第五十七話(前半)
第五十七話
「や」
「よ」
それが屋上で交わした舞歌と真希の第一声だった。
そのあまりの素っ気なさに、逆に俺の方が拍子抜けしてしまう。
「なにしてるの紡?そんなアホ面してないで座ったら?」
いつものベンチに座っていた真希は横にずれながら、俺達のためにスペースを作りながら、そう毒を吐く。
確かに俺は今、腑に落ちない顔を浮かべているのだろうが、アホ面とは酷い言われようだった。
それに対し俺が反論するよりも早く、舞歌が口を開く。
「真希。紡の悪口言わないで」
「あー、はいはい」
やれやれ、といった感じで肩をすくめる真希に、舞歌は不満そうに頬をふくらまし。
あまりにも自然なやり取り。自然過ぎて逆に不自然な光景が、そこにあった。
「…紡?どうしたの?」
突っ立ったままベンチに座ろうとしない俺に、真希の隣に腰を下ろした舞歌が不思議そうな顔を向けてきた。
「あ、いや…。やけにあっさりしてるな、って…」
「何?感動の御対面みたいなの想像してたわけ?」
「まあ、な」
あれだけ舞歌のことを思って泣いていた真希。
彼女と昼食の約束をしていると舞歌から聞いた時からずっと、泣きじゃくる二人と一緒で飯なんか食えるのかと、少し不安になっていたのだ。
だからあまりにあっさりしたやり取りに戸惑ったのだ。
そんな俺を見て、舞歌は小さく笑う。
「そっか。紡には言ってなかったね。それね、もう昨日しちゃったの」
「昨日?」
昨日舞歌を家に送って行ったのは、日付変更間近だった。
あの後、風花を眺めてはキスをして。
三回、四回と回数を重ねている内に、少しずつ俺のスイッチが入ってしまいそうになって。
なおもキスを求めてくる舞歌に事情を説明し、なだめ、誘惑から逃げているうちにそんな時間になってしまったのだ。
かなり心が揺れたし、勿体ないことをしたとも思ったが、それは俺が心に誓った決まりだったから、後悔はしていない。
閑話休題。
そんな理由から、舞歌を家に送り届けたのは12時近く。
そんな時間からこの二人は会ったというのだろうか?
東京等の都会なら問題はない。そんな時間でも交通手段はいくらでもあるから。
しかしここではそれがない。
電車もバスもとっくの昔に眠りに着いているし、舞歌の話しだと、舞歌の家の周辺に民家はない。
つまり、真希の家がどこにあるのかは知らないが、舞歌の家に行こうと思ったのなら、あの道を通らなくてはならない。
あの時間に、あの明かりの無い道(比喩でもなんでもなく、事実。昨日初めて夜の道をバイクで走ったが、男の俺ですら恐怖を感じるくらいの闇が広がっていた)を通ったのだろうか?
そんな疑問の視線を真希に向けていると、彼女はその視線の意味を正しく解釈したらしく、解説を告げた。
「静歌さんが気を利かせてくれたのよ。7時くらいに電話があって、舞歌が紡に説得されて帰ってくるから、今日は家に泊まりなさい、ってね。で、帰ってきた舞歌と感動の御対面は済ませちゃったのよ」
「…なるほど」
静歌さんにしろ真希にしろ、ずいぶんと俺のことを信頼してくれたものだ。
俺が舞歌を説得できなかったらどうしていたのだろうか?
それ以前に、俺が誘惑と欲望に負け、舞歌を家に帰さず抱いていたらどうしたのだろうか?
