第三十七話
「そういえば、親父とこうして飯を食うのって、ずいぶんと久しぶりじゃないか?」
とある日曜日。俺は昼食の準備をしながら、リビングで新聞を読んでいる親父に声をかけた。
「そうだな。最近は急患やらなにやらで忙しかったからな」
「あー、それで日曜家にいなかったんだな」
この村には、病院は一つしかなく医者も親父しかいない。(もちろん看護師は数人いる)
こう言うと以前は村には医者がいなかったのか、という話しになるが、そんな訳はない。
親父の前にこの村で医者をやっていたのが、なんでも親父の大学時代の同級生で、仲が良かったらしい。
親父が言い出したのか、その人が言い出したのかはさだかではないが、親父はその人と入れ代わる形でこの村の医者になった。
本来そういうことはできないのであるが、あちこちに顔のきく親父がコネやら権力やらを使って無理矢理行ったらしい。
なぜそこまでこの村にこだわったのか、以前一度聞いたことがあるが、答えてくれなかった。
まあ、それはともかく。
そんな理由で、急患が入ると親父の唯一の休みはなくなるのだ。――もっとも仕事に誇りと愛着を持っている親父にしてみれば休みなどどうでもいいのかもしれないが。
「なんだ?父さんと一緒に飯を食えなくて寂しかったか?」
「あほ言え」
最後の一品を食卓の上に乗せながら、俺はため息をつく。
男手一つで俺を育ててきた親父は、いまだに子離れできていない節がある。
今回のように、俺の言った一言を自分の都合のいいように解釈してにやにやするのはやめてほしい。キモいから。
「そうじゃなくて…ちょっと相談したいことあったんだよ」
そのことを俺は口にしない。本気で落ち込むのを見ているのは拷問でしかないから。
「相談?なんだ?」
俺の真剣な態度に気づいたのか、親父はにやにやすることなく、料理の用意された自分の席へと腰を下ろす。
「うんあのさ…」
俺も親父の正面に腰を下ろし、ゆっくりと口を開いた。
「親父さ…恋愛で傷ついたことって…ある?」
第三十七話
「恋愛で傷ついたこと、か…」
「………」
俺は静かに親父からの返答を待つ。
確かに親に自分の色恋沙汰を相談するのは気恥ずかしい。
けど親父は、俺が真面目にした質問には必ず真面目に答えてくれた。
親父に相談して解決しなかったことだって、もちろんある。けど、親父の言葉に救われたり勉強になったりしたことは、多々ある。
それなので、今回も、解決しなくても、答えを出すに至るきっかけになればいい、そう思って質問したんだ。
正直言って自分ひとりで考えるのには限界がきていた。
同じ問い、同じ答えが繰り返されその度に、でも、いやだけど、そう否定してはふりだしに戻って。
出ない答えと焦る自分が嫌になって、楔を求めたのだ。
「もちろんあるさ。と言うより、傷つかない恋愛なんて、痛みを負わない恋愛なんてただの恋愛ごっこさ」
「恋愛…ごっこ?」
親父の答えにおうむ返しで尋ねると、親父は頷いた。
「そう。恋愛ごっこ。いいか、紡。自分と違う人間と付き合うのには、常に痛みが伴う。考え方や、解釈の違いで傷つけたり傷ついたりする」
「………」
「それがない、っていうことは、相手ときちんと向き合ってないってことだ。傷つけられるのが怖いのか、傷つけるのが怖いのか、それともまったく別の理由か。相手を見ようとしない。相手に自分を見せない。そんな薄っぺらい表面上の付き合いなんて、恋愛ごっこ以外のなんでもないさ」
「………」
親父の言葉が胸に突き刺さる。
俺自身、そう思っていた。彼女と俺は恋愛ごっこをしていたんだと。
けど、それを他人から言われるのは、それなりにショックなことだった。
「紡」
俯く俺にかかる声。顔を上げ親父を見ると、親父は優しい表情をしていた。
「お前が今なにを考え、なにを思っているのかは知らない。けどな、お前が傷つき苦しんでいることは知ってる。それはつまり、お前は恋愛をしていたってことだ」
「……ぁ」
「相手がどう思っていたか、お前達がどういう付き合いをしていたのかは知らない。でも、お前は確かに恋愛していたんだ。だから、傷ついてるんだよ。お前は」
「……ありがとう…」
最近、どうも涙腺が緩んでいるみたいだ。
泣くつもりなんかないのに、自然に瞳に涙が浮かぶ。
俺自身、彼女との付き合いを恋愛ごっこと思っていた。
智也達クラスメートのおかげて彼女のことは過去にできたし、逆に教訓にすることもできた。
…でも、傷事態が癒えたわけではない。
さっきの親父の言葉のように、ちょっとしたことで傷はあっさりと開く。
だから、嬉しかったんだ。
認めてくれたことが。
俺は彼女に裏切られた。
俺は彼女とのセックスに溺れ、彼女の中身を見ようとしなかった。
けど…それでも俺は、彼女のことが、好きだったんだ…
彼女は違うだろうけど、俺は恋愛をしていた。
幼稚なものかも知れないし、間違ったものなのかも知れない。
けど、確かに俺は恋愛していたんだ。
あの時の俺にとって、彼女は世界そのものだった。
だから裏切られて傷ついたんだ。
だから人を信じられなくなったんだ。
そういう、俺自身、恋愛ごっこと思っていた彼女との恋愛。それを、俺はきっと、誰かに認めて欲しかったんだ。
その証拠に、親父の言葉が嬉しくて、救われたような気がしたんだ。
「…ありがとう」
もう一度、親父に礼を言う。
親父は、優しく笑っていた。