第五十話
静かな世界。
木々に囲まれた空間から空を見上げれば、そこには溢れ落ちんばかりの宝石達。
時折吹く柔らかい風が木々をかさかさと揺らし、その音色がまた、この世界の美しさを際立てていた。
小さな木のベンチに寝そべりながら見上げた星空。
東京からこの地へきてもう二ヶ月が経とうとしているのに、いまだ見飽きることはなく。
――二ヶ月。
それを“もう”と言うべきか、それとも“まだ”と言うべきか。
この地にきて“もう”二ヶ月が経つ。
その間、色々なことがあり、色々なことを知った。
この場所も、俺達の秘密基地も、この二ヶ月で知った場所だ。
この場所で、俺達にとって大切なこの場所で、俺は出会って“まだ”二ヶ月しか経っていない少女のことを待っていた。
そう――
「……サボり魔発見」
――俺が一緒に笑っていたいと、生きたいと心から思える、大切な彼女、遠野舞歌のことを。
第五十話
「学校サボっておいて人のことを呼び出すなんて、紡はずいぶんと偉くなったねぇ」
「仕方ないだろ?“色々と”やることがあったんだから」
「ふーん」
「そういうお前だってずいぶん遅い到着だな。指定した時間よりも二時間以上の遅刻だぜ?」
「仕方ないでしょ?“色々と”やることがあったんだから」
「ふーん」
白々しい会話。
感のいい彼女はもうわかっている。
俺が今日学校を休んだ理由も、自分がこうして呼び出された理由も。
そして、俺もわかっていた。彼女が時間よりも遅れて現れた理由を。
舞歌は時間がほしかったんだ。
心の整理と、俺の説得に“屈しない”心構えをする時間が。
色々と知り、この二ヶ月、舞歌と濃密な時間を過ごした俺だからわかる。
制服のまま現れた彼女の表情からは、そういう決意が伝わってきた。
「…こうしてきちんと向き合って話すの、ずいぶんと久しぶりだね」
「ああ。そうだな」
決意の眼差しはそのままに、舞歌は微笑みを浮かべながら俺が寝転がっているベンチの方へと歩いてくる。
そしてベンチの一歩手前で歩みを止め、口を開く。
「隣り、いい?」
「ああ」
彼女の要求がわかっていた俺は、慌てることなく体を起こし、舞歌に席を譲った。
そして俺はそのままベンチの背もたれに体を預け、再び空を見上げる。
一方舞歌も、俺の行動が予想できていたのだろう。小さく、ありがと、と告げ、俺の横に座り俺と同じように空に視線を移した。
「綺麗な星空だねー」
「ああ。特に夜へと変わる瞬間の空は綺麗だったぞ」
「…帰ろうとか、考えなかったの?」
「まったく」
舞歌との約束の時間は夕方の5時。
現時刻は7時半過ぎ。
その間俺はずっと、ベンチに寝そべり空を見続けていた。
冬の空。空気の澄んでいるこの村の空は東京のそれよりも変化が激しい。
夕方の鮮やかな茜色。夕方と夜の中間の瑠璃色。そして夜の漆黒。
その変化が、まるで化学反応のように劇的に変わるのだ。
その変化を見ていることは決して退屈なんかじゃなかった。
それに…
「遅れようと日付が変わろうと、舞歌が来るのはわかっていたからな」
「…そっか」
横目で見た舞歌の顔。
彼女は照れたのか、嬉しかったのか、はにかんだ笑顔を浮かべていたが、自分を戒めるかのように下唇を噛み、再びあの眼差しを取り戻す。
俺はそれに気付かないふりをして、再び視線を空へと戻した。
流れる沈黙。けどそれは、決して苦痛なものではなく、穏やかな時間。
静歌さんを前にしたときは、あれほどなにから話すべきか迷いテンパっていたのに、今はそんなことすら考えていなかった。
ただなにも考えず、舞歌と星空を眺めている。
ただそれだけで俺の心は安らぐ。
もちろん、きちんと話しをしなくちゃいけないのはわかってる。
けど今は、もう少しこうしていたかった。
「…ねぇ、紡」