……まあ、俺のことを心から認めてくれているということで納得しておこう。
「真希にね、すごく怒られた」
そんな感じで俺がようやく舞歌の隣に腰を下ろすと、舞歌がそう、苦笑いしながら言ってきた。
「私のしたことで、どれだけ真希とお母さんが傷ついて苦しんだか反省しろって、すごい剣幕で怒られて。でも、そのあと、本当に良かった、って泣きながら抱きしめてくれて。嬉しくて、私も泣いちゃったんだ」
「へー」
舞歌の言葉を受けて、舞歌の横――俺から見ると舞歌の後ろ――にいる真希に視線を向けると、彼女はめずらしく頬を赤くし、俺を睨むように
「何よ?」と呟いた。
それが強気な彼女の照れ隠しだということがしっかりとわかっていた俺は、別に、と笑顔を返す。
それに対して不満そうな顔をしていた真希。
そのめずらしい顔に満足して、視線を外したのが、俺の敗因だろう。
その時の真希は、実に悪戯な笑顔を浮かべていたのだ。
「ねえ、紡」
「んー?」
弁当の包みを開ながら返事を返していた俺は、真希の次の言葉で思わずそれを落としそうになった。
「なんで舞歌のこと抱かなかったの?」
「はっ…!?」
慌てて視線を真希へ。
彼女は実に勝ち誇った、彼女らしい不敵な笑顔。
「言ってる意味わからなかった?なんで舞歌が誘ったのに舞歌とセックスしなかったのかって聞いてるんだけど」
「いや、言ってる意味は最初からわかってるから!それよりなんで…」
お前がそれを知ってるんだ。
その台詞を俺は飲み込む。
彼女は舞歌の隣にいる。
当然俺が彼女を見ようとしたら、間にいる舞歌も視界に入る。
その視界にいる舞歌がしていたアクションに、俺は言葉を飲み込み、彼女に視線を移す。
舞歌はとてもいい笑顔の前で、両手を合わせていた。
ああ。ソウイウコトデスカ。
深夜の女子の会話は危険なんデスネ。
「で?なんで?」
俺が悟ったのを見て取るや、真希からの追撃。
ギギギ、と錆び付いた首を再度動かし、真紀に視線を向けると、彼女はにやにやにやにやしていた。
逃げられない。つまりは諦めるしか選択肢はなかった。
「…一応昨日、迫ってきた舞歌にも事情は説明したはずだけど、聞いてないのか?」
「ええ。舞歌がにやにや笑いながら紡に聞いてって」
俺はかなり鋭い視線で舞歌を睨む、が、彼女は明後日の方向を向きながら、下手くそな口笛を吹いていた。
しばらくの攻防も、結局敗者はいつもどおりだった。
俺は大きなため息をついてから視線を正面、すっかり淋しくなった山々へ向けながら重い口を開く。
「…舞歌のことだ。今舞歌のことを抱いたら、手術のあと抱くときに、胸の傷のこと絶対に気にするだろ。そんなつまんないこと気にしてほしくなかったんだよ」
舞歌は弱い。
俺はそのことを昨日の一件で重々理解した。
そんな舞歌に、俺の欲望でわだかまりを残したくなかったんだ。
だから舞歌のことを抱くのは舞歌が手術をし終わったあとと心に決めていたんだ。
それが真希にもわかったらしく、なるほどと頷いた。
「確かに舞歌はそういうこと、気にしそうね」
「ああ。それに…」
ちらり、と舞歌を横目で見る。
予想通り、彼女は期待に満ちキラキラとした視線を俺に向けていた。
やっぱりこの言葉をもう一度聞きたかったから真希に言わなかったんだよなー…
内心でため息をつくが、言わなかったら舞歌が騒ぐことが目に見えているので、しかたなく俺は続きを言った。
「…それに、舞歌の初めては、もう少し気の利いた所でしてあげたいんだよ」
「……ご馳走様」
満足そうににこやかに頷く舞歌。対照的にうんざりとした表情でうなだれる真希。
舞歌に抱きつかれたりキスされたり、このような笑顔を向けられて、嬉しくない訳はない。
しかし人前でこれをやられると、精神的に(主に俺の)よろしくないということをこの昼休みまでで嫌というほど俺は思い知った。
今度きちんと相談してみようと、俺は心に固く誓ったのだった。
「あ、でも紡の初めては私が貰ったわよ」
『……は!?』
そんなことを考えている時に、真希がそんなことを言い出し。俺と舞歌は驚きに声を揃えた。