第六十二話
「…ふぅ」
エンジンを切った愛車を砂利道ではあるが屋根のある所定の位置に戻し、俺はヘルメットを脱ぐ。
そのまま左手にした腕時計を見て、思わず頬を引きつらせた。
「…どんなけ騒いでたんだよ、俺達…」
舞歌の家を出ようとした時は、確か10時過ぎだった。
しかし実際に家に着いたのは12時近く。
舞歌の家から俺の家までが、特別離れているという訳ではない。
30分もあれば着く距離。
ではなぜこんなにも時間の間隔があいたのかというと、理由は明白。
幼稚なやり取りを長い時間していたに過ぎない。
今までこんなことはなかった。
むろん幼稚なやり取りは何回もしてきたが、してせいぜい15分。
その程度続けると、たいていどちらかが自然とそのやり取りをやめる傾向にあった。
しかし、今回はそれがなかった。飽きるくらいループする幼稚なやり取りをやめようとしなかった。
それは楽しかったからだ。
俺も舞歌も、以前とは違い心に壁を作っていない。
一戦を引いていない。
だからこそお互いの心に踏み込み、言いたいことを言い合う。
その感覚が、たまらなく心地よかったんだ。
だからこそ止まらなくなった。
見かねた静歌が仲裁に入らなかったら、今でも続けていたかもしれない。
それくらい俺達は楽しんでいたんだ。
しかし…
「いくら楽しいからって、これは流石に問題だよな」
楽しい時間が速く過ぎるのは知っている。
けどそれを際限なくやっていいわけではないことも、知っていた。
気をつけよう。そう考える俺だったが、顔に浮かぶのは苦笑い。
しばらくは無理だと、自覚しているからだ。
「…ん?」
少しずつ変えていこう、そう考えながらバイク置場から数メートルと離れていない玄関へと歩き、戸を引いた俺は、鍵がかかっていることに気づいた。
親父は、帰宅して俺がいないと帰ってくるまで必ず鍵を開けていておいてくれる。
不用心、とも思うが、それは親父の愛情の表れだと俺は知っているので、何も言ったことはない。
つまり鍵がかかっている、ということは親父がまだ家にいないということを示していた。
「めずらしいな。この時間に親父がいないなんて」
親父は遅くても11時までには家に帰ってきている。
急患でも入ったのだろうか、そんなことを考えながら俺は家の鍵を開けた。
「ただいまー」
たまたま鍵をかけてしまったのかとも思い、一応帰宅の意を示すが返事はない。
居間も明かりが点いていないし、足元にも親父の靴がないので、やはり帰宅はしていないみたいだった。
玄関の鍵はかけず、俺は靴を脱ぎ家にあがる。
フローリングの床をスリッパを履かずに歩き、とりあえず居間に向かう。
電気のスイッチを操作し部屋を明るくした俺は、入口を入ってすぐの所にある電話を見る。と、案の定留守電のランプがちかちかと光っていた。
ヘルメットを食卓の上に起きながら、再生のボタンを押す。
『あー紡。悪いな急患が入って遅くなるから、先寝ててくれ』
「やっぱり…」
想像通りの親父からのメッセージに、俺は息を吐く。
おそらく携帯電話からのメッセージには声とは別にがちゃがちゃと何かをせわしなくいじっている音がしていた。
「大変だな、親父は」
疲れて帰ってくるであろう親父の為に夜食でも作っとくか、と台所に行こうとした俺の足は、予期していなかった次のメッセージに止められた。
『えー、○×大学病院の西川です。遠野舞歌さんの手術の件のスケジュールの調整が出来ました。また当初の契約通り、彼女の手術が済みましたら草部先生にはこちらに戻って来て頂く予定になっています。そのためのスケジュールの調整を…』
「……え?」
第六十二話
契約?戻る?
予想もしていなかった内容の単語に俺の頭は混乱し、足はその場に縫い付けられる。
聞き間違いかと思い再度メッセージを再生するも、流れてくるのはやはり同じ内容。
「ただいまー」
どういうことかと立ち尽くす俺の耳に飛び込んできた、親父のその言葉に、俺はびくり、と体を震わせた。
「あー疲れた。紡何か食べるもの…紡?」
紺色のコートとスーツの上着をを食卓の椅子にかけ、ネクタイを緩めたところで、親父は俺の様子がおかしいことに気がついた。
「どうした紡?」
訝しそうに聞いてくる親父の目を、俺は同様を浮かべたままの瞳で見つめかえす。
「…親父…契約、って…なんなんだ…?」
「――っ!?」
親父は驚愕の表情を浮かべ、そして、俺の立っている場所、食卓の上におかれたヘルメットから全てを察したらしい。苛立たしそうな表情を浮かべて小さく毒づく。
「西川め…!連絡は携帯にしろと言っておいたのに…!」
「…なあ、親父。どういうことなんだ?」
その表情で、言葉で、俺はそれが現実のことなんだということを悟った。
疑問は確信へ。戸惑いは苛立ちへと変わる。
しかし、騒ぎ立てることはもう、しない。そんなことをしても意味のないことを、この二ヶ月で学んだから。
静かに親父の目を見ながら、俺は返答を待つ。
「…最初に言い訳だけさせてくれ。決して隠すつもりはなかった。けど、舞歌ちゃんの問題が解決するまでは無意味だから言わなかっただけなんだ。今日、紡にきちんと伝えるつもりだった」
「…わかった。じゃあ聞かせてくれ。どういうことなのか」
俺がそう答えると、親父は意外そうな顔をした。
「怒ると思っていたんだが…怒らないのか?」
「その言い方だと怒ってほしいように聞こえるんだけど」
「いやそういう訳じゃ…」
疑問そうに顔をしかめる親父に、俺は小さく笑いかけた。
「親父がそう言うんなら、その通りなんだろ?理由があったから言わなかった。ただ黙ってたなら一発殴ってたけど、理由があるなら怒る理由はないよ」
「…成長したな。紡」
眩しそうに俺を見る親父の視線が照れくさくて、俺は顔を背けた。
「まあ、いろいろとあったからな」
「…そうか」
優しい口調の親父は、きっと優しい表情を浮かべている。
認めてくれたのは嬉しいけど、普段見せないそんな顔をされても反応に困る。
とりあえず俺は、咳ばらいを一つして先を促した。
「で?どういうことなんだ?」
「ああ。まあ結論から言うと、俺は舞歌ちゃんの手術が終わったあと、元いた大学病院に戻る契約になっているんだ」
「…なんでそういうことになってるんだ?」
俺の問いに、親父は真面目な、医者としての顔で答えたんだ。
「それは、俺が命を与る立場の人間だからだな」