第六十一話
第六十一話
「とりあえず、冷たいお茶でいいかしら?」
ぜいぜいと肩で息をする俺と舞歌は、静歌さんの言葉に、無言で頷く。
そして差し出されたお茶を、二人とも一気に口に含み、そしてようやく一息つくのだった。
俺達は幼稚なやり取りを、息が切れるまでやり続けた。
なぜそこまでヒートアップしたのかは自分でも不明だが、これでは舞歌だけでなく、俺までがアホな子だ。
……そのことを考えて、俺は少し泣きたくなった。
「ふー!生き返ったぁ!…って紡?なんでそんな複雑な顔してるの?」
「…なんでもない」
「?変な紡」
なかったことにしよう。この事実はなかったことにしよう。
そう俺は無理に納得した。
そう俺が自己完結しながらお茶て喉を潤していると、静歌さんが笑いながら言う。
「本当、二人は仲がいいわね。息もピッタリだし」
「もちろん。だって夫婦だから」
「だから夫婦じゃないだろうが…」
「もー紡!いい加減認めなよ。私と一緒に生きてくれるんでしょ?」
「そうだけどさ…。けど未来なんて誰にもわからないんだから…」
「大丈夫。私は、紡以上に好きな人なんてできない。あの夜にくれた優しさも幸せも、紡だから作れたんだよ。私は紡だから生きようって思えたんだから。それに、紡のことを私が好きでいさせ続ければ、そういう未来になるでしょ?」
「それは…確かにそうだけど…」
「でしょ?だから大丈夫!」
にぱっ、と幼い笑顔を見せる舞歌。
そんな笑顔を見ていると、不思議とそんな気になってくる。
「…そうだな。大丈夫だな」
「うん!」
「だー!だからって抱き着くなー!」
舞歌に抱き着かれるのはもう諦めた。だが、それを公衆の前で、しかも、舞歌の母親である静歌さんの前でやられるのには、やはりかなりの抵抗があった。
しかし当の静歌さんは楽しそうに微笑んでいた。
「ふふ。紡君。舞歌のこと、泣かせたら駄目だよ?」
彼女は軽い気持ちで、その言葉を言ったのだろう。
しかし俺は、その言葉を流して頷くことは出来なかった。
「それは無理だと思います」
「…どういうことかしら?」
俺の言葉が意外だったらしく、一度目を見開き、そして細め、俺に鋭い視線を向けてくる静歌さん。
ちらり、と俺の腕にいる舞歌に視線を送る。
彼女は俺の言葉の意味をきちんと理解しているらしく、安心と信頼の眼差しで、俺を見つめていた。
俺はそんな舞歌に微笑んでから、再び静歌さんへと顔を向ける。
「静歌さん。あなたは、旦那さんと喧嘩して、傷ついたことはありませんか?」
「紡君。今はそういう話しをしているんじゃ…」
「そういう話しなんですよ」
「え…?」
怪訝そうな表情の静歌さんに、俺は笑いかけた。
「俺は舞歌と、恋愛ごっこをするつもりなんかないんです。静歌さんと旦那さんがしたような、きちんとした恋愛をしたいんです。そういう恋愛していれば、当然喧嘩することだってある。喧嘩して、傷つけて、泣かせてしまうことだってあると思います。それに俺だって、舞歌に傷つけられ、立ち直れなくなる傷を再び負うことになるかもしれない」
「………」
「でもそれが本当の恋愛だと思います。傷つけて傷つけられて。それでも分かち合いながら、支え合って。俺はそうやって、舞歌ときちんと向き合いながら、舞歌と一緒に生きたいと思っています。だから、泣かさない、傷つけないという約束はできません」
「………」
静歌さんは言葉を失い、驚いた表情を浮かべていた。
それはそうだと、俺は思う。高校生の、まだ成人もしていない子供が、プロポーズともとれる言葉を言ったのだから。
驚いたままの静歌さんの視線と、俺の視線が交際する。
