第六十四話
第六十四話
「向こうに戻る、って、家はどうなるんだ?」
親父と幼稚なやり取りを終え、冷静に戻った俺は、とりあえずその原因を忘れ、当面の、現実の問題を片付けることにしたんだ。
疲れた体を食卓の椅子に預け、同じ様に俺の前に座った親父にそう切り出す。
「家ならあるぞ。前住んでいた家をそのまま維持してるから」
「…なるほどな」
親父の言葉に俺は盛大にため息をついた。
俺がここに来た理由は、俺のわがままで親父に経済的負担をかけたくないからだ。
なのに、親父は住人のいない元の居住地をそのまま維持してると言う。
つまり俺の気遣いなど、最初から意味のないものだったのだ。
けど、そのおかげで俺は舞歌に出会えたし、いろいろなことを学ぶことが出来たのだから、今回だけは不問にすることにした。
「…で?俺はどうしたらいいんだ?」
疲れた表情を隠しもせず、俺は親父にジト目を向ける。
それに対しての親父の答えは、実にシンプルなものだった。
「お前はどうしたいんだ?」
「…俺?」
どういうことかと眉間にシワを寄せる俺に、親父はさっきまでしていた幼稚な態度が嘘のような大人の視線を俺に向けて、優しい口調で言ったんだ。
「お前はもう、流されるままの子供でも、絶望に打ち萎れる弱者でもない。自分の意思で道を選べる一人の大人だ。だからお前のしたいようにすればいい」
親父が俺を認めてくれたのは嬉しかった。
しかし、それでもやはり、その時の俺は戸惑ってしまったんだ。
だって俺は自立した、生活力のある大人ではないのだから。
いくら好きにしていい、といっても、その結果生活が出来ないのでは本末転倒でしかない。
「…でも、それだと…」
「紡」
そう思い口を開いた俺を、親父が止めた。
「俺は医者だ。それもかなり優秀な分野に分類される。だから、給料もそれなりの、一般のサラリーマンが貰っているよりも遥かに高い額を貰っている。現にここを借りながら向こうを維持していてもなんの問題もない。だから気にしなくていいんだ。お前は好きなように生きればいい。…守るべき人がいるんだろ?」
親父の問い掛けに、俺は静かに瞳を閉じ。
浮かべたのは舞歌のこと。真希のこと。静歌さんのこと。みんなのこと。
そう。俺には守るべき人が、過ごしたい大切な場所がある。
瞳を開き俺はしっかりと親父の目を見る。
そしてゆっくりと、頷いたんだ。
・・・・・・・・・・・・
「そういう訳で、親父ときちんと話し合って、親父の同意を得て俺はこっちに残ることにしたんだ。親父には、やっぱり申し訳ないって気持ちはあるけど、それでも俺はこっちにいたいからな」
「舞歌の側に、でしょ?」
にやにやとしながら、真希がそう言ったので、俺は睨み、
「うるさい」と告げる。
実際その通りなので、強く言えないのが、少し悔しい。
俺の睨みに対しても、見透かしたような――実際見透かされているのだろうが――笑顔を向けてくる真希から視線を外すと、俺と真希との間に座っている舞歌が、右手で口元を覆うポーズをし、少しうつむきながら真剣な表情をしている姿が目に入った。
そういえば確かに違和感が残る。
舞歌のことだから、俺がこっちに残ると言えば、騒ぐだろうと思っていた。
しかし彼女はそうせず、真剣な顔をしながら、おそらく考え事をしている。
そのことが意外であり、同時に、不吉だった。
……この予感が間違いではなかったと悟るのに、数分もかからなかった…
「…紡はさ」
俺の視線に気付いた舞歌は、そのままのポーズを保ちながら、俺に視線だけを向けて言う。
「紡は、お義父さんに家賃を払わせるのを、申し訳ないって思ってるんだよね?」
「あ、ああ。親父はいいって言ってくれてるんだけど、やっぱり申し訳ないと思ってる。だから、一人の生活が落ち着いたらアルバイトをして、少しずつ帰そうかなと思ってる」
「…だったらさ」
そこで舞歌はポーズをやめる。そしてゆっくりと俺に顔を向ける。
そう。満面の笑みを浮かべた顔を。
「だったらさ、私の家に住めばいいじゃん」
「………は?」
予想すらしていない、いや、予想することも出来ない有り得ないことを、さもグッドアイデアとばかりのように言う舞歌。
…彼女のこの表情は見間違いで、さっきの言葉は空耳であってほしかった。
「舞歌…?お前は何を…」
「だから、一緒に住もうって言ってるの」
俺のはかない願望は、あっさりと消え去る。
舞歌の提案。それはまさしくパンドラの箱だった。
舞歌のことだ。こう言い出したからには、それをなんとしてでも現実のことにしようとするだろう。
一緒に住む。
そのこと自体はそれほど嫌なことではない。むしろ舞歌と毎日一緒にいれるのだから、幸せなくらいだ。
しかし、それを軽く凌駕する不幸が、俺には見えていた。
舞歌と一緒に住めば、彼女のことだ。毎日、隙を見ては抱き着いたりキスをしてきたりするだろう。
そのこと自体も嫌ではない。
嫌なのは、かなりの高確率でそれを静歌さんが写真やらムービーやらに収めることだ。
しかもそれを間違いなく俺に見せてくる。そうやって俺が悶絶するのを見て楽しんでいるのだ。あの人は。
それだけではない。舞歌のことだ。間違いなく学校でそのことを言うだろう。
……佐藤やら佐藤やら佐藤やらが騒ぐのが目に見えて明らかだった。
「……はぁ」
数多くの絶望を前に、思わずため息がこぼれた。
「…嫌、かな…?」
それを見、聞いた舞歌は、不安そうな、少し悲しそうな表情で俺を見つめる。
俺が弱い、あの年相応の女の子の眼差しで。
…断れるわけがなかった。
「…わかった。親父に話してみるよ」
「本当!?」
満面に咲く笑顔を見て、俺は内心でため息一つ。
どうやら俺はこの一つ年上の同級生には一生勝てないらしい。
舞歌の後ろから注がれる、真希の生暖かい視線を黙殺し、俺は舞歌のその嬉しそうな笑顔を眺め続けた。
そうやって、目先の絶望から目を反らすしかなかった。
絶望のあとから出てくる希望。
とりあえず俺はそれを待つことにしよう。
そんなものがあれば、の話しだけどね……