第五十七話(後半)
「変な想像をしているところ悪いけど、性的な意味じゃないから。紡の胸で最初に泣いたのは私、って意味だから」
「…そういう意味か」
思い切り勘違いしてた俺は胸を撫で下ろした。
俺の初体験の相手は、東京にいた時に付き合っていた元彼女だし、真希とそういうことをした覚えももない。舞歌をからかうでたらめかとも思ったが、違ったらしい。
まったく。言い方がまぎらわしいんだよ。
そうって内心で愚痴を言っていると、右手を握られた。
「…紡。どういうことなのかな?」
俺の手を握っているのは、もちろん舞歌。しかし、彼女の浮かべている笑顔は今まで見たことがないものだった。
「なんで怒ってるのか全くわからないんだが、とりあえずその笑顔はやめろ。怖いから」
とりあえずなだめてみるも、効果はなく。
怖い笑顔を浮かべたまま、質問を繰り返す。
「真希が泣いたのは紡に聞いたから知ってるよ。けど、なんで真希は紡の胸で泣いたのかなぁー?紡泣いてる真希に何したのかなぁー?」
「何もしてないから。それに俺は悪くない。真希が俺を押し倒して…」
「押し倒した!?」
俺の言葉を遮り、舞歌は悲鳴のような声をあげた。
そして素敵な笑顔を、そのまま真希へと向ける。
「真希ー?どういうことなのかなぁー?」
こめかみがぴくぴくしている。どうやら相当きているらしい。
からかうのもその辺にしとけ。
俺がその言葉を言うよりも早く、真希が口を開く。
「あら。その時は舞歌は紡の彼女でもなんでもなかった訳でしょ?その時のことをあれこれ言われるいわれは無いはずだけど?」
「う…」
やはり彼女には議論家としての才能がある。
あの舞歌を黙らせるとはそうそう出来るものではない。
…そもそも彼女が悪のりしなければ最初からこういう事態にはなっていなかったという事実は、この際触れないでおこう。
「だいたい胸で泣いたくらいで何を妬いているのかしら。あんただって紡の胸で泣いたし、キスだってしてるんでしょ?それに心房中隔欠損症の手術したら、セックスだってするわけでしょ?あんまり独占欲が強すぎると嫌われるわよ?」
「うー…。紡ぅー。真希がいじめるー…」
「あー…。はいはい」
一切の反論が出来ず、俺の腕を抱きいじける舞歌の頭を俺は撫でる。
気持ち良さそうに目を細めながらも、その顔にどこか不安を浮かべている舞歌。
きっと今の真希の言葉を気にしているのだろう。
まったくこいつは…
「あのな、舞歌」
舞歌に腕を抱かせ、頭を撫で続けながら俺は出来るだけ優しい声色で語りかけた。
「確かに真希の言う通り、独占欲が強すぎる女は、嫌われることもある」
舞歌が体をびくり、と震わせる。
視線が泳ぎ、顔にさらに不安が広がった。
しかし、その不安の表情は、次の俺の言葉であっさりと消え去った。
「けど、俺は嫌わないから。それも舞歌の一部なんだろ?だったら俺はそれを見せてほしい。俺達は恋愛ごっこをしてるわけじない。もちろんお互いの嫌な所を見て、知って、喧嘩することもある。けど、それを受け入れて、乗り越えてこそ、その先の幸せに辿り着けるってことを俺は知った。だから大丈夫。遠慮なんてしなくていい。もっと新しい舞歌を俺に見せてくれ」
「紡ぅー!」
「だぁー!だからって泣きながら抱き着くなー!ほお擦りするな!キスするなー!」
俺の言葉が相当嬉しかったのか、舞歌は涙を浮かべ俺へと遅いかかってきた。
もちろん舞歌にそういうことをされて嬉しくない訳はない。
しかし、俺の理性とか理性とか理性とかが悲鳴をあげているので、今は本当にやめてほしいのだ。
心房中隔欠損症の症状として、息が切れやすいという例があげられる。
体内を循環する血液の内の、酸素を取り込んだ血液の量が少ないのが原因らしいが、まあそれはともかく、舞歌も例に漏れず息が切れやすい。
つまり――
「………」
先程のように騒ぎ続けていたら、ものの数分も持たないのだ。
