目を気にせずよくも出来るな、なんて思ってたんだけど、あれって慣れなんだな。今ならそれがよくわかるよ」
彼かも、よほど羞恥心を捨ててない人でない限り、やっぱり恥ずかしいはずだ。しかしそれを繰り返しているうちに、それが当然になってしまうのだろう。
だから人目を気にせずああいう行為が出来るのだ。
「静歌さんや真希、クラスメートの前でやられるのは、多分慣れそうもない。けど、前はここで手を繋いで歩くのにも人目が気になっていたけど、今日は全く気にならなかった」
静歌さん達の前で抱き着かれたりキスされたりするのには慣れそうもない、というよりも慣れたくない、が正解だった。
慣れてしまったら、人としての何か大切なものをなくしてしまいそうだから。
「そうやって慣れていくうちに、人目なんか気にせずにいろいろなことが出来るようになっていくんだろうな。人前で俺から舞歌にキスする、なんて姿は全く想像出来ないけど」
「紡…」
次第に舞歌の顔に笑顔が戻ってくる。
彼女は俺の言いたいことがわかったのだろう。
「ま、お前が変わるつもりがないなら、そのうち慣れていくと思うからもう少し待ってろよ」
「うん!」
そう頷く舞歌は、満面の笑顔。
俺は数分前に、これと同じ笑顔を作れた。けど、もしそうしていたら、俺はこうして彼女を見ながら笑ってはいられなかっただろう。
自分の胸の内を全部見せると決めた。
だけど、それを実践するのには、かなりの勇気がいることだと、俺は今日、初めて知った。
そして同時に、そうやって俺の考えを、気持ちをわかってもらえた時の笑顔がすごく嬉しいことも、知った。
舞歌なら、俺の全てを知っても俺の隣で笑っていてくれると思えるのは、惚気だろうか?
「あ、話しが逸れちゃってたね。それじゃあ、どうしようか?紡、今の家で一人暮らしするの?」
「……あー」
俺は考えるふりをして、視線を斜め上に逸らした。
…言えない。話題をふった張本人が、そのことを忘れていたなんて、言える訳がなかった。
「紡…?」
不振そうな眼差しを向けてくる舞歌。
勘の鋭い彼女が真実に気づく前に、俺は素早く話しを始めた。
「お、俺は、常識で考えるなら一人で住むべきだと思う。そうすればなんの問題も起きないからな」
「そっかぁ…。残念…」
本当に残念そうに俯く舞歌。
そんな彼女に声をかけるよりも早く、舞歌は何かを思い付いたのか、勢いよく顔をあげる。その表情は、先程までとは打って変わって笑顔だった。
「あ!じゃあ私通い妻する!」
「……すまない。ちょっと急に耳が遠くなったみたいなんだ。だからいまいちよく聞き取れなかったんだが…」
「じゃあ私通い妻するっ!!」
「耳元で叫ぶなこのアホがーっ!!」
おそらく俺が現実を受け入れられず、目を閉じ額に手をあてていた時に近寄ってきたのだろう。
先程まで俺の正面にいたはずの舞歌は、俺の隣で俺の耳の上下をそれぞれ左右の親指と人差し指で引っ張り思い切りそう叫んだのだ。
「だって紡が下らないこと言うからでしょ!?」
「お前がアホなことを言うからだろうが!!」
「アホって何が!?あ。通い妻が気に入らなかったんだ。じゃあ新妻で」
「このアホな子がーっ!!」
場所もわきまえず騒ぐ俺達。
そんな俺達には当然奇異の眼差しが向けられて。
でも舞歌はもちろんのこと、俺もそんなもの気にもせずに騒ぎ続けたんだ。
……どうやら俺が人目を気にしなくなるのは、そう遠くはないらしい…
――そうやって騒ぐ俺達は、知らなかった。
今二人で、冷静にとはいえないかもしれないけれど、話し合って出した、一緒には住まないということ。
そのことを嘲笑うかのような出来事が、今同時刻で進行していることも、そして今から数時間後にそれを告げられることも、この時の俺達は知るよしもなかったんだ……