しばらくの見つめ合いの末に、表情を崩したのは静歌さんの方だった。
呆れたともとれる穏やかな微笑みを浮かべながら言う。
「本気、なのね?」
「ええ」
迷いも、ためらいもなく、俺は頷く。
迷うことも、ためらうことも、悩むことも、そんなことをする必要なんてどこにもないから。
「…本当、成長したわね。紡君」
感慨深そうにそう微笑む静歌さんに俺は苦笑い。
「いろいろありましたから」
そんな俺に小さく笑い、静歌さんはその視線を舞歌へと向ける。
「いい人と出会えたわね、舞歌」
「うん!」
少しの間もなく頷く舞歌。
嬉しそうなその瞳には、少しだけ涙が浮かんでいて。
「なんで涙ぐんでるんだよ。お前は」
「だって、嬉しいから」
舞歌は涙を拭うこともなく、泣き笑いをしながら、俺の腕をより強く抱きしめた。
「紡。私、あなたに会えてよかった。大好きだよ!」
「……ああ。俺もだよ」
舞歌の頭を、俺は優しく撫でる。
そんな俺達を見て、静歌さんは、あらあら、と笑った。
「本当、約束させなくてよかったわ」
それがいやみではなく、俺に対する冷やかしとからかいだということはすぐにわかった。
俺は、やっぱり苦笑いしか出来なかった。
・・・・・・・・・・・・
「遅くまですいませんでした」
「いえいえ。また来てね紡君」
夜10時を過ぎようという頃に、俺はやっと遠野家の玄関をくぐった。
こんな遅くまでいるつもりはなかったのだが、気づいたらこんな時間になっていた。
楽しい時間は速く過ぎるというが、まさにその通りだった。
「それじゃ舞歌。明日8時くらいに迎えに来るから」
「うん。あ、紡」
「ん?――っ!?」
バイクにまたがり、ヘルメットを被ろうとしていた俺の口に柔らかな唇が触れる。
一秒に満たないうちに離れたが、その感触は生々しく残っていた。
「ありがとうと、おやすみと、また明日のチューだよ」
「チューって…お前な…静歌さんの前ではやめろって…」
「嫌」
俺の言葉を遮り、舞歌はカリスマの瞳で言う。
「一度生きることを諦めた私は、人が生きる時間には限りがあることを知っている。だからね、恥ずかしいとか、格好悪いとかの理由でしたいことをしないことが後悔に繋がることをよくわかってるの。あの時ああしとけばよかった、そんな後悔したくないから。だから私は、今まで以上に自分に素直に生きるの。人生のはかなさを、そして、生きられることの嬉しさを知ったから。…紡が教えてくれたから」
「…舞歌…」
そんな台詞を、以前よりも遥かに輝きの増した瞳で言われては、俺は何も言い返せない。
「だから紡。これからもいろんな所でチューするからヨロシクね」
「ああ……ってちょっと待て」
頷きかけたところで、俺は冷静さを取り戻した。冷静さが戻って来てくれた。
「それとことは話しが違うだろ!?お前が好きに生きるのはいいことだけど、なんでそんないたるところでキスをしなきゃいけないんだよ!?」
「えー!?ダメなのー!?紡は私とチューしたくないの!?」
「いや…したいけどさ…」
「ならいいじゃん。いたるとこでこんな可愛い子とチューし放題だよ。ひゅ〜紡君幸せ者〜」
「…お前って自由人って言うよりも、やっぱりアホな子だろ?」
「ちょ…!?どういう意味!?」
ぎゃーぎゃーと突っ掛かってくる舞歌。それに同じ様に騒ぎながら返す俺。
もはや恒例となったそのやり取り。
以前と違うのは、二人ともが、心からそれを楽しんでいるということだろう。
星と風。揺れる木々に、冬なのに可憐に咲いている花々。そして優しく微笑んでいる静歌さん。
彼女らに、見守られながら、俺達は飽きることなく、幼稚なやり取りを楽しんでいた。
二人でいられることの喜びを、噛み締めていた。