第三十二話(前半)
「はぁ…」
こぼれたため息。
それは白い息となり、青い空へと吸い込まれる。
ある日の昼休み。
俺は、屋上の例のベンチに座り、孤独な食事をしていた。
一之瀬、智也達と本当の意味でクラスメートになった今、このような場所で一人で食事をしたくはないのだけれど、あの日言った、なるべく早く仲直りする、という言葉のせいで、逆に俺は教室にはいられなくなってしまったのだ。
あの日以来、舞歌以外の全員が、事あるごとに俺に期待のこもった視線を送ってくるようになった。
それは朝登校した時であったり、授業の合間の休憩時間であったり。
彼らが俺のことをどう思っていて、どうしてほしいのかを知った今、彼らの気持ちも期待もわからない訳ではない。ないが…
「そうは言ってもなぁ…」
これがただの喧嘩であったならすぐにでも仲直りしたいのだが、これはそういうたぐいのものではない。
今までのことをなかったことにして以前のように舞歌と接するのは、あまりにも都合がいいし、それに真希の言葉もある。
『舞歌のことを聞いたら、あんたは選ぶことになる。それでも舞歌のことが好きで、舞歌と共に生きるか、ことの重さに堪えられず、舞歌から離れるか。もしくは私や静歌さんのように、なにかをすることもできず、かといって離れることもできず、知りながらもただ見守ることしかできない、辛い日々を送るか。あんたはこの三択を選ぶことになる』
この言葉が示すのは一つの可能性。最悪の可能性。
もしかしたら、そう感じたのは俺のはやとちりで、実際には深い意味なんてないのかもしれない。
けど、その可能性が少しでもあるのなら、俺は簡単に答えを出してはいけない。
きちんと自分自身で覚悟を決め、決意をしなくてはならないのだ。
過去は過去にできる。
それを知った今でも、俺はその覚悟も決意もできずにいた。
そう簡単に割り切ることはできなかった。
割り切り、先に進む勇気が、なかったから。
「…はぁ」
自分がこれほど弱い人間だとは思ってなかった。
そして、それを自覚してもなお、なにもできないくらい情けないとも、思ってなかった。
ため息とともに見上げた空。
その透き通るような青が、逆に恨めしかった。
第三十二話
「紡。少しいいかな?」
「智也…?」
今日という一日のスケジュール(と言っても学校でのものだが)が終わり、再びあの視線を向けられ、居心地が悪くなる前に逃げ帰ろうとした矢先…
俺の横には智也が立っていた。
「ちょっと話しがあるんだけど、屋上まで付き合ってくれないかな?」
「………」
ちらり、と舞歌の席を盗み見ると、そこの主は既に姿を消していた。
彼女が学校が終わるのと同時にいなくなることは、たまにあった。
だからそのことはたいして不思議ではない。
不思議なのは“舞歌がいないのにも関わらず”俺と話しをするために場所を変えようとする智也だった。
まだ記憶に新しい、数日前の大振る舞い。
あの時はクラスメート全員を残し、全員の前で話しをした。
それゆえに、今更隠すように場所を変えようとする智也に疑問を覚えたのだ。
しかし……
「…わかった」
俺は異論を口にすることなく頷いていた。
智也の瞳から、不安や焦燥を感じ取ったからだ。
「ごめんね。じゃあ行こうか」
促され、俺は手に持っていた鞄を再び机に戻し、席を立った。
・・・・・・・・・・・・
「…で、話って?」
今日二度目の屋上は、しかし、その姿を変えていた。
青かった空は茜色へと姿を変え、もうすぐその色を黒へと染める準備をしていた。
それにともない気温も下がり、少し、肌寒い。
「うん…」
俺より先に足を踏み入れた智也は、そのまま直進し、フエンスの前に佇み。
俺はそんな彼から少し距離を置き、彼の背を眺めたまま先を促した。
「あのさ、紡。もしかして…いや、多分、間違いないと思うんだけど、僕たちのせいで、紡、居場所なくしてないかな?」
「………」
「…やっぱり」
俺は智也の問いに、言葉を返さなかった。
しかし、聡明な彼は悟ったのだ。
俺は“答えられない”のではなく“答えない”のだと。
振り返り俺の顔を見る智也の瞳には、確かな謝罪の意思が浮かんでいた。
「…ごめんね紡。僕たちはそんなつもりじゃ…」
「わかってるさ…」
そうやって謝ろうとする智也の言葉を俺は遮る。
俺もわかっているから。彼らに悪気が一切ないことに。
「確かに智也たちから向けられる視線から俺は逃げてる。励ましてくれてるのはわかってるけど、でも、それが逆にプレッシャーにもなってる」
「……ごめん」
「…謝るなってーの」
俯く智也に俺は苦笑いを浮かべる。
「今のはただの愚痴だから。悪いのは俺だ。弱い、俺。先に進むのが怖くて。繰り返されたら、ってもしもの話しに怯えて。うじうじしたまま答えの出せない、弱い俺のせいだから」
「紡…」
「だから智也が謝る必要なんてない。もちろん、みんなにも。…悪いな。なるべく早く仲直りするって言ったのにさ」
「そんなことはいいんだ!僕たちこそごめん…。紡たちに早く仲直りしてほしいからって、焦りすぎたんだ。その結果紡にプレッシャーを…」
「あれがあったから、俺は智也と友達になれたんだけど?」
「え…?」
遮る俺に、きょとんとする智也。
そんな彼に、俺は苦笑いを浮かべた。
「おいおい…そう思ってたのは俺だけか?」
「ち、違う!それはない!けど…」
「けどはなしだ。俺は感謝してるんだから。お前に。お前らに。だから謝らないでくれ。友達なら」
「…卑怯だよ、紡。そう言われたらなにも言えないじゃないか…」
「なんとでも言え。言わせないために言ったんだから」
俺の皮肉に、今度は智也が苦笑いを浮かべる番だった。
「…ありがとう紡。僕からみんなに言ってみるね。あんまり紡を見すぎるなって」
「はは…。そうしてもらえるとたすかるよ」
わかっている。俺も、智也も。
口で言ったって、そう簡単に人の欲望は消えるものじゃない。現状は良くなるかも知れないけど、それでも俺に向けられる視線が無くなるわけではないだろう。
「紡」
「ん?」
そんなことを考えながら去りつつある茜色を見上げていると、智也の声。
彼に顔を向けると、彼は優しく微笑んでくれた。
「さっき紡は、自分が弱いって言ってたけど、そんなものだと思うよ、人は。弱いからこそ人は助け合い、支え合って生きてるんだから。だから紡は、恥じるべきことなんてなにもないんだ。むしろそれを認めて他人に言える分、強いと思うよ。僕は」
「………」
胸が温かくなる。
智也の言葉からは、彼の優しさが溢れていた。
「ありがとう。智也。そう言ってもらえて、救われたよ」
「お礼なんか言わなくていいよ。僕のことを“親友”だと思っているなら」
「こいつ…」
先程の俺の台詞に似せた物言いの智也に苦笑いを返す。
それは、一種のポーズ。
精一杯の強がりだった。
「親友だのなんだの、さっきからよくもまあそんなくさい台詞を言えるな」
「そうかな?普通だと思うけど?」
「…ったく」
強がらなければ、ひねくれた物言いをしなければ、俺は今にも泣き出してしまいそうだったから。