第一話
高いビル達に代わり、パノラマに広がる山々。
十月も後半になったからか、鮮やかな彩りが山々の表情を変え、目に喜びを与えてくれる。
こんな風景のことを、心洗われるような風景と呼ぶのだろう。
けど――
「はぁ…」
――そんな風景を前にしても、俺の心は洗われることはなかった。
教室内のざわめきが漏れ聞こえる、思い出したかのように、時折軋む音を鳴り響かせる木造二階建て校舎の二階の廊下に立ち、隙間風が入り込む窓ガラスの向こうの風景を眺めながら、俺は本日のため息数を一つ、更新した。
嫌で仕方なかった。正直言って。
あの日彼女と別れてから二週間。既に住み慣れた東京を離れ、こうして新しい地での生活を始めようとしているけど、俺は未だに吹っ切れてはいなかった。
別に彼女に未練が有る訳ではない。
そうではなくて、俺は人を信じることが出来なくなったんだ。
愛してる。一緒にいたい。
そう口にし、唇を重ね合い、互いの温もりを感じあった俺達。
だけどその数日後にはあっさりと別れを告げられて。
結局あの言葉は、その場を盛り上げる為だけの合言葉に過ぎなかった。
そんな風に、人間は相手を利用する為に平気で思ってもいないことを口にする。
勿論、誰もがそうである訳ではないのだろうが、少なくとも今の俺にはそう思うことは出来なかった。
だから俺は嫌なんだ。今から人と関わらなくてはいけないことが。
だから朝からため息が止まらないんだ。
…出来ることなら一人でいたかった。人と関わりたくなかった。
…でも、そんなことは不可能だということを、人は一人じゃ生きていけないということを、俺は子供の頃から親父に教わって知っていた。
一人で生きていると思ってはいても、それは思い込みなんだ。人は、必ずどこかで人と関わっている。
だからどんなに人と関わるのが嫌でも、関わらなくてはいけないのだ。
それに…
「じゃあ、転校生君!入って来て!」
新しい生活の幕は、もう開いてしまったのだから…
第一話
「草部紡です。よろしくお願いします」
古びた、やはり木造の教壇に立ち、僅か十数名しかいないクラスメイト達に当たり障りのない挨拶をし、頭を下げる。
顔を上げると、全員が俺のことを興味津々といった視線で見ていて…
わかっていた事とはいえ、嫌で仕方なかった。
「草部君は、お父様の仕事の都合で、先週、東京からこの村に引っ越して来たばかりだそうです。まだこの村には慣れていないと思うので、皆さん色々教えてあげて下さいね」
ざわざわと、担任の女教師の言葉に、予想通り、教室内が騒がしくなる。
そんな彼等の反応に、俺は作った笑顔を貼付けたまま、内心でため息をついていた。
「はいはい!騒ぐのはあとにして!今日は他にも連絡事項があるんだから!」
女教師の注意に一瞬静寂が蘇るが、やはり人間の好奇心は抑えられないらしい。先程よりもボリュームは落ちたものの、そこら中から囁き合う声が聞こえる。
「はぁ…。まったく…」
呆れたようにため息をつく女教師。けどそんな彼女の顔には諦めの表情が浮かんでいて。
仕方ないこと。そう彼女も思っているのだろう。
「ごめんなさいね、草部君」
「いえ。気にしてませんから」
「そう。ありがとう。じゃあ草部君の席だけど――」
相変わらず愛想笑いを貼付けたままの俺の言葉に、彼女は安心したような笑顔を浮かべる。
俺のことを、精神的に大人な人、と思ったのかもしれない。
それは勘違いに過ぎないのだけど、そのことを訂正するつもりはなかった。
面倒臭いし、評価を下げるようなことをわざわざしたくないから。
「――あそこの席なんだけど、大丈夫?」
女教師が指差したのは、三列ある列(男女のペアで一列なので、正確には六列)の真ん中の列の一番後ろ。
一番後ろといっても、十数人しかいない生徒達を三列に分けているので、黒板までそう距離はない。
俺は視力も悪くはないので、特に問題はなさそうだった。
「はい。大丈夫です」
「よかった。じゃあ席に着いてくれる?」
「はい」
軽く頷き、俺は指定された席へと向かう。
――集まる視線。クラス中から視線を感じる。
その全てを黙殺し、俺は自分の席だけを見て進んだ。
それは席に着いてからも同じで…
「それじゃあ連絡なんだけど……」
女教師の言葉も、集まる視線も、全て流しながら、俺は黒板だけを見続けた。
わかっていたから。これから“恒例の強制イベント”が行われることが。
だからそれまでの時間。それまでの時間だけは、現実逃避を、人に関わらないようにと、最後の悪あがきをしていたかったんだ……