第四十六話(前半)
第四十六話
ちくたく、とリビングには時を刻む歌だけが流れる。
お茶を入れてくれた静歌さんが俺の前の席に向き合うように座ってから、俺達の間に会話はなかった。
静歌さんは、先の言葉を言ってから口を開かず。
俺は俺で、なにから言えばいいか、聞けばいいかわからず。
けりをつける、そのつもりで俺はここにいる。
けど静歌さんを前に、なにから切り出すべきか俺は迷っていた。
いきなり俺の気持ちを伝える?
それとも静歌さんの思いを聞く?
それとも舞歌のことを聞く?
それとも…
「紡君」
広がっていく選択肢。その広大化を止めたのは、意外にも静歌さんだった。
「紡君は、真希ちゃんと話したのよね?」
「あ、はい」
「舞歌のことを、聞いたうえでここにいるのよね?」
「はい」
「そう…」
目をつむり、なにかを考えるかのように、気持ちを落ち着けるかのように短い息をはく静歌さん。
俺はせっかくできたこのきっかけを無駄にしたくはなかった。
なにから切り出すか決まってなどいないけど、とにかく、静歌さんに話そうと思った。
「あの…」
「紡君は」
…なんというタイミングの悪さだろう。俺が切り出したまさにその瞬間、それとほぼ同時のタイミングで静歌さんが口を開いた。
ちゅうちょする俺。しかし静歌さんは、そのまま続けた。
「紡君は、どういう答えをだしたの?」
「…ここにこうしていることが答え、じゃ、わかりませんか?」
「聞きたいのよ。あなたがだした答えを、あなたの口から」
眉をひそめ聞き返す俺に、静歌さんはそう答え。
真剣な声色とは反対に、静歌さんの顔には表情がない。
…俺は、この顔を知っている。
真希と同じ、泣くのを我慢している、感情を押し殺している、あの顔だ。
「俺は…」
言葉はまとまらない。整理もつかない。
けど俺はそれでもいいと思った。
無理にまとめるんじゃなくて、支離滅裂でも俺の考えを俺の言葉で伝えようと思った。
「俺は、今までずっと怯えてました。以前付き合っていた彼女と別れるとき、ちょっといろいろあって…。それからずっと、裏切られたらどうしよう、もう傷つきたくない、そんなことばかり考えてました。本当傲慢ですよね。自分のことばかり考えて、相手のことをちっとも考えてないんですから」
苦笑いが浮かぶ。本当に俺は弱かったんだなぁ、と思う。
「そんな時親父が教えてくれたんです。傷つかない恋愛なんてないって。傷つきたくないなら恋愛ごっこをしてろって」
だからって今、強くなったかといえば、そうでもない。
ただ、ものの考え方が変わっただけだ。
けど、それでいいと思う。
俺は強い人間じゃない。だからそうやって少しずつ変わっていければいいと思う。
そう、彼女と一緒に。
「舞歌のことは好きでした。でも付き合いたいかどうかはわかりませんでした。でも舞歌と恋愛ごっこをしたいか、そう考えた時、答はでました」
決心がついた今でも、あいつのことを思い出すと、少し辛い。
けど目を閉じれば舞歌がいる。舞歌の笑顔がある。
だから、大丈夫。俺はもう、大丈夫。
あいつの笑顔が、俺を強くするから…
「俺は舞歌とは恋愛ごっこはしたくない。舞歌と、傷つけ、傷つけられ、そうやってお互いの嫌なところも良いところもわかりあって、分かちあう。そんな本当の恋愛がしたいんです。舞歌と。舞歌の隣りで笑っていたし、舞歌に隣りで笑っていてほしい。一緒に生きたいんです。だから俺は、舞歌を説得します」
「…紡君。それは、口で言うほど簡単なものじゃないわよ?」
「わかってはいるつもりです。けど、簡単じゃないからって諦めることなんてできない。諦めたりなんか、絶対しません」
「……舞歌が、そのことを望んでいないとしたら?」
静歌さんの顔から、さらに表情が抜けていく。人形の顔へと近づいていく。
…それはつまり、堪えているということ。自分を殺しているということ。
本当は言いたくないんだ、こんなことを。
「あの子は生きることを諦めているんです。そんなあの子が紡君と一緒にとはいえ、生きることを望むとは思えないのよ」
「…そんなことありませんよ。舞歌は、本心では生きることを望んでいます」
「なんでそんなことが言えるのかしら?舞歌に確かめたりしたわけじゃないんでしょ?」
「教えてくれたんです。真希が」
「真希ちゃん、が…?」
・・・・・・・・・・・・
「そうそう紡。無意識の矛盾って話し、前にしたの覚えてる?」
学校を出るために真希と並んで昇降口へ向かっている途中、彼女そう口を開いた。
「ああ。あの好きなのに認めない、っていうあれだろ。けどそれがどうした?」
「うん。あれねあんただけじゃなくて舞歌もそうなんだよ」
「舞歌も?」
「そう。静歌さんから話しを聞いた次の日、あのこ普通に話しかけてきたでしょ?困惑してるあんたが舞歌の目論み通り距離を置こうとしてるのに、何度も、何度も。それが舞歌の無意識の矛盾なんだよ」
確かに言われてみればおかしかった。
俺と距離を置きたいのなら、話しかけてこなければいいのだ。
それなのに、舞歌は何度も話しかけてきたし、変わらず一緒に昼食をとろうとさえしていた。
「頭では距離を置こうとしてるのに、行動はまるっきり真逆のことをしてる。あんたは自分のことで手一杯だったから気づいてないだろうけど、ここ最近の舞歌は無意識の矛盾を繰り返してるの」
悪かったな自分のことで手一杯で。
その台詞を俺はなんとか飲み込んだ。
昇降口が近くなっている今、下手な突っ込みを入れて話しがうやむやになるのが嫌だったから。
「なんでそういう無意識の矛盾が頻発しているか。答えは簡単。あんたの存在が、舞歌の中でどんどん大きくなっていってるからだよ」
「俺の、存在が…?」
「そ。頭では離れようとしてるのにそれができないくらい、感情の制御ができないくらい、あんたへの想いが大きくなっていってるの。そして舞歌は、そのことを決して認めようとしない。その結果生じる無意識の矛盾。…残りの人生は好きに、やりたいように生きる、そう豪語していた舞歌が、あんたから逃げてる」
そう言って、くすり、と笑った真希は足を停め、穏やかな笑顔で俺を見上げた。
「紡。舞歌の無意識の矛盾は、つまり舞歌の本心は、あんたと一緒にいたいんだ。舞歌もあんたと一緒に笑っていたいんだよ。だから大丈夫。説得できるよ。だから、お願いね。紡」
・・・・・・・・・・・・
「俺は真希の言葉を信じます。舞歌のために、本気で悩んで、本気で苦しんで、そして本気で泣ける、そんな真希の言葉だから、信じます」
「本気で泣ける、って泣いたの?真希ちゃんが?」
戸惑いと驚きが交じった表情の静歌さんに、俺は頷いてみせた。
「ええ。大泣きしながら、舞歌を助けて、って言われました」
「……そう」
静歌さんの顔に、色が戻る。人形の顔が消えていく。
「真希ちゃんは託したのね。あなたに」
そう言って目をつむる静歌さんの顔には穏やかな笑顔が浮かんでいて。
初めて会った日と同じ、いや、それ以上に優しい笑顔がそこにあった。