今は呼吸を落ち着けながら俺の腕に抱き着いている。
俺はしょうがねえなあ、等と思ってはいるが、きっと顔は笑顔なのだろう。
「紡」
俺がそうやって舞歌の顔を眺めていると、真希が俺の名を呼んだ。
舞歌から視線を移すと、真希の嬉しそうな優しい笑顔が俺を出迎えた。
「ありがとう紡。約束を守ってくれて」
約束。
それが何を指すのか、考えるまでもなく俺はわかっていた。
それはあの日、この屋上で交わしたもの。
それは彼女の心からの願い。
『舞歌を、私の大切な友達を…助けてっ!!』
「…確かに舞歌を助けるって真希とも、静歌さんとも約束した。けどさ、結局は自分のためにやったことなんだよ。俺が舞歌と一緒に生きたいから、だから説得したんだ。だから、お礼なんて言わないでくれ」
「…言わせてよ。お礼くらい」
俺の思ったままの言葉に、真希はそう返し、微笑みを浮かべた。
「あんたがいなきゃ、舞歌のことを説得できなかったんだ。舞歌のこういう姿を見ることもできなかったし、舞歌と本音をぶつけあうこともできなかった」
その微笑みは、俺と、そして俺の右手にいる舞歌へ。
「私も、静歌さんも、あんたに感謝してるんだ。だからさ、お礼くらい言わせてよ」
そんな微笑みで、そんな言葉を向けられたら、それ以上拒むことなんて、俺にはできなかった。
「…わかったよ」
真希の気持ちは受け入れる、けど、どういたしまして、とは言わないし言うつもりもない。
なぜなら、俺はやっぱりそれに関して、感謝されることはないと思っているから。
だから言わない。
それが真希にはわかったらしい。だから真希も、笑みを深めるだけで、それ以上は何も言わなかった。
俺達のやり取りを聞いていた舞歌は、穏やかな笑みを携えていた。
「…あ。じゃあ紡。私のこと抱いとく?」
『――っ!!?』
真希がその爆弾を落とすまでは。
「おまっ…!?なに、何言って…!?」
「ちょっ…ま、真希!?」
慌てふためく俺達とは対照的に、真希は実に自然体で。
「ま、お礼みたいなものよ。私自身あんたのことは気に入ってるし、あんたになら抱かれてもいいって思うし。それに、舞歌の手術が終わるまでセックスしないんでしょ?だからそれまで相手をしてあげようかな、って」
「あげようかな、って…。お前自分の言ってる意味わかって…」
「わかってるわよ。それとも紡、私じゃ嫌?」
「嫌ってわけじゃないけど…」
「紡!?それってどういう意味っ!?」
「あ……」
思わず出てしまった本音。
それを舞歌が見落とすわけもなく…
「紡は私の彼氏でしょ!?夫でしょ!?」
「いや…まだ夫じゃ…」
「私とずっと一緒に生きるってことはそういうことでしょ!?」
「あ、その…はい…」
舞歌の剣幕に俺は逆らえない。
「それなのに真希とエッチするってことは浮気だよ!?不倫だよ!?」
「いやするとは言って…」
「おだまりっ!紡!正座しなさい!」
「……はい…」
「あ、なら私の膝の上に座る?」
「紡ーーっ!!」
「今の俺悪くねーだろ!?つーか真希!お前絶対わざと言ってるだろ!?」
「えー?真希ちゃんなんのことだかわかんなーい」
「この小悪魔がーー!!」
「紡!真希に構ってないで、私の話しきちんと聞きなさい!」
「いや、別に構ってるつもりは…」
「構うのはベットの中でだもんね」
「しゃーーっ!!」
「誰か助けてくださーーい!」
騒ぐ俺達三人。
振り回されているけれど、別に、俺は本気で嫌がってるわけじゃない。
舞歌もきっとそう。本気で怒ってるわけじゃない。
舞歌はずっと俺のこと見ているから、見えているわけじゃないけど、きっとわかってる。
笑っている真希の瞳に、涙が浮かんでいることを。
こんな馬鹿騒ぎできる日常を、真希はずっと求めていたんだ。
だから今は大目にみてやることにしたんだ。俺も、舞歌も。
「あ、なんなら私、紡のセフレになろうか?」
『真希ーーっ!!』
……今、だけは…