そんな心地いい沈黙を壊したのは以外にも舞歌だった。
「紡はさ、私の病気のこと、知っちゃった?」
「…ああ。真希に静歌さん。それに親父から聞いて、全部知ったよ。舞歌が心房中隔欠損症なんだって」
「あはは。そういえばそういう名前だったね。私の病名は」
力無く笑う舞歌。その表情を俺は知っていた。
例えば総合店で、例えば秘密基地で、一瞬だけ覗かせた諦めと悲しみの入り交じった、あの表情だった。
「そういえば、って、まさか忘れてたのか?」
「うん。だって覚えてたって意味ないから」
「意味ないって…」
「私にとっては結果が全てだから」
「………」
真希や静歌さんが言っていた通り、舞歌は諦めている。生きることを。
自分の病気を受け入れ、結果が一つしかないと思い込んでいる。
舞歌の儚い笑顔がそれを物語っていた。
「ねえ紡。初めて会った日にさ、神様っていると思う、って聞いたの覚えてる?」
「……ああ。そんなこともあったな」
あれは昼休みのことだった。
舞歌達に昼飯を盗み食われ、腹をたてていた時に、彼女は突然そう言ったんだ。
「その時さ、紡はいようといまいと関係ないって答えたじゃん?その答えが、理由が私には新鮮だったんだよ。そういう考え方もあるんだぁ〜って思ったの」
「舞歌はどうなんだ?神がいるって思ってるのか?」
「まさか。私は神様なんていないって思ってる。…だって、もしいたならこんな不公平なことはしないと思うから」
舞歌が言った不公平。それはきっと、自分の病気に向けられた言葉なのだろう。
確かに舞歌は不公平なのかもしれない。
けどそこまで不公平でも、ない。
舞歌は助かるんだから。手術さえ受ければ。
「なあ、舞…」
「ねえ、紡」
いざ説得しようと意気込み口を開いたものの、それは舞歌にあっさりと遮られた。
内容が内容だけに、先に俺の話しを聞いてもらおうと思い、そう口にしようとした、まさにその時だった。
「……好きだよ」
彼女が意外な言葉を口にいたのは。
「舞歌…?」
それに驚き、俺は舞歌の方に顔を向ける。
彼女はあの眼差しのままではあるけど、優しい笑顔を浮かべていた。
「うん。やっぱり私は紡が好き。二人で買い物に行った、紡にここを教えた次の日、梢ちゃんに質問責めにあったよね。あの日私はすごく後悔していたんだ。私がした行動で紡に迷惑をかけた、傷つけたって。そう思って、私は紡の目を見れずにいた」
けどね、そう言葉を続け、舞歌は笑顔を俺の方へと向ける。
「紡言ってくれたよね。『お前がどういう気持ちで手を繋ごうとしたのかは知らない。けど、俺はそれを受け入れた。嫌じゃなかった。恋愛感情うんぬんは別にして、俺はお前のことを気に入ってるんだ。それに、散々人を振り回しておいて、こんなつまらないことで迷惑かけたとか思うな。似合わないんだよ、お前にそんな顔は』って。あの言葉、すごく嬉しかった。紡は傷を負っているのに、人と関わりたくないはずなのに、クラスのみんなの前でそうやって私を元気づけてくれた。私を笑顔にしようとしてくれた。それがすごく、嬉しかったの。その言葉に、その行動に、私は紡のことを好きになったの」
「舞歌…」
予想だにしていなかった舞歌からの告白に、俺は戸惑う。
嬉しくないか、といわれれば、もちろん嬉しい。
真希や静歌さんから、舞歌は俺のことが好きだと聞かされてはいても、実際に舞歌の口から“好き”という単語を聞くのは初めてだったし、好きになった経緯を聞くのは初めてだったから。
けど、やっぱり違和感を感じる。
彼女の浮かべている決意の眼差しが、どうしても、気になった。
「……でもね」
その違和感が間違いでなかったと、彼女の決意の意味を俺はきちんと捉えていたんだと、俺は次の舞歌の言葉で悟った。
「やっぱり、紡と付き合うことは考えられないな…」